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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
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Z世代
世代論には全く興味が無かった。 年寄りが若者をけなす方便、くらいにしか思っていなかったし、世代と言っているものはせいぜい、年代特性に時代性をかけ合わせた程度の差異、くらいにしか思っていなかった。 あるいは、世代というのは大雑把・あるいはステレオタイプすぎて、結局は各人の差異の方が大きい・重要なのだ、と考えてきた。 今も基本的認識に変わりはない。でも、Z世代と呼ばれる今の若者、彼らは本当に違うのかもしれない、そんな期待を抱いている。 Z世代の特徴として語られるものを列挙してみよう。 ウェルネス意識、フィットネス意識が高い、テクノロジーへのリテラシーが高いと同時に、あるいはそうであるがゆえに自然や生命の驚異・エコシステムの深遠さにも直感がある、バランスのとれた利他意識、エシカル消費意識、自分で判断する、世界を変える意識がある、民主社会主義的傾向が高い、等など。 こう挙げていくと、随分と立派で、彼らが未来を担っていけば世界は絶対によくなっていくに違いない、と思ってしまう。 考えてみると、ベビーブーマー世代もZ世代と似たような青春時代の思潮だったのではないか。彼らベビーブーマーは革命や反戦に立ち上がり、失望し、後にエコノミックアニマルよろしく企業戦士へと変貌していった。彼らのおかげで今日の繁栄があるのだが、一方で彼らの幻滅と小市民的価値観・転向がその後の世代の奇妙な“老成“基調を決めていったのではないか。だからこそ世代論に意味がない、戦後的価値観のヴァリアントに過ぎないと見えていたのかもしれない。 Z世代はどうなのだろう。上手く言えないが、彼らのほうがベビーブーマー世代よりもしなやかでしたたかな気がする。つまりはうまくやりそうな気がする。あるいは、熱と冷、希望と諦念、大きな物語と私的個人へのひきこもり、すなわち正と反、その葛藤を歴史的に止揚して登場したのがZ世代、と見るのは頭でっかちヘーゲリアンの雑な受け売りだろうか。 そうかもしれない。しかし、だとしても、訳知り顔で彼らを諭そうとする愚とは無縁でありたい。彼らと真剣に向き合える大人でいたい。一つ確実なのは、彼らは降って湧いたエイリアンではない。我々や我々の行為の累積が生み出したのだ。 企業も同様ではないか。働き手としても生活者・消費者としても、Z世代と真剣に向き合うことで未来が切り拓かれていく。そんな気がしている。 (文責:金光隆志)
習慣化のパラドクス
商品やサービスの利用をいかに継続・習慣化するか。昔からある議論だが、DX議論・サブスクモデルの流行、脳神経科学の発達などを背景に、イノベーション界隈のトピックとして再燃しているようだ。 習慣と言えば、商品購入などとは全く別の、啓蒙的な文脈で、「○個の習慣」やら「習慣術」やら「天才の習慣」やら、要は「善い習慣とは何か」を知りそれを「いかに習慣化するか」といった類のHow to本も最近やたら見かける。これはちょっとアイロニカルで面白い現象。考えてみよう。あなたの日々の生活の何割くらいが習慣でできているだろうか?殆どの人が意識しているか無意識かはともかく7、8割は習慣化した行動で日々を生きているはずだ。ことほど左様に、習慣とは根深く、ちょっとやそっとでは変わらんということだろう。啓蒙書の類は、それをやめて「よりよい習慣」に変えよう、と言っているに違いない。だがそれが出来ないから皆悩んでいる、悩んでいるから啓蒙書にすがる、でも出来なくてまた悩む、その繰り返しが、この啓蒙書の類の隆盛を支えているのではないだろうか。私なら、新たな「善い習慣化」などを勧めるより、徹底的に気が散るような「注意散漫ライフのススメ」をしたいところだが、そんな本を出したところで売れないだろうからやめておく。しかし、日常習慣の惰性を打ち破り、あなたを未知の世界との連結・切断を繰り返す「スルドイ」人に変えてくれるのは、注意散漫力をおいて他にない、と大見得を切っておこう。 脱線してしまった。商品・サービス購入・利用の習慣化に話を戻そう。 習慣化にはパラドクスがある。この点をよく了解し、商品・サービス政策を吟味することが習慣を形成する鍵であろう。どういうことか。 全ての習慣には習慣に先立つ「始まり」がある。ではどうやって始まるのか。もちろん興味関心、好奇心、欲望、などが「始まり」を駆動するわけだ。より今風に言えば、予期せぬもの・新しいものを期待する脳の報酬系が作用するのだが、ここに第一のちょっとしたパラドクスがある。端から関心のないことには脳は自動的・能動的にはピクリとも反応してくれないのだ。もともと関心があることにしか能動的には反応しない。しかし、関心があることはある程度知っている。その予測どおりだと思うと好奇心や欲望は駆動されない。つまり。もともと関心があるが、自分が知っていることと違う・あるいはそれ以上の何かがあるのでは、と思ってはじめて、脳は強くそれを知りたいと思うわけだ。ややこしいが押さえておこう。 さて、知っている以上の何か、を期待したとき脳は欲望し能動的に反応する。しかし一方で、脳はすぐさま、それ以上ってこれくらいかな、という期待水準も形成する。そして、実際の経験がこの予測を超えた時に、報酬系ニューロンが再び発火するのだ。脳は報酬系の活性化を受けて、それをまた欲望する。ここで、もしも十分活性化が起こらなければ、次はない。要はトライアルして終わり。つまり。関心があることで今まで以上の何か、それが最初の購買を駆動し、その何かの事前期待値を更に超える利用経験でリピート。ややこしいが押さえておこう。 さて、ここからが第2のパラドクスである。