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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
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ムーンショットとナラティブと
ムーンショットプロジェクト。ナラティブアプローチ。どっちも言っている自分がちょっと恥ずかしくなるジャーゴン(今やバズワードか)だが、ちょっと考察するきっかけがあり、得るものがあったので簡単に書き記しておきたい。 イノベーション方法論の文脈で語られるムーンショットとは、通常の努力・技術・発想・・ではとても実現できそうにない野心的なプロジェクト、と言った感じか。 さて、ムーンショットをこのように定義したとき、イノベーションに繋がる目標設定のありかたとの関連・幾ばくかの真実がそこに見て取れそうである。 目標設定はイノベーションのドライバーの一つ(全部ではないのはもとより、常にということでもないのだが)になる。ではイノベーションをドライブしてくれる目標の要件はなにか。 達成困難な大胆な目標、というのは殆ど同義反復なので、要件というより前提であるとして。 先ず、自分(達)が夢中・熱中するものであることが必要条件。言うまでもないことのようだが殆どのプロジェクトあるいは殆どの人がここで落第となる。繰り返すが、目標だけがイノベーションのドライバーではないのだから、熱中出来ないとイノベーションのチャンスがない、とまではいわない。だが取り組むことが苦しくても快感であり、ときに寝食を忘れるほど熱中して取り組めるからこそ、隘路を乗り越える気概もチャンスも運も生まれる。と、私が言っても説得力が無いかもしれないからジョブズを引用しておこう。ジョブズの方が強烈だ。曰く「情熱は大きなことをやり遂げるための唯一の方法」であり、「成功と失敗の分かれ目は諦めるか否かだけ」だと。うん、ジョブズが言うとバッサリ言ってても深い感じがする。 また、経験のある人にはわかるだろうが、夢中はある種のフロー状態・トランス状態を生む。思考と感覚が静かにそして鋭敏になっていく。いまここの経験や意識が鮮明になり、一見関係のない過去の記憶や経験が殆ど無意識に呼び出され結び付けられていく。と、これも私が言っても説得力が無いかもしれないが発達心理学や認知科学でも実証研究は進んでいる。創造のプロセスと夢中には強い相関があることがわかっている。 次に、周囲に人が集まるものであることが十分条件。今や大きなイノベーションは一人や一社で実現できることは殆どない。課題も求められる解決策も20世紀と比べて格段に複雑さを増している。多くの人のプロアクティブな参画・協力が不可欠となる。では人が集まる条件とは。「賛同される」「意義を感じる」「好奇心がそそられる」などである。「利得を感じる」のはもちろんあったほうがよいが、それだけ、あるいはそれが最初にくるのではだめ。金の切れ目が縁の切れ目になるのがオチ。隘路に直面した途端に雲散霧消するだろう。 ここでムーンショットのオリジナル、文字通りのアポロ計画について見てみよう。為政者にとっては、宇宙開発競争による対ソ軍事戦略優位の危機、という抜き差しならない賛同の契機があった。一級の科学者やエンジニアにとっては、科学の進歩・人類の進歩・人類初へのチャレンジ、という生涯の中でも滅多に得がたい挑戦テーマであった。また、関与するスタッフにとっては意義ある取組みへの参画の誇り、民衆にとっては人間が月に行くというSFのような現実のロマンを掻き立てられるものであっただろう。なおアポロ計画の為政者を経営陣、科学者をイノベーター、スタッフを関係各部や協力企業、民衆を生活者・ユーザーと置き換えて考えてみよう。企業のプロジェクトのメタファとなるだろう。アポロ計画は周囲にプロアクティブに人が集まる条件を満たしていたのがわかる。と同時に、対象となる人によって、その意味・意義が少しずつ違うことに気づく。ここにヒントがある。目標が壮大というだけでは人は集まらない。[有人で月面着陸」という目標は大胆かもしれないがそれだけで多くの人が成功に向けて行動を起こすことはない。なぜいまなのか、誰にとってどんな意味・意義があるのか。云々。それぞれの立場の人にとってのコンテクスト形成と意図の練り上げ・昇華、それをまとめ上げる大きな物語があることが重要である。いまどきことばで言えばナラティブということだろう。因みに所謂問題解決力の発揮にもコンテクストや物語が大きく影響することが認知科学の簡単な実証研究で明らかになっている。イノベーションのドライブにも大いに関係するであろう。 ムーンショットとナラティブと。巷の「なんちゃってムーンショット」や「ナラティブなんちゃら」などを見るにつけ酷いもんだと半ばうんざりしていたが、少し掘り下げ補助線を引いて本質を考えてみると案外意味のあるイノベーション方法議論が出来るものだと見直した。イノベーションに繋がる目標とはどのようなものか、目標を実効性あるものにするには何がカギか。テーマが新規事業か既存事業か、個別事業か企業全体か、さらに言えば事業か組織か、などによらず、大きな示唆がここにある。 (文責:金光 隆志)
創造性とコンテクスト
すべてはコンテクストである。とひとまず言ってみよう。 実際どんなモノもコトも、時間的空間的コンテクスト無しには何ら意味を持たない。逆にコンテクスト次第でモノやコトはいかようにでも物事として意味を帯びるだろう。コンテクストと言うとわかりにくいかもしれないが、要はどんなモノもコトもそれ自体には意味はなく、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて正負様々な意味を帯びる、ということだ。 あたりまえ?そう、当たり前です。当たり前なんだけど、ここに「クリエイティブ」の全てのヒントがあるとしたら? その点を了解するために、クリエイティブとはなにかをちょっと考えてみよう。 あるモノやコトを見たとき、それがクリエイティブかどうかはどう見分けられるか。 革新的かどうか?じゃあ革新的ってどう判断する?ということで答えになってない。 今までにないものかどうか?ちょっとはマシな答えだけど、じゃあ例えばそのへんにある紙をグシャっと適当に丸めたら今までに無い形なはずだけどこれはクリエイティブ?いやそれ意味ないじゃん、という声が聞こえてきそうですが、そう。「意味」が無いと意味ありません。笑。では意味はどう生まれるか。これはさっき述べたとおり、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて意味が生じるわけです。どうでしょう。あるモノやコトがクリエイティブかどうかはコンテクストと決定的に関係がありそうですよね。でもまだちょっと抽象的でピンとこないかもしれない。そこでもう少し具体的な補助線を引いてみていきましょう。 補助線その1。 あなたは和室のエアコンに違和感を感じたことは無いだろうか。 畳、襖、障子、床の間、欄間、長押、あるいは掛け軸や陶器、茶具などの調度品、障子から漏れ来る薄明かりの織りなす陰影・・質素で侘びた空間、時間の経過による傷み・寂れ、それらこそが日本的な枯れや幽玄の美を構成している。で、そこに近代的で機能優先的で、どうだと言わんばかりに存在感を主張するエアコン本体、不細工な配管シールド。合わない。「真」「草」「行」などいずれのスタイルにおいても、絶望的に合わない。もしも違和感を感じないとしたら、モダン化した和室を見ているのか、あるいは見慣れ過ぎて当たり前の風景として見逃しているかでしょう。ということでどうでしょう。コンテクストを見ることで今までに無いエアコンを考えるヒント、見えてきそうではないですか?これが所謂アンメットニーズとか無意識の妥協の発見、ってやつの源泉・本質です。 補助線その2。 マルセル・デュシャンの「泉」はご存知だろうか。 磁器製の小便器に署名をしたもの、それが「泉」というアート作品です。ところで今さりげなくアート作品と言いましたが、果たして何がある作品(モノ)をアートたらしめるのだろうか。以前「イノベーションとアート」という当コラムの論考でアートとは何かの試論・素描はしましたが、ここでは違う観点で、人々にアートだと認められるとはどういうことか、を見てみると、美術館・ギャラリー・コレクション・キュレーション・オークション・富裕層。これらの連関がシステムとしてアートを構成しているのであり、システムに組み込まれたものがアートとなるわけです。システムをコンテクストと置き換えてみよう。「泉」はこの「隠された」事実、アート業界という欺瞞(は言い過ぎか)のコンテクスト、に2重の揺さぶりをかけています。第一に、このコンテクストに組み込まれ・飾られたものがアートであるという事実に「小便器の展示」という異化作用によって気付かせる・明るみに出す(現前化)ことで。そして第二に、実はこの作品は、デュシャン自身が委員長を務める展示会の実行委員会から出品を断られているのだが、それに対し、委員長辞任で不服を表明することで、既存の価値を揺さぶる革命こそがアートではないのか(異化)、だがかといってでは既存の価値を逸脱すれば何でもアートなのか・その線引は・・という決定不能性を明るみにだすことで。 長くなりましたが、まぁ、あるものをあるものたらしめているのはコンテクストであって、そのコンテクストは往々にして暗黙化しているが実は恣意的なものなのであって、従ってオルタナティブの可能性が常にあること。これが所謂常識や無意識のバイアスへの気付き、ってやつの源泉・本質ですね。 補助線その3。 あなたは子供のらくがきがプリントされた、他に何の変哲もない白いTシャツを売る自信はあるだろうか。まぁ何だって売れなくはないだろうが、そういう話ではありません。 例えば。 この子供のらくがきは実は、アフリカの難民や超貧困層の子どもたちの手によるもの。域内食糧難の大きな要因の一つは先進国への牧畜用食料輸出であること、限られた優良な耕作地や地下資源鉱脈は北側諸国・企業に専有され、原住民は疎外されていること。即ち、南の貧困はリアルに北の贅沢とリンクしていること。そしてそのような経済問題の隠蔽を告発し、介入すべく有志のアーティストが立ち上がり、アフリカ農園労働者の美術制作を支援するアートサークルプロジェクトが立ち上がっていること。その一環で、子どもたちにも絵画の機会を与え、歓びを生み出していること。そしてこのT-シャツは、当プロジェクトとのコラボレーションで生み出されていること。云々。 こうしたコンテクストがあると、この商品の意味、この商品を買う意味、着る意味、語る意味、などが大きく変容してくるでしょう。これは本質的には価値の創造なのだが、まぁ今どきの言い方でいえば、これがエモいストーリーってやつになるでしょうか。 補助線その1は「コンテクストと調和」、補助線その2は「コンテクストの前景化・からの異化」、補助線その3は「コンテクストの創造」です。補助線1と2は「既存コンテクストの理解」を前提とした言わばコインの裏表のような関係であることを付言しておきましょう。クリエイティブとはこのどれかを達成しているものです。 クリエイティブの秘訣。それはコンテクスト(モノ・コトの関係の網)への眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造、というわけです。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求⑥ -「美」と「夢」と-
前回、「世界観」アーキテクチャという強力なビジネスモデルのコンセプトを概説した。 詳しくは前回を参照頂くとして、その要点を簡単に振り返っておく。 「世界観」は強力な「快」欲望駆動エンジン。「意味やストーリー」の比ではない。「世界観」消費のミソは、世界観自体を直接消費することはできないということ。世界観による魅了は従って、世界観の化身・仮身たる個々商品・ストーリーのヴァリアントを追い求め続ける構造を生む。大きなビジネスチャンスとなる。このチャンスは世界観・商品ヴァリアント生成のアーキテクチャとしてSECT連携/スタジオ型モデルを構築することで実現可能となる。 さて、ここまで理解したとしても、恐らく残るだろう疑問・興味。「世界観」って何? 「世界観」は、これが世界観です、と言葉で説明するのは本当に困難なのだが、強いてもう少しパラフレーズを行うことにしよう。 原理的な理解のために、やや概念的抽象的に論じることをお許し頂きたい。決して机上論ではない。原理とは観察的現実からのパターンの抽象である。 「世界観」とは何か。 それは論理的構造ではない。構成概念ですらない。感覚的官能(の対象)である。 「美」×「夢」に近い、とひとまず言っておく。益々ハテナ、だろうか。 3大価値の「真」・「善」・「美」にそれぞれ対応するのが「知性」・「理性」・「感性」である、という補助線を引けば、感覚的官能である「世界観」とは「感性」による感応の「美」に近いもの、ということがある程度了解されよう。 では「美」とはなにか。 それを考える前提として、美はどのように感受されるかを理解しておこう。 美とはまずもって、感性によって感受され「快」情動を誘発する対象、である。 感性による感受は知性や理性を介さない、言わば直接の認識作用である。言語化困難・説明不能の所以だ。 逆に言おう。知性や理性を介在させないで直接感受される、ということは、「美」には有無を言わせないで人を惹き付ける力がある、ということである。「美」による「快」がずっと続いて欲しい、もっと強く感じたいという「More」の欲望を駆動する。強力で中毒性がある所以だ。 ところで知性や理性が介在しないとどうなるか。当然それに対応する、真や善の判断が行われない、ということになる。そう、美の感受は真か善かを問わない、つまりは禍々しいものや悪にさえ、いや寧ろそういうものにこそ、侵犯やタナトスの欲望をかきたてる「美」を感じてしまうこともあるのだ。という話はビジネス論としてはちょっと刺激が強すぎるのでここで止めておこう。しかし覚えておくとよいのは、感性による「美」感受の前では批判的思考は停止し、ただただ惹きつけられるのだということ。そして驚くべきことに、醜、悪、悲・痛・死・・といった、それ自体を見るとマイナスと思えるものが、大きく美へと転じたり、負のものが至高なるものや純然たる美と結合して更に強い新たな美を感受させる、といったことがいとも簡単に起こってしまうのだ。タレントの直美がインスタの女王となり、今やある種「美」女としてカリスマ的存在になっている現象を思い起こすとよいだろう。ピンとこない人には、10年前のお笑いタレント直美と今の直美を、本人の変化と同時に社会受容の背景・変化を分析・考察してみることを勧める。まじめに言っている。「世界観」を構成する「美」とその働きについて、それこそ感覚的に正体を捉える一助となるだろう。 論旨が冗長になった。要点を少しまとめておこう。 「美」は感性が感受し「快」情動を誘引する対象である。 感性による感受は知性や理性を介さない、即ち自己反省が働かない、従って、 その1。美の追求行動は、盲目的なほどに強度と勢いを増していく。 その2。美は、真や善を超越して、直接的に、逃れ難く人を惹き付ける。 その3。負なものが大きく美へと転じたり、負と正が複合して新たな美の感覚を生み出す。 さて、このように美の働き方・感受の仕方を理解すれば、美とは何か、朧気ながら見えてくるのではないか。至高、高貴、明晰、簡潔、均整、華麗、豪奢・・といった西洋的「美」、自然・わび・さび・幽玄・あはれ・・といった日本的「美」など常識的正統的に美しいとされるものは勿論美と感受されるものの一部だが、全部ではない。例えば儚さ、悲壮、壮絶、魔力、侵犯、死・・といったものもそれ自体、あるいは他の美へのメタフォリックな表象結合によって反転して美と感受され得るのだ。 ところで、美は真・善の判断をすっとばして直接的に感性によって感受されると説明した。話がややこしくなるので留保してきたが、これは真・善の観念が美の判断に無関係ということではない。真なるもの・善なるものの通念(大げさにいうと共同幻想)が、崇高の観念を呼び覚まし、心酔させることで、感性的「美」の感受を引き起こすのはよくあることだ。中世における宗教芸術とその政治性を思い起こせば合点いくであろうか。現代で言えばテクノロジーやクリエイティブの称賛・信仰から、テクノロジー自体に感性的に心酔する「美」意識が生じているし、ポリコレやエシカルがそれ自体で感性的に「美」意識を生んでいる。要はこれらに対しては無批判・無警戒に「快」を感じる心性が広がっているということだ。 ところで、冒頭で「美」×「夢」といった。詳述の余裕はないが、「世界観」形成において「美」と「夢」は共犯する。「夢」とは眠ったときに見る夢に加え、現実ではないという意味で幻想の隠喩であり、現実化困難な妄想・理想の隠喩である。妄想は膨らみ理想は希求し追い求めずにいられない。だがそれは幻想ゆえに現実には成就・満たし難い、しかしだからこそ、欲望し、夢見ることで代理昇華する。ヴァーチャルに満たすことを望むと言い換えても良い。ラノベやアニメで異世界転生モノや中でもチートものが人気があったり、ゲーム内のヴァーチャルライブ等に何万人もの人が集まったり、VRにはまったり、というのは現実では満たされない(つまり非リアジュウ状態)自分の幻想・理想(の姿)をヴァーチャルに満たす・代理表象する心理であろう。そして現実の生活には時間的空間的制約・限界があるのに対して、ヴァーチャルの幻想には時間的空間的制約はない。つまり永続である。ヴァーチャルにはずっと引き篭もっていられるのだ。「美」の「快」が生み出す「いつまでも・もっともっと」の欲望とヴァーチャルの永続性が見事にシナジーする。前回コラムで「世界観」消費はデジタルと相性が良いといった所以はこれである。 即ち「美」×「夢」=「世界観」とは、感性により感受される美の「快」情動をいつまでもどこまでも追い求めたいという夢に接続・ヴァーチャルに表象し、知性や理性による自己反省の及ばないところで欲望を駆動し続ける装置、と暫定的ではあるが定義しておこう。 本稿における「美」とはエステティックのことであり、エステティックの対象はアートよりも広域・領域横断的なものである。精神的あるいは社会的領域全般に及ぶ。「世界観」構想には欲望の原理的理解や社会・文化の分析・作用コードの考察等が有効である点、理解されたい。それらを蓄積した上で行う構想が、何の蓄積もないところで「個人の主観から」構想したものと、まるで次元の違う世界観に繋がるだろうことは察しがつくだろう。イーロンマスクのSpace X等を引用して「個人の妄想からすべてがはじまる」等、笑止である。ちなみにSpace Xについて言えば、2000年前後にシリコンバレーで数多設立された宇宙開発ベンチャーの一つであり既に20年近い開発の歴史とNASAに対する事業実績がある。「個人の主観的で大胆な妄想」によってではなく、優秀な科学者技術者を集積し、「宇宙開発上の技術課題に対する解決力の優位性」で成長してきた。火星植民構想は一見大胆なようで彼らオリジナルというより宇宙開発・特にNASAが超長期のオルタナティブ可能性として探査してきているものであるし、商売のリアルを言えばその手前に惑星探査関連での多大なビジネスチャンスが見えている。その延長(というか遥か手前)に話題性のある一つの取り組みとして宇宙旅行もある。これも断じて妄想などではないのだが、例えば同じことをJAXAが言ったりやるのと、イーロンマスクというシリコンバレーのカリスマ(がつくったSpace X)が言ったりやるのとでは全然惹き付ける力・ワクワク感が違う。さらには、同じイーロン・マスクが言うにせよ「宇宙旅行」とうのと例えば「地震予知100%の実現」というのとでは妄想レベルでは後者の方が格段に妄想だが、前者のほうが圧倒的にロマンを感じさせる。「え、宇宙旅行?なにそれそんなことできるの、イーロン・マスクすごーい!」というのが、知性・理性が停止し感性によって感受・駆動された「美」の「快」情動であり、それを冷静に、宇宙開発の歴史的進化をひもとき、「そういうことか」と理解納得するのが知性・理性の働きである。 まぁそういうことなのだが、”イノベーション発想法”文脈で個人主観・妄想を提唱するのと本稿で論じた「世界観」の構想は、控えめに言って目的や趣旨の異なる議論であり両者に特段の関係は無い、しかしながら知性や理性を停止した安直な雰囲気論理にはそれこそ人の「快」情動を駆動して判断を停止させるキケンがあることは付言しておく。 (文責:金光隆志)