報酬系活性を受けて、2度3度と利用を重ねたとしよう。期待値はどうなっていくだろう?当然実際と予測の差は無くなっていく。しからばもう報酬系は活性化されないのでは?そのとおり。活性化されなければ、脳の報酬を求めて他の商品を試すのでは?そのとおり。関心が続いているのであれば。そう。ここにパラドクスがある。習慣化の始まりには「高関与」の期待形成が鍵となる。しかし、習慣化するには、「高関与」から「低関与」への移行が必要となるのだ。つまり関心が薄れること。合わせて、他に色々な商品が出ても「まあこの程度だろうな」という経験に先立つ予定調和的期待(のなさ)も形成されている必要がある。盲目な恋愛のごとく「高関与」で他には目もくれずLoveな状態、というのが暫く続くことはあろう。永遠に続く愛もあるだろう。だが大抵は盲目Loveからは落ち着いてくる。その時、恋愛には「高関与」だが今の相手にだけ飽きたら?当然浮気の虫がうずくだろう。つまりカテゴリー自体への「高関与」状態が続いているうちは「習慣化」は難しいのである。 ややこしいだろうか。だが、インプリケーションは単純である。 その①「高関与」のうちは、「期待値を超える期待」を形成し続けることが肝要である。 製品にちょっとした変化を加える、サービスをちょっと変える、などなど。これを怠れば瞬く間にあなたの製品は飽きられるだろう。だが、 その②できるだけ早くカテゴリー「低関与」へと移行させ、その前にシェアで決着をつけておけば習慣化の勝者となれる。「期待値を超える期待」ゲームは徐々に収束・終焉に向かう。競合製品も含めて「まあこんなもの」という「期待値どおりの期待」へと変わっていく。その潮目に目を光らせ、徐々にマーケット刺激を減らしていく。最早「期待値を超える期待」は競合にも付け入るすきを与えるから、邪魔になる。というよりも「低関与」化した市場では、少々目先を変えたクリエイティブ程度では市場は動かないと思った方がよいだろう。「低関与」を再び「高関与」にするのは、王道の大きなアンメットを解消する技術イノベーションまたは以前に論じた異質イノベーション、くらいのインパクトが求められるであろう。 「低関与」化は習慣化の必要条件、というより、「低関与」=「習慣化」である。 なお、「低関与」化にはリスクもある。低関与→どうでもいい→大差ないから何でもいい、の契機を孕んでいることだ。要するにコモディティ化。ブランド選考よりも買いやすさや価格選考などが支配的になっていく。これに備えてどうスイッチ障壁を築いておくか、が論点となり得るが、習慣化とは既に別の論点である。 (文責:金光隆志)
ブランド論(3)
ブランドとは記号現象である、という話を白鳥麗子を例えに展開した。 記号は、記号表現と記号内容からなる。ブランドで言えば、ブランド名やロゴが記号表現であり、記号内容とは、どんなブランドかという概念である。モノ自体ではない。しかしこれだと分かりにくいだろうから白鳥麗子に例えたわけだ。 さて、ブランドで大事なのは、どんなブランドでありたいか、である。個性をありのままで、というのが一番シンプルだし、それで上手くいくならそれにこしたことはない。だが商売においては人気が大事である。ここで、話を分かりやすくするため再び白鳥麗子に登場願おう。 白鳥麗子が選挙に立候補したとする。何が大事か。知名度である。どれだけ選挙民に知られているかと票数は高く相関するであろう。選挙民からすると、候補者の違いなんて殆どわからない。違いがわからなければ、知ってる人・ポピュラーな人に投票する確率が高い。 即ち。 低関与商品の場合には知名度が、記号内容よりも記号表現(が普及していること)が大事。 では、白鳥麗子がAKB総選挙に出馬した場合はどうだろうか。この場合、知ってるだけでは投票してもらえないだろう。投票するかどうかは、あなたが白鳥麗子を好きかどうか、によって決まる。では好きかどうかは何によって決まるか。見た目?パフォーマンス?キャラクター?ファンサービス?あるいは見た目とキャラのギャップ萌え?などなど。 白鳥麗子の「作り方」次第では、大衆人気を得られる場合もあるだろうし、一部のコアファンに熱烈に支持される場合もあろう。 即ち。 高関与商品の場合には知名度よりも、つまり記号表現よりも、記号内容を“好き”が重要。 記号内容については、裏切りが無いことも大切だ。美人だと思っていたのに素顔を見たら・・とか、誠実な人と思っていたらゴミを分別せずに捨てていた・・とか。台無しである。 ブランド論でいう一貫性とはこのことである。「こんな風に認知してもらいたい」という意図を持ってブランドの内容を作っていくこともあるだろう。ニーズ調査に始まりニーズ合わせて云々。だがあまりに作ったキャラで振る舞っているとボロが出やすいのでご用心を。 さて、人気商売にはもう少し捻れたカラクリもある。 みんなが好きだから好きになる、といったバンドワゴン効果、逆に「人より先に私は知ってる」「白鳥麗子を支持する私ってイケてる」といったスノッブ効果、などなど、他者にどう見られたいかが選択基準になる場合もある。記号内容それ自体(コンスタティブな意味)ではなく記号内容を選ぶ行為(パフォーマティブな意味)が意味を持つ。 パフォーマティブな意味を発揮するブランドは一般論として強いと言えるだろう。だが、コンスタティブな意味を抜きにパフォーマティブな意味生成を狙うのは難しい。実は優劣に客観的指標がない趣味判断領域においては、ネットワーク効果によってコンスタティブな意味判断をすっとばしたパフォーマティブな意味生成が起こり得るのだが、これは狭義のブランドマネジメント論を超える論点である。 (文責:金光隆志)
ブランド論(2)