欲望の探求⑤ -世界観アーキテクチャの中毒消費-
意味のイノベーション、人を動かす体験ストーリー、云々。 産業や生活がテクノロジーによって変革・更新されていき、テクノロジーこそが世界の問題を解決していくという物語・神話が全面化していく中で、大事なのは技術じゃない・問題解決じゃない、意味やストーリーこそ大事なのだという物語が語られる。 これを文系の最後の悪あがきと揶揄する向きもある。が、まあそうでもない。 実際、人が物語によって世界を意味づけし、それによって価値や行動や規範が規定されていることは、有史以来の人間社会成立(ホモ・サピエンスとしての)の条件なのだ。 現在は「テクノロジーが世界を変える・救う」という物語が支配的、というわけで残念ながら文系諸氏の悪あがきは見事に自らの言説に裏切られる、という憂き目を見るわけだが。 個々の商品において新しい意味やストーリーを考える(意味やストーリーから考える、も含む)ことは否定はしないが、それだけでは大して見返りはないだろう。特に、人を動かす「英雄譚」のストーリーモデル云々、とか、イノベーションやマーケティングのハウツー本で書かれているレベルのこと(ドラマティックな物語展開のパターンはこれ!みたいな)を考えても全くの無駄なのでやめておこう。日常・変化・困難・協力者(商品)・克服・成長・・とか、子供でも考えるような物語構造の一番単純な定石ではあるが、自分の消費を思い返せばいい。そんなもので心動かされて何かを買ったこと、あります?? まぁディスるだけじゃなく一応ちゃんと言っておくと、物語について商品やサービスへのマーケティング応用を考えたいのならば、筋の展開の構造のような「形態」「機能」や「シークエンス」よりも、人物や出来事の特性や気分・ある行動への動機・場の雰囲気・状況などを伝える「指標」や語りの「パースペクティブ」のことをしっかり考えてみたほうが示唆深い場合が圧倒的に多いだろう。 商品を使っているシーンやエクスペリエンスをプロット・表現し想起させる、云々というのも殆ど無駄。商品開発においてシーンやエクスペリエンスから発想することを否定しているのではない(大して肯定もしないが)。新規性の高い商品の使用説明としてちゃんと伝達することを否定しているのではない。そうではなく、ストーリーマーケティングやらコンテクストマーケティングやらと称して「エモい」エクスペリエンスストーリーを考えよう云々、がまぁ殆どの場合無駄だということ。マーケティングの段に至ってエモいエクスペリエンスを捻り出さなければいけない商品など、はなからエモい魅力はないと思った方がよい。 さて、アイロニーはこの辺にしておこう。やっぱり人々にとって意味のある生産的なことを言いたいですからね。ということで、意味のイノベーションや体験・ストーリーよりもはるかに強力なビジネスモデル原型を少しご紹介しておこう。 人をときめかせる、ワクワクさせる、これから(未知・未来)を期待させる、あこがれさせる等などの「世界観」をもとに、ビジネスアーキテクチャを形成・生成し、そのアーキテクチャをもとに、世界観のパーツや個々のストーリーとしての各種商品やサービスをマルチプラットフォーム・マルチビークルに次々と展開する。これである。 人々の欲望を駆動するのは、第一義的には、個々のストーリーではなく、「世界観」である。そして、「世界観」がベースにあると物語はいくらでもヴァリアントを生成可能なのだ。そして世界観アーキテクチャがハマれば必ず中毒消費に至る。 エンタテインメントの世界を想像すればわかりやすいだろう。ディズニーワールド、マーベルユニバース、ラノベジャンル、AKBフォーマット、K-POPフォーマット、ポケモン、直美・・。基盤となる世界観のもと様々な商品・ストーリーヴァリアントが展開されると同時に、それぞれのヴァリアントがさらに、派生商品/ヴァリアントを生成している。強引に単純化した例を示そう。「気品、美しさ、優しさ、行動力、勇敢、困難の克服、変身、魔法的力、愛の成就」といった特徴を備えるディズニープリンセス世界観。その世界観のもと、白雪姫、シンデレラ、アリエル、ベル、ジャスミン・・といった様々なストーリー/キャラクターヴァリアントが創られる。そして各ヴァリアントからはアニメ、実写、キャラ商品、テーマソング、テーマパークアトラクション・・といった派生商品/ヴァリアントが生まれる。これらの生成を支えるアーキテクチャは、映像から商品やパークまでの連鎖したコンテンツビークル・プラットフォーム(ディズニーエコシステムと呼ばれる)はもとより、社会が求める女性像のR&D(キャラクターの性質は時代とともに少しづつ変容させている)、世界中の文化や物語IPのリサーチ、ニューロサイエンスに基づくシーンと情動のパターンDB、最先端のCG・VFXテクノロジープラットフォーム、新たな体験を生む五感を中心とした先端テクノロジー・サイエンスのリサーチネットワーク、ハリウッド内はもとよりグローバルに広がる映像制作ネットワーク・・といったSECT(Science Technology Culture Edit/Produce)インフラストラクチャから構成される・・云々。 ところで「世界観」消費のミソは、世界観そのものを直接消費することは出来ない、ということだ。世界観を楽しむ・熱狂する・共感する・同化する・納得する・感受するには、世界観のパーツ・化身・シミュレーションたる個々の商品・キャラクター・物語を消費するしかない。だが、それは決して世界観そのものではない。だから、世界観と同化するには、次々に出てくる商品やストーリーを世界観の一部・影・鏡像・シミュレーションとして次々に消費するしかないのだ。かくして「世界観」に快情動を感じた人は、反復を求めてずっとその世界観の化身・仮身を追い求めることとなる。 そして、世界観に惹きつけられた消費者自らを、個々の商品や物語生成に巻き込む、創作に参加させることで、世界観アーキテクチャのモデルは一つの完成形に至るだろう。世界観に同化したいというナルシスの欲望が擬似的に満たされる状態。完全に同化できてしまってはいけない、ときには「本物」の豪速球で突き放さなければいけない、のだがまぁその話は置いておこう。ともかく。ここまでくれば完全にハマった状態である。実際に創作に参加させるにせよ参加した気にさせるにせよ、そこに莫大なマネタイズの機会が発生するだろう。エンタメで言えば、二次創作の隆盛で一次創作の消費を拡大するのか二次創作自体から収益を得るか、みたいな話ではある。それだけじゃない、それだけだと浅いが、まぁこれも置いておこう。 さて、エンタテインメントの喩えはわかるが、他の実用商品でも同じことが言えるのか? もちろんYes。ジョブズが率いたころのAppleに陶酔しCreativeを信奉した人々、GoogleのMoon shotに憧れ・共感しハッカソンなどに参加する人々、IKEAのLOHAS的・北欧的感性へのDIY的商品体験による同化、昨今の中国D2Cユニコーンにおけるコアファンの熱狂的参加、米国DNVBにおける理念や世界観への共感、等など。すべて「世界観」による欲望の駆動と、欲望を個々の消費やコミュニケーションで解消するための「アーキテクチャ」がある。アーキテクチャの全体が世界観の表現でもあり、個々の商品やコミュニケーションが物語のヴァリアントとして世界観を部分表象し、世界観への憧れ・興奮・共感・同化・・を部分的に昇華・消化させる。 世界観は人々を瞬間的・無意識的・情動的に惹きつける。だが世界観自体「これが世界観です」というふうには目に見えない、言語化しようにもいわく言い難い。だから強力なのだ。では世界観やアーキテクチャはどうやって作ればいいか。簡単に補助線を付しておこう。 欲望の原理的理解、現代のマクロな世相や言説の背後にある集団的欲望や不安及びその源泉の理解、個人や集団の欲望を駆動する世界観の原型となる各種文化の様式・パターンやそこで作用するコードのカタログ・現代の脱聖化した各種消費文化の背後にある歴史的系譜の考察、世界観構築・表現や個別商品・物語生成に援用可能な技術プラットフォーム・サイエンスの考察、コアファン生成のコミュニケーションモデル設計、メディア・ビークルプラットフォームミックス設計、これらを統合するSECT連携/スタジオ型ビジネスモデル、である。世界観を代理表象するための物語素・神話素や指標に相当する要素・パーツをデータベース化しアーキテクチャに仕込んだり、それら要素の最適組み合わせをイメージ生成・テクスト生成するデータサイエンスやニューロサイエンステクノロジーを折り込むことが出来れば更に強力な世界観アーキテクチャ型ビジネスモデルを創ることができるだろう。 世界観アーキテクチャの消費は目新しいものでは無い。にもかかわらず、エンタテインメント業界の先端を除けば殆どの人はそれをビジネスモデルとして了解していない。文系の悪あがきの可能性の中心はここにこそあるのだが、エンタテインメント業界以外のビジネス現場がいかに人間や文化を原理的本質的に理解することを怠っているかの査証、とまで言うと言い過ぎだろうか。ところで実は世界観アーキテクチャの中毒消費はデジタルと相性がよい。デジタル化が全面化し、With/After covid-19の生活様式がいよいよ不可逆となっていく気配の中、世界観アーキテクチャの勝者は世界の勝者となっていくだろう。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求④ -欲望のメカニズム-
さて、脳の働きや情動・欲望に関する常識を一旦捨てたところで次の議論に進もう。 ここで、情動と感情について少し整理をしておこう。ややこしいが、情動と感情は異なる心概念である。大きな論旨を見失わないために前回までは明確に分けずに「情動」と呼んでいたことを了解願いたい。 さて情動。情動は感情よりも生得的根源的なもので、主には「快/不快」と「覚醒/鎮静」の組み合わせによる4つの気分・モードをとる。情動は内受容プロセスを通じて形成される。内受容プロセスとは、血流とかホルモンとか臓器とか自分の身体内の状態変化を脳が感受することである。内受容で生じた情動は、その原因が外部刺激による体内反応なのかどうかによらず、外部刺激への反応として表象され意識される。空腹のとき怒りっぽくなるのも実はこういうこと。空腹で不快なのに脳はその不快原因を無意識に外に求める。無意識のうちに外部に攻撃的になる。これを我々は怒りと名付けている。 感情の正体・ルーツがこれだ。実は感情は自分で作っているのだ。主には文化的な学習を通じて感情反応も形成されている。人間は生まれて以来幼児のときから常時、ほぼ無意識・自動的に分節と分類の認知・統計的学習を働かせ、世界を意味付けている。意味づけは能動と受動の複雑なインタラクションの集積である。例えば。赤ちゃんが泣いている。母は「お腹が空いたのね」と言って乳を授ける。泣き止む。これ、実は意味づけ作用である。赤ちゃんが泣いている理由なんて周りにも本人にもわからない。だが母は勝手に「お腹がすいた」と意味づける。泣き止んだのはスキンシップの効果であって空腹とは関係ないかもしれない。でも「やっぱりお腹すいてたのね」と意味づけされる。あるいは「おむつが気持ち悪いのね」と言っておむつ交換されるかもしれない。スキンシップ効果で泣き止んだとする。でも「気持ち悪かったのね」と意味づけされる。こうして何も意味のないところから社会的に形成された意味を与えられつつ、自ら主観的に自分なりに意味分節を形成していく。云々。ちょっと横道にそれてしまった。さて、怒り・喜び・悲しみなどの感情も意味づけの一つである。意味づけとは、とても恣意的で文化依存の現象。つまりは感情も普遍的なものというより恣意的で文化的なものだということになる。ちょっとにわかには納得し難いだろうが、国によって感情語の粒度や境界、あるいはどういうときにどういう感情と言うかに大きな差・違いがあることを思い起こせばある程度は了解できるだろう。 さて、ここからさらにややこしい話になる。情動反応・状態は、意味づけ作用を通じて様々な場面や状況に結び付けられる。情動→シーン→意味・感情をセットとしてパターン学習していく。これは殆ど無意識・自動的に常時脳が行っていること。あらゆる瞬間において一生続く膨大な学習である。脳はこうして膨大な無意識学習を通じて・同時に、予測・シュミレートの能力と経験値を上げていく。すると今度は逆に、シーンから意味へ、意味から内受容へ、内受容から情動へと、つまり外部刺激から情動を生み出すような働きが生まれてくるのだ。 抽象論だとわかりにくいだろうから、前回の女性の写真を見せる実験にあてはめて考えてみよう。この例において、外部刺激は「女性の写真」と「自分の(偽りの)心音」である。さて、「ある女性の写真」で「(偽りの)心音が高なった」。これを脳は無意識に解釈する。例えば「好き」という「意味」に無意識に意味づけする。この「好き」という意味付けが、体内の反応を引き起こす。セロトニンやドーパミンやオキシトシンといった幸せホルモンを分泌したり、恐らくは本当に少し心拍数も上がったりしただろう。そしてこの変化を「内受容」して、「快×覚醒」といった情動モードに瞬間的に移行する。そしてこの「快×覚醒」情動をこんどは逆に意味解釈する。「幸せ・心地よい」のは「この女性の写真を見た」からだと。こうして、自分はこの写真の女性に好意を抱いたのだと、脳は勝手に学習する。かくして、この写真(の女性)が欲しい、という欲望が生まれる。 シーン⇒意味⇒情動⇒意味(強化)⇒感情、外部刺激受容⇔内受容⇒情動⇒・・という複雑・非線形な相互作用が働いている。 これが、現在もっともホットな、欲望の原理・メカニズム仮説である。かつての常識が新たな知見で覆されたように、今後この仮説だって更新されていくだろう。けれども、今もっとも頼りになる仮説には違いないだろう。 やや強引になるが、要約しておこう。 生まれてから現在までの無意識な学習を通じて、無意識に作動する刺激・意味・内受容・情動・・予測・シミュレートを形成している。 これは直線的に作用するだけでなく、むしろ非線形に相互作用する。「内受容」による「情動」を外部刺激に「意味づけ」する回路としても作用する。 即ち、快・不快情動や覚醒・鎮静モードは「内受容」プロセスで形成され、その意味づけは過去学習を参照に外部刺激や状況などから無意識に形成される。 ここに「欲望生産」=ビジネス、の大いなるヒントがあるのではないだろうか。 (文責:金光隆志)
欲望の探求③ -脳に関する常識は非常識!?-
さて前回。快・不快ポテンシャルを情報として認知させる、ここにビジネスの全てがある、と言った。ここから一気に欲望のビジネス・マーケティング最前線へと進みたいところだが、その納得には、前提として、欲望や情動、心などに関する様々な常識、古い理論を棄却しておかないといけない。また日常的経験・感覚と実際に脳や身体で起こっていることは違うということを了解しておかないといけない。 ということで、しばらくの迂回をご容赦願いたい。 最新の脳・神経科学は、心と身体と脳の関係や働き方、構造などについて、かつての脳科学や心理学の常識を次々に覆しつつある。 例えば、古い常識・理論の典型の一つに、刺激―反応理論がある。それによれば、脳は外界からの刺激を感覚情報として受け取り、連れて脳内で情動反応(例えば嬉しい、悲しい、怒りなど)を引き起こし、その結果、情動に応じた身体反応(例えば表情が強ばるとか心拍数が上がるとか)が引き起こされる。どのような情動にどんな身体反応が起こるかは決まっており、従って逆に何らかのマーカー測定から情動反応が特定できる、という。現在主流の脳科学マーケティングの大前提でもある、と言っていいだろう。 ところが、この刺激―反応理論は、ほとんど間違っていることが膨大なメタ分析の結果わかっている。簡単に言うと、情動に特有(1対1対応)の身体反応など存在しない。さらに、研究によって、情動の正体も明らかになってきている。情動自体、刺激に対する受動的反応ではなく脳が予測・シュミレートし構成しているもの。予測には脳のオートマティックな学習プロセスが関わっている。ちなみに、脳から予測を奪うと感覚刺激は意味を失い文字通りノイズの洪水と化す。自閉症、経験盲、LSD体験はまさにその状態である。 脳の層構造理論や特定部位・特定ニューロンが特定の機能を担っているという理論も、殆ど誤りであることがわかっている。簡単に言えば例えば、情動は大脳辺縁系がもっぱら担っているのでもなければ情動だけに係るニューロンなども存在しない。運動機能に係るニューロンが情動作用にも関わっているし、作用や機能はハイパーアラーキーかつ多重フィードバックループが影響し合い都度形成されるニューラルネットワーキングによる。部位やニューロンによる役割分担のモデルからは程遠い。 心身二元論(脳身二元論)的な考え方も修正しておいた方がよいだろう。脳には「内受容」と言うプロセス・メカニズムがある。脳は、体外刺激だけでなく、体内器官、組織、免疫系、血中ホルモン等から発せられる感覚情報をも受容・表象する。ループ構造でもある。例えば乱暴に言うと、驚くから心拍数があがるのではない。心拍数が上がるから驚きと予測・シュミレートするのだ。 「内受容」プロセスは心の働きに係る重要なカギの一つ。ここから様々な驚きの帰結も導かれる。例えば。裁判における昼前の審理と午後の審理で同種の審理でも罪状認定が優位に違うという研究がある。では昼前と午後で何が違うか。例えば空腹である。空腹は「内受容」を通じて「不快」の気分・モードを誘発する。「不快」は空腹によって無意識に起こっている。だが無意識であるがゆえに脳はそれを外部情報と結びつけ、この審理で「不快」なのだと予測・シュミレートする。すると、あらゆる外部情報を「不快」と無意識に結びつけだす。弁護人の言葉、被告の態度・・例えば被告が黙していると「反省がない、不快だ!」などと。。あるいはもっとトリッキーで愉快な例を挙げよう。被験者に「色彩・形状視覚テスト」と伝える。集中のためにヘッドホンをつけてもらう。ヘッドホンからはあなたの心音が聞こえるが気にするな、と伝える。実験開始。次々に女性の写真を見せていく。ある女性のところで急に心拍が早くなった。まぁとにかく実験はその後も継続。そして実験終了後に、テストに協力してくれたお礼として、女性の写真からどれでも好きなものを一枚もって帰ってと伝える。8割以上の被験者が急に心拍数が上がった女性の写真を持って帰る。1ヶ月後追跡調査で気持ちに変わりがないか聞いてもやはり殆どが同じ女性の写真を選ぶ。やはり女性の好みについては心も身体も嘘をつけないらしい。。 のではない!!なんと先に聞かせた心音は本人のものではなく、急な心拍数上昇音もランダムだったのだ!信じられない話だろう。だが吊り橋効果だって同じメカニズム、といえば少しは合点がいくだろうか。 さて、最新の脳・神経科学の成果や実験心理学による実証などの話は続ければきりがない。 今日の最大のTake away。ことほど然様に、最新の脳・神経科学に通じているのでもないかぎり、今持っている脳の働きや情動・欲望に関する常識は、一旦全部捨てたほうがよさそうである。 (文責:金光隆志)