前回コラムで、どんなブランド論も一面的・独善的であらざるを得ない、と指摘した。 そのことを承知した上で、あえてブランド原論のようなものを少し試みてみよう。 これもまた、一面・独善に過ぎないのだが、それでも、ブランドについて深く考えるきっかけになれば、と願う次第だ。 さて、ブランドとは何だろうか? ブランドとは現象である。現象?何の?記号の。 つまりブランドとは、記号現象である、というのが一先ずの定義である。 記号現象というからには、記号表現と記号内容があるはずだが。 ブランドにおける記号表現とは何か。分かりやすいもので言えば企業名や商品名、ロゴなどである。 では記号内容は? 実は、これこそが、ブランドといっても色々、であることの要因であり正体なのだ。 といっても難しい話をしているのではない。 例えば。あなたという人間がいる。あなたには名前があるだろう。 仮に白鳥麗子さんだとしよう。では白鳥麗子さんとはどんな人? もちろん「あなた」なのだが、ここでの問いは、では「あなた」とはどんな人?である。 恐らく「あなた」には色んな面があるに違いない。 容姿面から見た「あなた」、性格面から見た「あなた」、行動面から見た「あなた」・・ どの面であなたを見るかによって違うあなたが見える。その総体が「白鳥麗子」であろう。 ところで、あなたが付き合う相手によっても「あなた」がどう見えているか違うかもしれない。 「あなた自身」が人にどう見られたいか、によって、「あなた」の振る舞いは違っているはずだ。 それを相手によって変えていたら、相手から見た「あなた」の印象が相手によって違ってくるのは当然だ。 あるいは、「どう見られるかなんて気にしてない、私はわたしの好きなようにする」人なのかもしれない。 この場合、逆説的に、他人から見たあなたの印象は一貫して似かよったものになってくる可能性がある。 はたまた、「白鳥麗子」という名前自体、何かイメージを喚起する命名かもしれない。 白鳥麗子は、白鳥のように白く、静かに、しなやかに佇まう、麗しい人、云々。ステレオタイプというか字義通りに言えばそんなイメージか。 きっと親御さんは、どんな人になってほしい、という思いをもって命名したことであろう。 だが実際の白鳥麗子は、色黒でおしゃべりで闊達、スポーツ万能で色気より食い気、な人かもしれない。さすればそのギャップに驚く人も多いだろう。 あるいはもしかすると白鳥麗子は、地元では知らない人のいない美人のバリバリヤンキーだったかもしれない。 白鳥麗子は、名前を聞くだけでビビられると同時に、女子たちの憧れの対象でもあったかもしれない。 恐らく白鳥麗子には取り巻きがいたことだろう。 そして取り巻きたちは、取り巻きであることを誇示し、あるいは自分もちょっと白鳥麗子気取りだったかもしれない。。。。 云々。 さて。今、「白鳥麗子」というあなたについて考えてみたこと。 実はここに、ブランド現象のエッセンス、従ってブランドマネジメントの要諦・ヒントがほぼ全て現れているのだ、 というと悪ふざけが過ぎると思われるだろうか。 そう思う人は「白鳥麗子」をあるアパレルのブランド名だと思って、今一度読み返してみてほしい。 次回はこの「白鳥麗子」を手がかりに、ブランド現象をパターンとして了解することを試みよう。 (文責:金光隆志)
ブランド論(1)
ブランドについて今更語ることが残されているであろうか。 実際、ブランドについては数多の論が語り尽くされてきたであろう。 曰く、ブランドとはメッセージである 曰く、ブランドとは信用である 曰く、ブランドとは体験である 云々。 あるいは、 曰く、ブランドとは認知である 曰く、ブランドとはマーケティングである 曰く、ブランドとはビジネスシステムの総体である 云々。 さて、ではブランドの究極の定義とは何なのか? おそらくそんなものは存在しないであろう。 人が「ブランド」というとき、その人が何を指しているつもりなのか、人それぞれ・場合によりけりである。そこに「決まり」は無い。 従って「ブランド」が何を意味するのか、受け手の解釈は、属人的に、あるいは文脈依存的に、あるいは社会通念を参照に、様々に行われているだろう。 いくつか、意味が違いそうな「ブランド」の使われ方を見てみよう。 ・これはブランド品だ(ファッションや宝飾品などにおいて) ・これはブランド品だ(スーパーの食品において) ・これからはブランドビジネスを展開したい(新規事業企画において) ・ブランドを構築して認知を広めたい(既存商品マーケティングにおいて) ・等など どれも極く日常的に見聞きする光景だと思うが。 どうだろう。「ブランド」が何を指しているのか、それぞれで違いがある・ありそうではないか。 では例えば、世の中にある「ブランド価値評価」とやらは、一体何を図っているのだろう? あるいは「ブランド・マネジメント」とやらは、一体何をマネジメントしているのだろう? 「ブランド」の意味(機能と言ってもよいが)が一意的ではない中で、一つの価値基準、一つの方法論が普遍であろうはずがない。 いかなるブランド論も一面的・独善的であらざるを得ないのだ。 ブランドのことを考えるなら、先ずこの点に自覚的であることが肝要である。 (文責:金光隆志)
消費の生産
モノやサービスを生産して販売するのが企業。それは半分正しい。そして半分も足りない。 いや、もしかすると半分以下かもしれない。 つまりモノやサービスを生産して販売するだけでは企業活動として片手落ち。企業は消費、もっと言えば欲望を生産する主体でもあるのだ。 何を当たり前なことを?そうだろうか。 モノやサービスを必要(≒ニーズ)な人(≒ターゲット)に的確に知らせ(認知)買ってもらう(購買)、その為に注意や興味を引く装飾・修飾・レトリックも使う。多くの企業がマーケティングをそのように考えているのではないか。 殆ど主従が逆である。「ある」と「ない」も逆である。 もともと「ある」ニーズを掘り起こす、のではない。もともと「ない」注意や興味(≒欲望)を創り出し、そこに自社の商品やサービスをあてこむ・合わせる、その為にニーズだターゲットだといったレトリックも使う。 過激に聞こえるかもしれない。