欲望の探求② -欲望って何?-
以前、「欲望の探求」というコラムで、欲望がどのように生まれるか、初期的な考察とパターン了解を行った。商品・サービスやマーケティングを考える補助線になるだろう。だが、そもそも欲望とは何か?実は案外得体のしれないものではないか。 そこで今回から、欲望そのものを考察してみよう。 さて、欲望とは何だろうか? 食欲、性欲、睡眠欲、金欲、権力欲、知識欲・・欲望にはキリが無い。もっと言えば「欲」をつければ何でも欲望になる。これは半ばレトリックだが、あながち間違いでもない。しかし「欲」を書き連ねただけでは欲望の正体にはたどり着きそうにない。では欲望とは? 欲望とは生命そのものである。とひとまず定義しておこう。これはレトリックではない。 いや、表現は全てレトリックなのだから、そう言うとちょっと言い過ぎなのだが、まぁ喩え話の類ではないと理解してほしい。ではどういうことか? 例えば。あなたはお腹が空くだろう。そしてお腹が空くと同時に何か食べたいと思うはず。 お腹が空くという感覚と何かを食べたいという感覚は相同。 そしてここで「空腹を満たそうとする」ことを「欲望」と呼ぶことに異論は殆どないだろう。 さてでは。もしあなたが、何らかの障害で空腹を感じない、したがって何かを食べようとしないなら、どうなるか。死にますね。 つまり。大分あいだを端折って言うと、Filled/Unfilledポテンシャルを情報として感知し、そのギャップを埋めようとエネルギー代謝を行うこと。これが欲望≒生命ということだ。意識の有無は関係ない。この定義によれば植物だって欲望する。でも鉱物には欲望はない。 繰り返す。欲望≒生命とは、Filled/Unfilledポテンシャルを情報として感知し、そのギャップを埋めようとエネルギー代謝を行うこと、だ。これを運動因と言ってもよいかもしれない。 内的ポテンシャルを動因として運動するものが生命だ。運動が止まれば生命ではなくなる。 こんな疑問があるかもしれない。例えば本を読みたいというのは欲望だが生命と言えるのか、と。言える。生命でなければ本を読みたいなどと思わないのだから。 あるいは逆に、欲望のない生命があるのではないかと思うかもしれない。インチキに聞こえるかもしれないが、上記欲望≒生命の定義からして、それは無い。 ところで、 Filled/Unfilledポテンシャルを情報として感知する、とはどのようにして可能か。 これも大分あいだを端折って言うと、脳・神経科学の現代の知見・研究を踏まえれば動物にとってそれは快/不快ポテンシャルとして感知するもの、と言って概ねよいだろう。間を端折り過ぎだが詳述はまたの機会に譲る。 さて。こんなことを考えて何の意味があるのか。まぁ色々あるのだけれど、これはビジネスコラムなのだから、もちろんビジネスにとって意味がある。 欲望が消費を駆動するからだ。大上段にエネルギー代謝とは消費であり従って消費とは生命なのだと往年の経済人類学よろしく大見得切ってみるのもありだが、ここでは狭義の消費の話としよう。 消費があってはじめてビジネスが成立する。ならは、ビジネスをこう定義してもよいだろう。 Filled/Unfilled、即ち快/不快ポテンシャルを情報として感知させ、それを埋めようというエネルギー代謝を促すこと。これがビジネスの最もラディカルな定義、と一先ず言っておこう。 さてさて。では快/不快ポテンシャルを情報として感知させる、とはどういうことか。 ここにビジネスの全てがある、と言っても過言ではない。次回以降で考察を深めていこう。 (文責:金光隆志)
データサイエンスのオルタナティブ未来
ビジネスは今も昔も、平均(マス)を狙うか細分化(差別化)するか、その選択であった。 経営学では、それぞれの成立条件、事業特性・優位性との関係、エコノミクス、具体的方法論などが研究され、洗練されてきた。 ところで、大げさになるが、実はこれは人間のモノの考え方、そのものである。 平均とは、全体・マクロ・統合・共通・普遍・抽象・・・の系。 細分化とは、部分・ミクロ・分解・固有・個別・具体・・の系。 ちなみに思考力のカラクリは、この2極それぞれをゴリゴリ突き詰めつつ2極をグルグルと回すこと。これに横滑りが加われば自在。思考力の話はまたの機会に譲ろう。 さて、平均と細分化はいまもって、殆どのビジネスで相当にうまくいく。 もう少し丁寧に言って、全体と部分を吟味し、分布を考慮に入れ、更には部分と全体の影響関係をシステム的に考察すれば、ビジネス検討としてはほぼ完璧だろう。 だが、平均にせよ細分化にせよ、それが人間のモノの考え方そのものである以上、人間認識の限界の内にある。 例えば。 あなたはインドア派かアウトドア派か。内向的か外向的か。陽気か陰気か。文系か理系か。邦画派か洋画派か。モダン派か古典派か。TV派かネット派か。犬派かネコ派か。音楽はロックか、ポップスか、R&Bか、ジャズか・・。 詰まるところあなたのペルソナは何派か。云々。 殆どの事項について、イチゼロではないであろう。その日の気分、コンテクストなどによっても変わるだろう。犬派だがブルドッグよりネコのベンガルの方が好きかもしれない。ガリガリくんが好きだけど今日はハーゲンダッツの気分、ロックが好きだけどジャズも聞くよ、など。 つまりどのように、あなたのペルソナを「ざっくり大雑把に」捉えようが「細かく分けて」捉えようが、単純化あるいは固定化して捉える以上は、それはあなたではない。 あなたとは、生物学的にも心理学的にも、Chaoticな矛盾や対立を平然と内部や行動諸局面に抱えながら、不均衡の振動やベクトル相殺によって動的に均衡した複雑系、なのである。 動的均衡複雑系のあなたをそのまま捉えることは残念ながら無理。しかし、単純ではないあなたに動的に肉薄していく道標はある。その道の一つがビッグデータ・機械学習・最適化・・・、即ち現代データサイエンス。 現代データサイエンスは驚くほどの粒度・精度であなたを識別する。恐らくあなた自身よりもあなたを詳しく描写できる。これだけでもビジネスに、マーケティングに革命を起こすに十分だ。 そしてデータサイエンスにはもっと先があるだろう。精度の先。 と言っても今の私の力量では上手く語れない。だがイメージはある。生成の論理、とでも名指しておこう。ダイナミックプライシングやThompson Samplingアルゴリズムによる動的最適化のような方向性に感じる可能性だ。これらは勿論、予測や最適化の論理の中にある。であるならば、精度の追求は論理的には過剰適合に帰着する。乱暴にだがとりあえず、過剰適合とはランダムや誤差にまで適合して説明してしまうこと、と解しておこう。予測や最適化論理の内に留まるなら、これは要修正ということになる。だがここで、動的予測に留まらず動的生成の論理を導入したらどうなるだろう。実際ランダムや誤差とは、まさしく生成のリアルなのではなかったか。さらに推し進め、意図的にランダムを取り入れて、人とダイナミックに未来を形成していくマシンを想像してみるとどうだろう。実際ランダムはまさしく人の特性でさえなかったか。そして更にここでネットワークサイエンスを導入したら。アイデアの流れ・社会現象の生成に限りなく近づいていくのではないだろうか。 言葉にすると随分抽象的になってしまったが、要するに、予測・最適化論理の延長では、どこまでいってもデータサイエンスからピコ太郎(古くてすみません)は生まれない。でも生成の論理を導入したら、少なくとも生まれる可能性が生まれ、しかも人間だけの世界よりほんのちょっとであっても生まれる確率が高まる、のかもしれない。 うん、ちょっとまだSF。だが、荒唐無稽ではない近未来の可能性ではないだろうか。 (文責:金光 隆志)
非合理の合理 マーケティング X