だが、それこそがアメリカが創ったビジネスフォーマット、アメリカ覇権の源泉と言っても過言ではないだろう。 大半の商品・サービスにとって、欲望は最初からあるのではない。欲望は作りだされなければならない。商品やサービスを作っただけではそれ自体は欲望中立的、と心得よう。 欲望は、社会・文化・心理・意識によって形成される。よって、それらを援用して形成すること。その為に刺激(シグナル)を構成すること。五感作用・認知作用・意味作用の法則・コードを援用すること。 欲望の形成はメディア特性にも大きく依存する。ソーシャル化したデジタルメディア環境では、欲望がより刺激ー反応的に、同時に模倣ー集団的に、一方で統合を欠いた分散ー部分的に、流動的になってきている。プラットフォーマーだけが勝ち続けられることと無縁ではない。 プロダクトアウトではなくマーケットプルのことを言っているのだろう、と思うかもしれない。全く違う。プロダクトアウトもマーケットプルも欲望についての考え方という点ではどちらも同じ穴の狢であることに敏感であって欲しい。 欲望は創られるものである。殆どの商品に対して、欲望は作られる前には存在しない。 欲望生産のビジネスシステムを洗練させること。欲望生産を軸に企業活動を再編すること。 あなたの企業・ビジネスを根底から変えることになるだろう。 (文責:金光隆志)
欲望の探求
あなたが何を欲するか。脳科学やビッグデータによって丸裸にされる日が来る? あなた自身よりもテクノロジーの方が遥かに正確に言い当てる、そんな現実/近未来が語られる。けれども、ことはそう簡単ではない。 欲望は何によって決まるのか。とても複雑だけどあえて少しパターン了解を試みよう。 その①生体的特性。例えば何故甘いものが好きか。甘味が脳内麻薬物質のβエンドルフィン産生を活性化させるからです。その中毒性たるやコカインなど麻薬の比ではないらしい。 その②学習的特性。例えば何故苦いものが好きになるのか。実はよく解っていない。生理的、社会的、状況的学習が絡み合い複雑なメカニズム。 しかし繰り返し経験する中で好きになったりやみつき(中毒)になったりすることは確か。 その③心理負荷軽減特性。例えばなぜ「おススメ」に従ってしまうのか。もちろんビッグデータやAIで、あなたが好みそうなものを提示されているというのはある。だが複雑・曖昧な状況はストレスホルモンを分泌させ、単純化はそれをリリースするというそれこそ単純なメカニズムも働いている。色々試着させられたらついどれか買ってしまう、等の背後にも働いているメカニズム。 その④社会コード。例えば何故LVのバッグが欲しいのか。乱暴に言えばLV持てば優越感を感じられるから。優越感はドーパミン等脳内麻薬物質放出のトリガーになります。ではなぜLV持つと優越感に浸れるか。そのように文化・社会によってコード化されているから。 その⑤模倣的特性。例えば何故ハロウィン仮装はかくも一般的になったか。私は2010年頃から仮装イベントに参戦しているが当時街中では変人を見る目で見られたものだ。ところが年々数が増え、いまや東京ならそこらじゅうどこでもみんな仮装している。もちろん仮装には④の裏返しとして日常性(コード)侵犯という欲望を駆動するメカニズムはあるのだが、この流行自体に必然性はない。多くの流行現象にはメカニズムはあるが必然性は無い。模倣が模倣がよんでネットワーク効果が働いた結果だろう。 その⑥作業的必要性。紙を切るのにハサミが欲しい、とかその手の話 などなど。まぁ人の欲望を丸裸にするなんてのは、とてつもなく大変なことだろうと思う。脳科学やデジタル、ビッグデータ云々だけでは無理。社会の学との相互通貫も求められる。とてつもない難事だ。 だけれども、断片的にでもこれらの知見を貯め続けると。事業創造も商品開発もマーケティングも、随分と面白くなってくるのじゃないだろうか。 そのような取り組みを仕組み化するのがクロスパートが開発し提唱しているSECT連携体制である。自分達で言うのもなんだが、これはスゴイです。3年も続ければ他の企業とは次元の違うイノベーション基盤と体質を手に入れていることでしょう。 (文責:金光隆志)
創造的態度
誰しも、どんな企業も、創造的でありたいと思っているだろう。書店にいけば創造性発揮の方法論や思考法に係わる本がずらりと並んでいる。私の知る限り、それらはほぼ全部、創造的に考える為の優れた技術、手段、ノウハウ、テクニックで、それぞれに面白いところがあるし、何某かの気づき・学びは必ずあるだろう。 しかし、創造性発揮の為には、手段に先立って大事なこと、本質的なことがある。それは思考態度とでも呼ぶべきものだ。それを欠いて手段に走ったところで、アイデアマンになれるのが関の山であろう。逆に、思考態度が染みついていれば、手段の洗練を欠いても、創造的で鋭い思考を実践することが可能になるだろう。 さて、 創造性発揮の思考態度には、ほぼ真逆の2つの方向性がある。その①は「それって本当か」 という、言わば真の問いや答えを追求する方向、その②は「そうだとすると」という、言わば問いや答えの外延をどんどん押し広げる方向、この二つである。 この二つ、方向性は真逆だが、実は創造性の敵に対して同様なチャレンジを行っている。 創造性の最大の敵は何か。思い込み?常識?バイアス?ステレオタイプ?確かにそれらは全て創造性の敵だが、真の敵では無い。それらは真の敵の影であり現象である。では真の敵とは?それは思考停止である。 何かを確定的・断定的に語った瞬間、思考がそこで停止している。何かを受け入れた瞬間、思考がそこで停止している。何かを無意識に行った瞬間、思考がそこで停止している。 創造性はそこから先にある。思考停止の瞬間を捉まえたその時こそ駆動させるべき思考、それが、①「それって本当か」②「そうだとすると」である。