大事な仕事の納期が2週間後に迫っている。結構タイトだ。 でもこんなときに限って、絶対観たいアーティストの来日公演がある。この機会を逃したら、いつ日本で見られるか解らない。いやもしかすると二度と日本にこないかもしれない。公演行くか仕事するか。この状況で、公演にいかないで仕事を選ぶ人は2割程度。まぁそうでしょうね。 しかし。ここでもう一つ、前から絶対観たいと思っていた映画上映がちょうどこの公演の行われる週末まで、だと判明した。さてどうしよう。公演に行くか映画行くか仕事するか。 実験によれば、驚くことに、映画の選択肢を加えると4割の人が仕事を選ぶ、というのだ。 この結果、どう考えてもおかしい、ですよね。論理的には。 そう。人間はちっとも合理的じゃない。 なのに、日常の些細な会話、企業のマーケティング、更には国レベルの大きな施策まで、人が合理的であることを前提にした訴求に溢れている。結果は外すに決まっている。反省はしても考え方は変わらない。 なぜなのだろう? 当たり前?どうでもいい?というのは思考停止。これは考察に値する。 起源その一。モダニズム。 人は合理的であるべきだ、というモダンのパラダイムに未だ我々はどっぷり浸かっている。理性こそが至上で未開は啓蒙されなければならない、というのがモダン思潮。科学はモダン思潮とともに発展してきた。まぁそれはさておき、で、どうなったか。合理的である「べき」の「べき」がいつのまにか無くなって、合理的「である」と意識的にも無意識的にも教条・前提してしまった。啓蒙思想、ホモ・サピエンス(理性の人)の完全勝利。理性でもって無知や教条・迷信に光を当ててきた、文字通りEnlightmentの営みが、いつの間にか「人は理性的」というあらたな教条を生み出した。我々は想像以上に、その影響下にいる。 その二。野生の思考。 モダニズムと相反するようで共犯関係という、ちょっと込み入った論旨だが、端折っていうと、ノモス(人為)をピュシス(自然)の相似形で考えるという人類学的傾向の現れ。合理的思考は、人や社会以外の理解ではそこそこうまくいく。いってしまった。ということはピュシスは合理で出来ている。ならばノモスも合理で出来ている、という算段だ。人は普通こんな風に考えてない、という話をしているのではなく、人類学的傾向(人や社会の無意識の思考構造、的な)の帰結として、である。自然の理解を人間や人間社会の理解にあてはめる野生の思考がより根源的なところで働いて、合理主義的モダンを下支えしている。 起源その三。心理学的合理化。 人間は合理思考が苦手だから経験(ヒューリスティック)で考えるという論があるが、必ずしもそうではない。むしろ合理的に考えるのはぶっちゃけ簡単だし安心だ。合理的とは論理的に正解であること。トートロジーだが、論理は必然解を導く。簡単。で、必然解には抗えないしだから安心。だが人間について考えるとき、論理の大前提が間違っている。人間は合理的である、という前提の上に構築された論理は、偽の命題からスタートしているのだから結論も偽。合理的ではないと解っているのに合理的だと仮定して合理的結論に安心するのはまさに心理学的意味での合理化である。 さてしかし、合理を更に突き詰めつつある現代。最先端のサイエンスやテクノロジーによって、ピュシスはそう単純じゃないことがわかってきた。まぁ要するに複雑系ということだ。ということはノモスだって?そう。というわけで、ノモスもそう単純じゃない、というか人間的自然はノモス(人間社会の形成・秩序)で単純に合理的に割り切れるような存在ではない、どうやら人は「合理的人間」からは程遠い、ということも。 行動経済学や認知科学が、「人間って合理的じゃないのかも」という仮定・前提のもとに発展しつつある。その知見はまだまだ道半ばとはいえ、かなり色々なことが解ってきている。その知見を政策に活かそう(ナッジ)という動きもこの20年で少しづつ広がってきた。 では、企業のマーケティングではどうか。聞きかじりの知見で茶飲み話程度に確証バイアスだのアンカリングだの会話していることは耳にするが、そんなものは無害どころかかえって危険。徹底的に合理ロジックを推し進めるほうがまだ有益。実際、非合理な人間を丸ごと捕まえるのは難しいにせよ、現代の日進月歩データサイエンスなら結構肉薄は出来るのだ。 これからのマーケティングはR&Dの時代になるだろう。人間のリアルに迫る探求が、人文的、科学的、技術的に急速に進展していく時代において、それら人間探求へのR&Dの差がそのまま企業の差となっていくことは、それこそ簡単な合理的推論である。 人間の思考や行動は非合理に満ちている。そのことをメタレベルで合理的に認知し判断できる者が勝者になっていくだろう。 (文責:金光 隆志)
ひとのとき -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(終)
企業はこれから益々、社会的な課題に取り組み、社会的責任を果たす方向へと進んでいく。間違いのないことだろう。 日本では未だESGやSDGsをメセナの延長くらいに認識している企業も多い。だが、欧米企業は遠の昔に事業活動においてESGを意識し、SDGsへの取り組みを強化してきている。ESG格付け機関によるスコアが、ESG銘柄として企業価値を直接・間接に左右するなど、株主/資本にとっても、もはやESGは無視できないどころか、企業がSDGsに積極的に取り組むことが株主のメリットに繋がる重要なアジェンダとなってきている。 SDGsに取り組むことが企業価値にプラスに働くなら、善意でも悪意でもなく、資本はSDGsに取り組むESG銘柄に集まるだろう。尤も、これは自己言及的な構造でもある。欧米の有力機関投資家の多くは国連環境計画の金融イニシアティブPRIに署名している。PRIに署名した金融機関はPRIの基準を満たすために、企業にESGへの取り組みを要請し、ESG取り組みが水準以上の企業に投資をする必要がある。当然ESG銘柄に資金が集まる。株価があがる、まぁからくりはどうでもいい。有力企業にはSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブがある、ということだ。 企業がSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブはもう一つある。これも欧米では顕著だが、Z世代を中心としたエシカル消費・ポリコレコンシューマーの増大である。人や社会や環境に対し責任を果たしている企業の商品を選択する、という、消費行動を通じて、よりよい世界を実現しようというのがエシカル消費。このような考え方をする消費者が増えれば増えるほど、企業はSDGsに取り組むことが必須となっていく。 現段階では、ESGと資本効率(ROE)のバランス・両立、などという議論も未だなされる(日本で顕著)が、本質的ではない。もしエシカル消費が十分広範に浸透すれば、SDGsとROEはより連動性を高めていくことになるだろう。新指標として提唱されているROESG(ROEとESGスコアの合成でバランス・両立を測る)等、ROE(資本)とESG(社会責任)のトレードオフをインプリシットに前提しているような議論は、いずれ終焉するだろう。はっきりいって、世界の先端から見れば既に周回遅れの議論である。 さてここまでは、外からのプレッシャーへの反応で企業が変わっていくというストーリーを語ったが、最後にもうワンピースある。それは、企業自身の内からの変化である。消費者とは誰のことか?言うまでもなくその多くは企業の従業員でもある。消費者・生活者としてエシカル意識のある人間が、会社の従業員という立場ではアンチエシカルに考える・行動する、というのは中々難しい。企業は内からも、エシカルに考える人々(消費者→従業員)によって運営されていくようになる。 ここにきて、重要なことが明らかになったであろう。生活者がエシカルになることと企業がエシカルになることは、ほぼ同時進行なはずなのだ。当たり前だが、企業の性格を決めるのは最終的には人である。とりわけお客様である生活者である。企業は生活者の要求に応えて初めて存在できる。一方で生活者とは企業の従業員でもある。全てが連動していく。 ところで私の見立てでは、いまちょっと面白いというか、おかしなことが起きている。 振り返れば、SDGsにおいて、現在一番意識が先行しているのがESG投資を推進する金融(資本)であり、それに応える形で企業がSDGsに取り組み、一方消費者はと言えば、Z世代を中心にエシカル消費意識が高まりつつあるとはいえ、まだまだエゴが強い、という構造だ。市民のエゴな欲望が強いからこそ、国家もエゴイスティックでナショナリスティックになるのだろう。 まるで逆立ちではないか。社会的行動を積極的に取ろうと思う企業は生活者に社会的行動を啓蒙しなければならない、わけだ。このねじれが、ROEとSDGsのバランス・両立といった議論をあたかも本質に見せてしまう。だが今はそれでよいのではないか。企業と消費者、どちらが先行しようと、いずれ相互にもっと影響し合う関係になっていくだろう。 そしてこれまでの論理で明らかな通り、エシカル消費が広く生活者に浸透した暁には企業は当然エシカルになっており、即ち社会全体がエシカルになっているはずだ。楽観的に過ぎるだろうか。だがここにトレードオフはありえない。エシカルと懐具合のトレードオフに悩むことは起こり得るだろう。あるいは行き過ぎたエシカル/ポリコレが逆に問題となることもあるだろう。だがそうやって、正―反―合の運動をくりかえしながら、ポストエシカル消費の世界は形成されていく。 日本でも進んだ企業では、30年先の社会をエクストリームな形で想定し、そうだとしたら今何をすべきか、という思考でSDGsへの取り組みを駆動している。自らなにかを仕掛けるだけでなく、自社の事業資産やケイパビリティを開放して、市民や活動家に社会問題解決に役立ててもらうことは出来ないか、考えている企業もある。「ひとのとき」では、企業と消費者と活動家が一緒になって、あるいは企業同士が組織の垣根を超えて一緒に、SDGsの実現に取り組んでいく社会基盤、プラットフォームを創ろうと構想している。 社会資本、シェア、ギフト、おすそ分け、・・これらのオルタナティブ経済議論は重要だし興味深いものだが、一面では、市民運動よりはるかに先に企業の実践・挑戦が始まっているともいえる。対峙ではなく共創の思考と行動。時代を先へと導いてくれるだろう。 (文責:金光隆志)
資本とエシックス -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(4)