そして、①に引き続き「それって思い込みじゃないか」「それは一面でしかないのでは」「それが真の問いか」「もっと大きな文脈で考えると実は」「見方・切り口を変えると」云々といった思考が、あるいは②に引き続き「それってこういうことに繋がる」「それが真ならこうも言える」「それに因んで実は斯々然々で」「だとすると次に考えるべきは」云々といった思考が誘引されるだろう。 二つの思考態度をうまく駆動させるにはコツやテクニックというのもあるが、本稿の範囲を超えるので、次の機会に譲る。だが、習うより慣れろ。ことあるごとに①②の問いを発し、思考停止を破るクセをつけることが第一歩であることは付言しておく。 ところで、この思考態度、どこかでお目にかかった覚えは無いだろうか。 ピンときた人はなかなかに鋭い。最も原理的に思考するとはこういうことなのだが、ある哲学者が生涯にわたって実践していたこと、と言えばお分かりだろうか。彼は専らアイロニカルな結論に導くのが目的だったようではあるが。 (文責:金光隆志)
オルタナティブ未来構想
ここ1,2年、未来構想について見聞きすることが増えてきた。 個人的には6,7年前ごろからこの種のテーマで検討依頼を受けることが増えていたが、当時は、10年・20年先を議論する日本企業は稀な存在だった。 今や、未来を創造する、世界を変えるといった議論はごく普通にみる風景となった。未来を構想する企業が日本に増えることは喜ばしいことだ。 ところで、最近の未来構想に関する論調で気になることがある。未来構想においては主観こそが大事・重要という議論である。 「起こるであろう未来ではなく、起こし得る未来を構想せよ」「確定した未来などない、人間の意思・目的意識が世界を形成していく、未来は創られていくものだ」云々。 人間中心主義(というのも大げさだと思うが)、バックキャスティング、想定外未来、フューチャーセッション・・・などがこの手の議論の方法論的ヴァリアントだ。 論旨に異存はない。未来「構想」というからには、人が構想するのは当然である。 だが、「現状制約は一旦脇に置いて、ありたい未来・創りたい未来を議論し考えましょう」といった、未来構想ならぬ未来妄想。「自分主語で共感的な物語を紡ごう」「その物語を共感を通じて皆に広げていこう」といった共同主観的ナラティブなんとか。云々。こうなると最悪である。 断言しておこう。無駄骨である。 頭の体操的・発想法的研修ならいざ知らず、実践においてこんな議論から、覚悟ある未来への行動が生まれることはない。 なぜか。 現実のラディカルな理解なしに、クリティカルな問題意識は生まれない。 クリティカルな問題意識無しに、未来への覚悟・投機/投企は生まれない。 覚悟・投機/投企無しに、構想したナイーブな未来が実現することはない. ではどうするか。 本稿で詳述は出来ないが一つの方法は、現実をキュビズムのような手つきで解することだ。 現実の中にある、様々な兆候。微かな変調。異常の痕跡。それらをエクストリームに未来に向かって拡大・延長・展開してみること。するとどんな未来像が立ち現れるか。極端で非現実的なSF未来が浮かびあがるだろう。それでよい。その未来像から再び現在を振り返ったとき、クリティカルな問題意識が刺激されオルタナティブへの思考が発動する。 少しテクニカルな話をすると、エクストリームに拡大・延長・展開するとき、剥き出しの人間の欲望・社会の欲望を補助線にするとよい。そうして描かれた未来像は、非現実的であっても妙に生々しくリアリティがあるはずだ。 そして考える。 もし未来がこうなるのだとしたら、我々はどうなるのだろうか。 この未来において、我々にはどんな可能性が開かれるだろうか。 逆に、未来がこうならないためには、何が必要だろうか。 我々はどんなオルタナティブ未来を望むか。・・ この作業を繰り返してみる。繰り返した数だけオルタナティブ未来が浮かび上がる。 こうして考えたことがそのまま未来構想になるわけではない。 だが、そこから考えを地におろして、再び現実の諸条件、人々の欲望、自分達の欲望と照らして、オルタナティブ未来をよりリアルにイメージ出来るものへと慎重に画像修正する。 退屈な現状の延長でも、空疎なアイデアでもない、リアルでクールな未来構想へと近づいていることだろう。 未来構想が主観か客観かはどうでもいい。どっちでもいい。 大事なのはリアルのラディカルな理解からクリティカルな問題意識を駆動すること。 大袈裟に言えば、現実とは存在論的にも精神分析的にも、汲み尽くすことのできない生成可能性の潜在だ。 量子力学的な比喩も援用してパラグラフを続けよう。すべての未来がいまここにある。それらは確率論的に潜在している。次の瞬間確率1である状態へとあらゆる可能性の未来が集約される。と同時に再び可能性の潜在体として現前する。この現実≒確率論的未来潜在体に対して慣性の力は強力だが、その慣性に一瞬抗い僅かな変異をもたらす程度のエネルギーなら都合はつく。但し慣性圏を抜け出すには変異エネルギーを継続して供給しないといけない。その原理・原動力は欲望ポテンシャルである。 リアルこそ、優れてスリリングなSF小説ネタの宝庫であることを付言しておこう。 (文責:金光隆志)
専門性と創造性と教養と
専門性は創造性発揮の障害になる、と語られる。専門を突き詰めるほど視野狭窄に陥る、専門知識がバイアスになる、等など。 この傾向は半ば認めねばなるまい。専門性とは、ある認識のスキーマ(しかも多くの場合制度化されたスキーマ)において蓄積された知識と技術に精通・習熟し、それを縦横無尽・半ば無意識に操作できる状態を指す。つまりは無意識に、ある認識のスキーマで物事が見えてしまう状態になるわけだ。だから、そのスキーマの外でモノを見る・考えることに困難を伴う。かなり意識してスキーマの外で考えようと思っても、無意識の専門思考の方が勝って働く。だって無意識に働いてしまうのだから。 そこで昨今は、広い教養が必要、欧米では専門課程に入るまでに西洋的教養を徹底的に叩きこまれているが日本にはそれが欠けている、創造性の時代には専門性だけではなく広い教養が必要なのに、となっているわけだ。 教養が横断的知性の源になり得る、というのは正しいだろう。色々なことをつまみ食いしておくと、ある時ある事案で思いがけないフュージョンが起こらないとも限らない。 けれども、クイズ王的つまみ食いや、最近巷にあふれている「社会人の為の〇〇」みたいな本ばかり読んで幅広い教養を身に着けよう、なんて戦略は最悪。恐らくは茶飲み話にすら使い物にならないだろうな、と思う。 教養を「使い物になるか否か」という文脈で語るのも憚られはするけれど、使い物になる教養を身に着けようと思ったら、相応の訓練、その分野での認識のスキーマを最低限度は獲得し、多少の専門書も読める、くらいじゃないと。だって問題は認識のスキーマなのだから。色んな認識のスキーマでもって、一つのことがらを色んな切り口・眼鏡で見えるから創造性に繋がるわけで、「社会人の為の○○」読んだところでそんなもの身につきません。 よってもって「幅広い教養」を武器に創造性を発揮する、なんて戦略は、殆どの人に無理な相談なのです。 幅広い教養を否定しているのではない、むしろ教養を広め・深めていくことはとても楽しいことだし、人生を豊かにも、逞しくもしてくれる。だから若者たちには雑食でよいから色んなことに首を突っ込むことを推奨したい。先ずは入門からなんてチマチマせず、最初からプロ級の仕事や技にも触れていって欲しい。でもそれは奥深さの射程を測るため。一朝一夕に新たなスキーマを獲得できることはない。教養は長い年月をかけて少しづつ育んでいくもの。何かの手段としてではなく、それ自体を目的(と言って固すぎるなら趣味)として楽しみながら精神を滋養していくもの。さすればいつの日か、知のフュージョンが起こせるかもしれない。起こせないかもしれない。教養とはそういうものです。 では差し迫った今、創造性はどうやって発揮すればいいのか? 実は専門性にこそ、そのヒントがあるとしたら? 専門性とは、ある認識のスキーマへの習熟、無意識に働き得る認識スキーマのこと。分かり易くこれを色眼鏡と呼んでおこう。さて、仮にある分野でものすごく見通しが良くなる色眼鏡を手に入れているとしよう。それは、その分野の中だけでモノを考えるときにはバイアスのもとにもなり得るだろう。しかし。 その色眼鏡をかけて、他の分野のことを見て見たらどうなるだろうか?当然ながら他分野を見るための色眼鏡ではないから、他分野に最適な色眼鏡とは違った景色が見えるはず。 ということは、そうです。これってまさに創造的なモノの見方の出発点ではなかったか? 以前コラムで異質ソリューションの威力というのを紹介した。実はこの異質ソリューションに気づく・発見できる力の源泉・メカニズムの一つが、ある分野の専門性(色眼鏡)でもって他分野を見た時の思いがけない気づき、なのです。 創造性の勝利の戦略は明らかです。専門性を磨くこと。一つは仕事で。そして出来れば何か一つ、全然違う分野で趣味としてセミプロくらいの専門的教養、この二つで十分。 そして、その専門の認識スキーマ・色眼鏡・無意識の思考でもって、異分野を見てみる。その異分野でのモノの見方や技術の使い方からすれば非常識なことが見えるはず。非常識=不正解とは限らない。でもそれが正しいかどうかはどうでもいい。あなたに見えた異分野での非常識は、あなたの分野の色眼鏡で見えたモノなのだから、あなたの分野に適合・応用できる可能性は十分あるのです。 ここが重要なTake away。中途半端な「幅広い教養」なんぞであなたの分野内部を見たところで、多分何も新しいモノは見えない・気づきがない。一方、自身の深い専門性で他分野を見たときに、その他分野から自分野に応用できるような、新たなパターン認識が生まれ得る。これは優れて洗練されたアナロジー思考の一種だと言えるだろうが、これを話し出すとまた長くなるので、本コラムはこの辺にて。 (文責:金光隆志)
イノベーションとアート
イノベーションとアートは近親関係にある。 巷では、合理や論理では出てこない解、直観的・感性的な解を求めてアート的アプローチ、云々と言われているようだが、恐らく言っている当人が何のことだかわからず言っている。 消費について、論理ではなく快楽論者である私は、感性の判断を信じるものではあるが、この手の「アート」と「サイエンス」を対立に置いて論じる議論には与しない。 さておき、アートは悉くイノベーションである。 この点を了解するために、アートとは何かを簡単に考察しておこう。 乱暴に言って、アートとは、「日常」「普通」「常識」へのチャレンジ・超克作業である。 例えば。 日常何気なく見過ごしているモノや風景を「異化」「現前化」して新たな意味や今まで感じてこなかった感覚を呼び覚ます。マルセル・デュシャンの「toilet」、Chim↑Pomの渋谷の大ネズミで作ったピカチュウ、谷川俊太郎のいるかの詩、云々。ファインアートにおける「異化」ではシリアスなメッセージ性を持ったものが多いが、それが脱聖化されてポップになると、奇譚倶楽部の「コップのフチ子」「定礎」のような商品、あるいはピコ太郎の「パイナポーアポーペン」になる。 例えば、 作者や作品の唯一性、アウラ、それらを制度的に保証する評論、文壇、美術館といったものの虚構性を暴き出すアプロプリエーションやシユミレーショニズム。これらは言わば非日常や特別ということを「異化」しつつ、逆説的に現代の日常を「現前化」している。ある種の広告表現やハウスミュージックなど、サンプリングやリミックス手法を駆使して作られた作品の、全く空疎だが無意識のうちにハマるドラッグ性を思い起こせばよい。 例えば。 規範や常識・良識と言われているものを「侵犯」「逸脱」し、抑圧されたエロス・タナトスの欲望を垣間見せる作品。マルキド・サド、クロソウスキー、XX等々。それが脱聖化されポップになれば、アヴァンギャルドなアンダーグラウンドカルチャーになる。