さて、経済発展のためには、お金持ちは必要、浪費は美徳、という論を展開してきた。 ここまでの議論をフォローしてきた方には、この論理の手強さはある程度伝わっているのではないか。と同時に、やはりどこか違和感が残っているかもしれない。 そうだとしたら、違和感の正体を、それぞれに突き詰めて考えてみることをオススメする。 そんなことをして何になるのだ、などと言う人は端からこんなエッセイを読んでいないだろうから、何故、はおいておこう。批判思考のちょっとした訓練になるサイドエフェクトは請け合いましょう。 私の場合、違和感は、カネだけが全て、ということのようだ。 思うに資本の決定的な弱点。それは、資本が収益率にしか興味がないこと。 薬を例に考えてみよう。罹患すると大変な苦痛の末に確実に死に至る病があるとする。通念として、この病を治療できる意義は大きいと感じるのではないか。しかしもしこの病が年間にせいぜい1000人しかかからないとしたら、製薬会社は莫大な研究開発費を投じてこの薬を作ろうと思うだろうか。多分、同じ開発費で、死なないけど毎年100万人がかかる病気の治療薬が作れるなら、そちらを優先するだろう。などなど。 つまり、資本にはエシックスはないのである。エシックスなんかより収益率の高い投資機会を求めてさまよい群がるのが、資本の行動原理。悪意も善意もない。そういう生き物。 あるいは、資本の収益最大化行動は、功利主義的立場からは実はそこそこ全体善を実現しているのだというのかもしれない。だが、カネの量最大化=全体善というのは雑に過ぎる。この論を揺さぶるのはすこぶる簡単。例えば、電車の中で足の悪い高齢者に席を譲るのは善いことだろう。この行為にカネは絡まない。むしろ絡んだ瞬間それを善と呼ぶことに躊躇いを感じるはず。以上。 さて、資本が、エシックス欠如という根本的弱点を抱えているのだとすると、それはきっと乗り越えられなければならないはずだ。 ということで、ようやく経済・ビジネス議論のフロントラインにたどり着いたようだ。昨今のSDGs議論、CSV経営、エシカル消費、レスポンシブルコンシューマー、等など。意識的であれ無意識にであれ、資本の側の自己防衛としてであれ労働者/消費者側の生活者としての覚醒・蜂起としてであれ、高度に発達した資本が抱える矛盾の前景化によって、人々がエシックスに向き合い始めた証、といって言い過ぎなら兆候なのではなかろうか。 ところで先程、資本のエシックス欠如、の趣旨をわかりやすく示すために薬を例に語ったが、グローバル製薬企業の名誉のために付言すると、彼らは21世紀から徐々に、患者数の少ない難治性疾患の治療薬開発にも一定の力を入れてきている。その成果は今出つつある。 製薬企業に限らず、IBM、GE、ユニリーバ、Nestle、J&J、Google・・・グローバル企業では、21世紀以降、社会的な問題解決を企業の事業アジェンダとして取り組む動きが広がり、この10年で実際に成果を上げてきている。2000年の国連ミレニアム宣言/ミレニアム開発目標(MDG’s)を境に、といっていいだろう。 ごく最近SDGsを意識し始めた日本企業とは20年近い差がある。この差は絶望的なほど大きいのだと言わざるを得ない。それでも、前に進まないよりは遥かによい。 ということで、そろそろポスト・エシックスを考える準備が揃ってきた。 (文責:金光隆志)
お金はやっぱり浪費とお金持ちがお好き!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備・補助線としての試論(3)-
前回、前々回の話を、マクロな視点から、更に論理展開してみよう。 本質をえぐり出すため、生産財投資や税や政府セクターや、話が見えにくくなることは乱暴なまでに省略し、議論の単純化を行っている点、ご了承願いたい。 さて。 経済の発展とは、究極的には、未来への信頼・信用なはずである。 どういうことか。 市場経済×資本経済における生産と消費には絶対的な矛盾がある。 労働契約で支払われた賃金以上の商品価値を生産しても、賃金以上の消費は出来ない。ということは、一つの経済系の中に閉じている限りは、利潤なんて生まれない。売れない商品の在庫が残って終わり。なのだ。 解決策は「閉じない」以外にはありえない。つまり「外」から買ってくれる人の存在だ。資本は常に「外」を必要とする、ということを了解しておくとよい。 で、これ実は、前々回のたとえ話で言った「なぜかお金を持っている人」のことである。 何故かお金を持っている人とは例えば、なぜか過去からの蓄積がある貴族的な人。あるいは例えば日本人が作ったものを買ってくれる外国人。とか。 でもこれら「空間的な外」には当然限界がある。貴族は過去の蓄積を食い尽くしたらアウト。外国人消費を取り込むとは要するに経済圏をどんどん海外まで広げて「内」に取り込んでいくことだが、取り込み尽くして地球規模での「内」なる経済圏が完成したら終わり。もはやその外からの消費は無い。 そこで、究極の解決策「時間的な外」である。つまり未来の消費の先取り。経済が発展することを前提に、先に支払う。例えば、生産性が上がっていくことを前提に賃金を高くする。そうすると今の消費力があがる。あるいは、人口が増える。そうすると消費力があがる。 さて、時間的な外にだっていずれ限界はあるはずだが「発展する」と信じて金融が資金を提供する限りは、限界は見かけ上は先送りされ続ける。お金を刷り続けることになる。すると最初はインフレが起こる。でも一定範囲のインフレなら、過去の借金棒引き効果があるから、ある程度は辻褄が合っていく。インフレ経済下では投資をしろ、と言われる所以だ。インフレでしばらくは消費も刺激されるから、投資によるさらなる生産力の拡大は、借金棒引き効果とも相まって見返りのあるものとなるだろう。 さて、だが、ここでもし、「欲しいものもう別にないわ」、となったら何が起こるか。「買えるものがない」のじゃなくて、「買いたいものがない」状態。これが実は人類が歴史上初めて迎えつつある現代の先進国市場の姿、なのかもしれない。だから、まだ何がこれから起こるのか、よくわからない。 わからないけど、一つのシナリオは今の日本が見せているかもしれない。 買わなきゃ経済は縮んでいきます。急に縮んだら失業者が増えます。だから緩やかに縮むように、所得が調整されます。デフレです。デフレだと心理的にも財布の紐は少し固くなっていく。買ってほしいから商品の価格も下がってくるでしょう。でもさして欲しくないとそんなにも買わない。するとデフレがさらに進行する。デフレスパイラル。 日本の実態は更に複雑で、人口減少と急速な高齢化という問題も抱えている。労働力が足りないから外国人労働者を大量に受け入れている。でも単純労働が殆どだから大した消費力の向上には繋がらない。肝心の日本人の消費マインドは一向に上がらない。若者だけじゃない。高齢者なんてホントにそんなに今更欲しい物なんかない。かくして金利をマイナスにしてもデフレは止まらない。 こうなると、もう未来への信頼・信用を取り戻せるのか、なかなか難しそうだ。 究極的にはやっぱり前回や前々回の話の通り、余分なものでも買ってくれる金持ちと、不要だけど欲望を刺激する商品を作れる人、この人達が経済を活性化させて、結果、世の中を進化させる医療やら情報テクノロジーやらにも投資のお金が回せる世の中にしていく、というのを無理にでも目指すしか、ないのかそうではないのか。 (文責:金光隆志)
富豪は悪徳? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(2)-
前回は浪費と金持ちを礼賛してみた。 そこで、今回は、逆に富豪を地底に叩き落とすことを試みよう。 富豪って相当恥ずかしいことだと思う。と先ずは言ってみよう。 そもそもなんで富豪が生まれるのか。ちょっと考えてみるとおかしいと思いませんか? 思わないなら、イノベーションには向かない。常識や慣習を全く疑えないのだから。 だが、深く考えた結果、おかしくないと言えるなら話は別だ。 さて、なんで富豪が生まれるのか。簡単なこと。 略奪か、お金でお金を生んでいるか。根本的にはこの2つだ。 (アントルプルナー論はややこしくなるのでちょっと脇におく) 先回りして言っておくと、市場経済と資本経済は全く別、独立したものです。 モノやサービスの価値が取引で決まるのが市場経済。お金がお金を生むのが資本経済。 資本経済を否定したからといって市場経済の否定にはなりません。 しかして、資本は巧みにこの2つを駆使して、ボロ儲けするわけだ。 市場経済で略奪し、資本経済によって、略奪したお金でお金を生んでいる。 なお、お金がお金を生むプロセスは、単純な利子という形もあれば、溜まったお金が一度再び商品に形を変えて再び増えたお金に、というパターンも有る点留意されたい。 これが真実なら、富豪になるって相当恥ずかしいことじゃないですか? さて、資本は、略奪なんて無いというだろう。確かに。現行法的には何ら略奪はない。 雇用者との労働契約と、事業における売上(商品売買契約)。この2つはそれぞれ独立した、別々の意思・同意によって行われている。売上と賃金に差(益)があっても不正ではない。どちらも市場経済を前提とした独立した本人の意思・契約なのだから、そこに差益があっても略奪は無い。 確かに。 しかしおかしくないか?皆で働いて作った商品の収益は皆のものじゃない? 利益が余ったのなら労働者で分配するのが筋じゃない? いざというときのために貯めておく。いいだろう。 事業を大きくするのに必要な投資にとっておく。いいだろう。 でも、あくまで労働者が働いて作った収益。だから契約がどうあれ労働者のもの。違う? うーん。前回の浪費と金持ち礼賛と比べると、論理としてちょっと、いや大分弱いですね。 これ以上論を展開したところで道義論か、人間や人間社会の本質とかを持ち出すイデオロギー論に帰着してしまう。 