言うまでもなく消費シーンに現れるアヴァンギャルドは訓化されたアヴァンギャルドだ。 例えば。 「日常」や「普通」を端的に超克した美・快。イデアや神の領域を目指すもの。この系統は制度化・時代の制約を免れがたくはあるが、王立アカデミー系の芸術群、政治性を排して端的に色彩や形態の美を追求したアメリカ版モダニズム、パスティーシュを駆使したトランスアバンギャルド等々。私たちの審美的感覚はこれらのコードを介して内面化されているからして、美意識に訴える商品デザインはこれらのパスティーシュ、パスティーシュの連鎖として現れる。 さて。これらは悉く、「日常」「普通」を打ち破るもの。すなわちイノベーションである。 アートをイノベーションに応用するとすれば、このパースペクティブにおいてであろう。 そしてこれは、半ば方法論化が可能、つまり強力なイノベーション手法になり得るのだ。 方法論化されたアートなどアートたり得ない?そりゃそうです。ビジネスの話なので。 (文責:金光隆志)
マーケティングの今と昔
どんな商品にも固有の特徴がある。その固有の特徴を求める人がいる。その人に焦点を定めて効率的・効果的にその商品の特徴を伝えて購買欲を喚起する。これが今も昔も変わらないマーケティングの考え方の基本パラダイムだ。 固有の特徴を差別化と呼んだりユニークセールスポイントと呼んだり、あるいは需要サイドでニーズやアンメットニーズと呼んだりJobと呼んだり提供価値と呼んだり。手を変え品を変え新しいマーケティングの理論や方法論が現れるが、パラダイムは同じである。 あるいは、近年で言えば、市場の不確実性を背景に、予測的・決定論的戦略やマーケティングは最早不可能である、という認識に立ち、如何に需要を創造するか、既存の市場前提を破壊するか、そのクリエイティビティやインサイトこそ重要だということで、今までの発想では通用しない・イノベーション発想が必要だといった言もなされる。だが、如何に従来と違うものを創ろうが、需要は創造するのもだと言おうが、これからはストーリー消費だ何だと言おうが、マーケティングの考え方の基本パラダイムは何ら変わっていない。 それらは新しくも古くもない、今も昔も変わらない、マーケティング基本パラダイム上の2つの立場・考え方の時代に応じて変奏されるヴァリアントである。 一方で消費や欲求のメカニズムは、近年の研究でどんどん新しいことが解ってきている。昔からなんとなく解っていることにEvidenceをつけただけの研究も多いが、それらでさえも既存マーケティングを再考するには十分有益だ。例えば人は自分が思っているほど主体的に欲望の対象を決めているわけではない。恋愛のつり橋効果は俗論としてよく知られていると思う。恐怖による胸の高鳴りを恋愛感情と勘違いするというわけだが、ことはもっとラジカルなのだ。視聴覚実験だと称して、沢山の女性の写真を被験者の男性に見せる。同時に自分の心音(実は本物ではない)を聞かせる。で、ある写真の時に偽の心音の高鳴りを聞かせる。何の実験だったかもよくわからないまま実験は終わる。そして終了後、謝礼に好きな写真を持って帰ってよいというと、高確率で偽りの心音の高鳴りを聞いた時の女性の写真を持って帰るのだ。1か月後追跡調査をしても印象は殆ど変わっていない。そんなばかなと思うが、人は異性の好みのような殆ど本能と思われることさえ認識によって本当に変わってしまうわけだ。こんなものは序の口、人が何かにハマるメカニズムや習慣化のメカニズムなどが認知科学や心理学によって明かされつつある。この一歩先には従来より遥かに巧妙なマーケティングの可能性が控えている。そして実際先進グローバル企業は人間理解の先端を自らも基礎研究しつつ、先端知見をマーケティングに活かすことに挑戦している。 翻って殆どの日本企業は基礎研究や基礎理論には興味が無い。従来通りを踏襲するか、分かり易く普及版化した10年前の知見を新理論として周回遅れで急にもてはやすか。これではフロンティアは開拓出来ない。欧米はおろか非西欧圏のリーディング企業にも気付けば先を越されているだろう。日本と世界のクリティカルな差は資本力でも資源でも構想力でも創造力でもない。このまま世界との差は広がり続けるのだろうか。 (文責:金光隆志)
消費の本質?あるいは商品について
私たちは無数のモノ・コトに取り巻かれている。その殆どすべてが商品であることに驚かねばならない。私たちの生は商品漬けであり商品にaddictされている。 では何故商品を次々に買うのか。 例えば。 便利だから?ではなぜ便利を求めるの? 楽をしたいから?ではなぜ楽をしたいの? あるいは。楽をしたいんじゃない、時間を節約したいから? では時間を節約してどうするの?他にもっと有意義なことに時間を回したいから? では具体的にはどんな有意義なことに?・・ つまり。便利とは、どうでもいい・無駄なこと・嫌なこと、なのに精神的・肉体的・物理的に負荷が大きいこと、について、その負荷を軽減して気持ちよくなれること。 例えば。 好き(Love)だから?ではなぜ好きなものを求めるの? 気持ちよくなるから?ではなぜ気持ちよくなりたいの? なぜって、気持ち悪いより気持ちいい方が良くない?・・ つまり。好きとは、どうでもいい・無駄なことだが、気持ちよくなれること。 例えば。 自慢できるから?ではなぜ自慢できるものを求めるの? 人より優位に立ちたいから?ではなぜ優位に立ちたいの? なぜって、劣位より優位の方が気持ちよくない?・・ つまり。自慢とはどうでもいい・無駄なことだが、気持ちよくなれること。 以下、延々続けることも出来るが、無駄なうえに気持ちよくもないのでここらでやめる。 要は。 商品を買う合理的な理由なんて表層で、錯綜していて、矛盾があって、突き詰めるとよくわからないんだけど、とにかく気持ちいいことを求めて商品を買うし、商品を買うこと自体が気持ちいい行為なのだ。 だとすると。 人が気持ちよくなること、それは何かを追及するのが概ね商品開発ってのではなかろうか。気持ちいいって何?どんなこと、どんなとき、どんなものに気持ちいいと感じるの?それは何故? これは実に奥が深い。人は気持ち悪いもの(グロ)をあえて求めることもあるやに見える。でもそれだって、連鎖を辿れば最後は「気持ちいい」に結びついているに違いない。 「気持ちいい」は微細にも、いや微細にこそ宿り得る。どんな商品であっても一つの商品に色々な「気持ちいい」を付加し得る。五感や身体の生理的「気持ちいいい」、意味や認知の精神的「気持ちいい」、関係やコミュニケーションの社会的「気持ちいい」、それぞれに沢山の「気持ちいいい」があり得る。 さて、あなた(の商品)は気持ちいいをどこまで深く探求し、多面的に実現できているだろうか? (文責:金光隆志)