そもそも労働契約や資本利潤が嫌なら自分たちでギルド的に商売やれば、って話だし。 それを別に禁止していないのだから。勝手にやればいい。やってないだけのこと。やってないのはやれないから。 これは資本主義とかギルドとか関係ない、職人ギルドでも、力ないうちは親方のもとで丁稚奉公で修行するのだから。いや、資本が生産手段を独占しているからして云々・・、いちいち異論に反論していたらキリないのでここらで止める。 いや、一つだけ言っておこう。この議論の延長に出てくるであろう弱者、マイノリティ、他者へのまなざし・・というのはとても大事だ。だが安易不用意にそんな話をもちだしたら、それこそ”社会的承認”云々とやらの目くらましで、本質的論点から目を逸らされてしまうのです。まずはマテリアルな論理を徹底しなければならない。 さて。だからこそ。略奪の不道徳性に訴えた革命が、所詮ルサンチマンを根拠にした革命であり、ルサンチマンとはエゴなのだから、そのエゴを大規模に集約してしまった以上、強烈な力でそれを押さえ込まなければならなかったわけであり、結局暴力と圧政と独裁と権力しか産まなかったわけではなかろうか。 共産主義革命って、資本経済を直接的に否定したんじゃない。労働と商品の市場経済を否定した。だから計画経済に行ってしまった。のではないかな。 生産と消費の矛盾及びお金でお金を生む信用経済≒資本経済の破綻の必然性(というか可能性)を語りながら、初期の疎外・搾取論だけ(は言い過ぎだけど)を根拠に勝手に後進資本主義国で革命して失敗されてしまい、その責をなんとなく着せられたマルクスってちょっと気の毒。 前回にも少し考察したが、お金持ちの否定とは市場経済の否定にほぼ等しい。市場経済の否定は私有財産(自分の労働力という商品も含め)の否定にほぼ等しい。逆に言えば、私有財産があれば市場は必ず生まれるだろう。市場が生まれれば必ずお金持ちが生まれるだろう。そしていずれ大きな資本(ストック)が生まれ、大きな投資が生まれるだろう。大きな投資は更に大きなベネフィットと利益を生むだろう。 例えば、多くの人が薬の開発は否定しないだろう。これには大規模投資がいる。この大規模投資をまかなえるのはお金持ちであり資本だ。 共有資本や社会資本を語る人は論理が逆立ちしている。共有資本や社会資本は市場経済の外に位置する。だが、大きな資本は市場経済からしか生まれない。 あるいは、大きな共有資本や大きな社会資本こそ、怪物的な権力による大きな略奪からしか生まれないだろうと言ったほうがより正確か。 はてさて。ルサンチマンではない私有財産の否定/アウフヘーベンの道ってありやなしや。 (文責:金光隆志)
浪費は美徳!?金持ちは必要!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(1)-
今日は少し変な考察をしてみましょう。 一般に浪費は悪徳とされる。節約・倹約は美徳とされる。本当だろうか? そこで、ひとつ簡単な考察をしてみましょう。 ここに5人の生産者がいます。それぞれ米、野菜、精肉、服、宝石を作っています。 みんなお金は大してもっていません。すると何が起こるか。想像されるのは、宝石売れないだろうな、ということ。売れないとどうなるか。宝石屋さん飢えて死んでしまいます・・ さて、ここに一人お金持ちがいたとしましょう。この人は何も生産していませんが何故か沢山お金を持っている。お金があれば、大して必要ないものでも買ってくれます。宝石を沢山買ってくれたとしましょう。すると宝石屋さんにもお金が入ります。必要なものが買えます。 この話どう思いますか。宝石なんて必要ないものを作った人が悪い?死ぬのは自業自得? では宝石ではなく、椅子・机を作っていたけど、皆一応間に合ってるから無駄使いする余裕も無いし買ってくれなかったのだとしたら?やっぱり自業自得? 人に必要とされるものを作れない人が悪い? でもそんなにみんな、必要なものありますか?そして必要なものなら誰でも何でも作れますか? 多分殆どの人は、あってもなくてもどっちでもいいものしか作れないんじゃない?もう少し言って、必要なものだけしか経済で回らない世の中になったら殆どの人、死んでしまうんじゃないの?マンガはもとより、絵とか要らない、結婚式のきれいなドレスとかいらない、化粧なんて不要、スポーツなんて体力の無駄、学者なんてくそくらえ・・とか言ってたら、経済回らないし、無理にそれで回したとしても世の中つまらないし。 もの凄く乱暴に言って不景気とはこういうこと。皆が何らかの理由で節約・倹約すると景気は悪くなります。何等かと言ったけど、節約・倹約の理由は基本的には将来不安。食べるに困らないと思ったらみんな無駄なもの買いますから。欲望過剰は人間の本性。という話は論点がずれるのでこれ以上は言わない。 戻そう。だから。未来永劫食べるに困らないと思う人が、じゃんじゃん浪費してくれたら、庶民にもお金が回ってきて、少し贅沢出来る人も出て、大して必要ないものも売れるようになって、そういうのもを作る人にもお金が回って、経済全体が活性化するはずなのです。 人類生態系におけるキーストーンとなる少数のお金持ち。 大して必要なくても人の欲望を掻き立てる商品を作れる人たち。 これらの人が肥大化した人類の経済活性化のカギを握っているのではなかろうか。足るを知ったら現代経済も社会も終わる。浪費は美徳。金持ちは必要。 異論・反論・反感・・あるかと。しかしこの話を論理的に論破するのはかなり難しいと思う。 せいぜい統計的にトリクルダウン仮説を棄却する、程度のことしか出来ず、更に言えば、だから累進課税を大きく、程度のことしか言えない・言わないのだとすれば、何ら論破になっていない。 「金持ちが思ったほど富を使ってくれないからその人達から強制的に巻き上げて皆に配りましょう」と言うのは、上記論理の劣化ヴァリアントに過ぎないのだ。格差拡大が問題、など論外。貧困は問題だが格差は問題じゃない。メッシにビッグマネーが集まるからといって、Jリーガーが不公平だ、と言ったところで痛いだけ。メッシとJリーガーを企業家と労働者に置き換えても同じこと。資本と労働の分配率云々も同じこと。ビル・ゲイツが大富豪でMS社員が貧困なら流石に問題かもしれないが格差は問題か? 恐らく私有財産を否定しないかぎり、浪費と金持ちを否定は出来ないだろう、と思う。 否定できないから累進課税で強制的に制約しようというのは暴力的だ、ということには敏感でありたい。 だいぶ話がずれてきた。余談ついでに衝撃的な?事実をひとつ。 かのカールマルクス大先生も実は借金しまくりの大変な浪費家だったのさ!! (文責:金光隆志)
生態系の戦略
イノベーションの大きな、そして見落としがちな落とし穴として、既存エコシステムとの思いがけないミスマッチ、というのがある。 ロン・アドナーの「ワイドレンズ」で見事に実証的に論じられている。10年近く前の名著で、今更そこに付け加える論もないが、概略はこうだ。技術的にも顧客への提供価値においても画期的な新ソリューションが出来たとする。画期的な新ソリューションは通常1社では実現できず、共同開発はじめ様々なパートナーとの協力関係が必要となる。その複雑さや困難さは、模倣障壁ともなるだろう。一見いいこと尽くめだ。だがまさに、この複雑な協力関係の必要性こそに、往々にして見えない落とし穴が潜んでいる。どういうことか。画期的な新ソリューションにおける協力関係の必要性は、産業システム全体に及ぶ。作る人、はもとより、部材を供給する人、流通する人、販売する人、使う人、修理する人・・・。ちょっとした適応の必要性まで含めれば、最上流から最下流(顧客)まで全てに何某かの適応を求める。ところが。新ソリューションの開発者は、その実現に向けては最大限の注意と粘りと集中力でもって、様々な人と協力する。昨今で言えばオープンイノベーションのような動きだ。そして、首尾よく開発できて、顧客の難題を解決できるのではれば、他の多少の適応など大きな問題ではない、と考えてしまう。ここに想像力の限界がある。想像力の限界は2つだ。第一に、サプライチェーン上離れたところの、中でも現場サイドでの適応の難度や抵抗にまで、想像が及ばないケースが一つ。第二にもっとやっかいなのは、サプライチェーン各段階に少しずつ適応調整の負荷がかかると、それは掛け算となって、顧客に届くまでにはかなり大きなハードルになる、ということ。真に画期的なソリューションであっても全く普及が進まないということが起こり得る。ミシュランのPAXシステム、ファイザーはじめ大手製薬会社がこぞって開発した吸入インスリン、デジタル映画の導入初期など、「ワイドレンズ」では目をみはる例が様々挙げられている。 逆も真である。遠く離れたところを含め、サプライチェーンで直接・間接に関与する各プレーヤーが少しずつでも協力し応援してくれたとき、顧客に届くまでに大きな推進パワーとなっていく。スマートフォンがなぜかくも早く世界に普及したのか、今となっては当たり前に思えるだろうが、ノキアのつまずきを振り返れば、それが紙一重であったことがわかる。 ここに、提供価値設計における視点の革新ポイントがある。 顧客の定義を変えてみよう。サプライチェーンに関わる全ての人達が顧客である。全ての人達それぞれに少しずつでも協力を引き出すベネフィットを考案出来れば、顧客に届くまでに大きな力となる。 ビジネスの始点終点の定義を変えてみよう。よもや売っておしまい、とは思っていないだろうが、アップサイクルまで視野に入れて考えたことのある人はほぼ皆無だろう。周辺の商品やサービス、メディア等まで含めて終点のないビジネスサイクルを構想できれば、生態系の繁栄ポテンシャルがぐっと上がる。 ワイドレンズのコンセプトをささやかながらでも発展させ得る点がるとすればここだろう。 (文責:金光隆志)