ヒットのメカニズムと指数関数的成長
現象レベルではヒットのメカニズムは2つのパターンに集約される。個々人の独立的・主体的選択において、多くの人を誘惑誘引するパターンが一つ。もう一つは相関的・社会的選択によって模倣が模倣を呼ぶネットワーク効果である。厳密にはもう一つ、ネットワーク外部性の論理があるのだが、話が紛らわしくなるので、でここでは割愛する。 さて、指数関数的成長であるが。これは独立的・主体的選択パターンから生まれることはあり得ないことに刮目すべきである。見かけ上指数関数的になることは多い。だが、本質的に需要が指数関数的に爆発しているのではないのだ。簡単なこと。もし独立的・主体的選択ならば、その商品を選好する人の上限はハナからほぼ決まっているからである。その浸透上限に向かって浸透していくのだ。ロジスティック曲線等指数関数で表現できる。だが、指数的需要成長ではない。単に浸透が指数関数的なだけである。 相関的・社会的選択のネットワーク効果はまるで違うメカニズムだ。独立的・主体的選択では選ばなかったであろう人が次々に需要者になっていく。もちろん無限の成長などありえないわけで、人口的上限はある。だが浸透上限は事前に決まっているわけではない。浸透上限を探ろうとする人が見ればそれがどんどん時間と共に更新されていくイメージだ。厳密にはランダム型とスケールフリー型で効果は異なるが、いずれにしても間接コミュニケーション(簡単に言えば噂の類)の効果が指数的需要成長の程度を大きく左右する。そして現代では間接コミュニケーションが加速している。このメカニズムが駆動を始めると瞬く間に需要が拡大する。 大ヒットにはほぼ例外なくこのネットワークメカニズムが駆動しているだろう。大ヒットを狙うマーケティングの核は明らかである。模倣、そして模倣が模倣を生む、心理的・社会的メカニズムを創出すること。初期フェーズのユーザーがどう動いてくれるかが第一のカギであり、次に局所的で直接的な周囲集積状況が生まれることが第二のカギであり、そこから大域的で重層的な周囲状況へと発展することが第三のカギである。狙ったマーケティングを行っても常に上手くいくとは限らない。結果は多分に偶然・状況に左右される。だが模倣が模倣を生むメカニズムが駆動しているか否かは、現代においては慎重な定量・定性検証で、かなり早期の段階から検証・追跡可能だ。つまり、後戻り、軌道修正、諦めて次にいく、等の判断を早期に行うことが出来る。シナリオプランニングや長期戦略とも接続可能になる。 新時代のマーケティングのカギがここにある。 (文責:金光隆志)
フルクサスの戦略
ワンピース、自分が何かくわえることで、少しでも世界を変えることが出来たら。 まかり間違って、自分が商品を生み出すことが出来たら。 消費者を巻き込んだモノづくりは一つの潮流といってよい。自分でデザインできる服、といったパターンはプリミティブだがその典型である。あるいは消費者に商品アイデア等を議論してもらう共創プラットフォームの取り組みも2010年代から徐々に広がってきた。 だが消費者が「消費者」という相でモノづくりに参加するのは今に始まったことではない。 今注目すべきは「生活者」の相で、大げさに言えば「市民」の相で、人々がモノやサービスサプライにアクティブに参加し始めたことだろう。コミケ、デザフェス、フリマ、といったP2P市場、ハッカソン、クラウドファンディング、あるいは生活者が参加して初めてサービスが完結・実現するという意味ではSNSもその範例と言えるかもしれない。そしてこの潮流の目下のフロントラインと言えば政府が関与しない仮想通貨/独自通貨を市民が創出し流通させる動きであろう。 消費を最終目的としない、といってもよい。かといって生産者でもない。言わば社会とのコミュニケーション。大仰に構えた社会貢献ではない。かといって利己目的だけでもない。言わば承認欲求とも結びついたお裾分け、ギフト、共有。 これをフルクサスと結びつけるのは曲解が過ぎるだろう。しかし、Authorized Contentsを鑑賞・消費するのではなく、それらにあからさまにNonを突き付けるのでもなく、フラットに、自然に、しなやかに、ゆるやかに、ごく身近な人から地球の裏側の見知らぬ人まで、小さな連帯と離散を繰り返し、財、サービス、文化、アイデアをやり取りして世界に変曲をもたらす。矛盾だらけで問題だらけで穴だらけで不細工だけど広がることを止めない運動体。 企業にとってこれはチャンスか脅威か、といったエレメントで、この状況を見るのは恐らく誤りだろう。少なくとも大きな違和感を覚える。 一つ空想をしてみよう。この運動に本気でコミットする企業。さりとて従来の事業の生産様式をやめるわけではない。両方にコミットする。矛盾は利益率の低下となって現れるかもしれない。その時、資本は集まらなくなるのだろうか。資本の性質は変容しないだろうか。資本は一様か。端的に言って生活者はこの企業にどんな形で参加していくのだろうか。その行きつく先。バッドエンドもハッピーエンドも両方空想できるだろう。だが、例え似非だと罵られようが、ハッピーエンドを空想する程度にはポジティブでありたい。