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Column
ー コラム

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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。

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a.戦略
b.イノベーション
e.マネジメント
d.マーケティング
c.ビジネスモデル
f.価値
g.欲望
h.メカニズム
i.ヒットサイエンス
l.発想のアート
j.テクノロジー
k.社会課題

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2024-02-14

戦略とコンテクスト

以前に創造性とコンテクストについて論じました。創造性とはコンテクスト(モノ・コトの関係の網)への眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造である、と。 そして戦略性と創造性についても論じています。戦略性と創造性は高みであるほどに双子の兄弟である、と。(興味のある方は「発想のアート」タグからコラムを検索ください) そうすると、論理的には以下の言説がある程度成り立つはずだと予想されます。即ち、戦略性とはコンテクストへの眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造である、と。 はたしてどうでしょうか。 昨今、戦略とコンテクストや創造性を繋げて考えられている人は殆どいないのではないか。 それこそが戦略の貧困を招いており、貧弱な経営を招いているのではないか。 さらに言えば。 大企業による新規事業創出が殆ど上手くいかないのも事業アイデアの貧困(だけ)ではなく戦略の貧困に起因しているのではないか。 ほんとうに、まともな戦略議論というものに滅多にお目にかかれなくなりました。かわりに、○○キャンパスを埋めたりだとか、1時間議論して決める戦略ワークショップ云々だとか、一体何がしたいの?というような戦略もどき、いやもどきにすらなっていない、誠にもって珍妙なるワークを行っている例は枚挙に暇がありません。 戦略とコンテクスト。 そう、まさに戦略とはコンテクストの発見・破壊・創造と言ってもよいでしょう。逆に言えば、コンテクストを無視した戦略には殆ど意味はありません。というよりそれはそもそも戦略ではありません。 いささか戯画化した単純な例を見ておきましょう。 「わが社の優位性はコスト競争力にある。競合に比べて購買や生産システムの工夫・構造的な差異によって20%程度は安い。細やかな差異の集積によるコスト差のため、簡単には模倣もできない。そこで、このコスト競争力をさらに高めるべく生産性向上の各種施策を推し進めることで、競合を突き放し収益倍増を目指す。」 さてこれ、戦略として正しいでしょうか、間違っているでしょうか。考え方の筋はいいでしょうか、悪いでしょうか。 おそらく、このコラムで“コンテクスト”というキーワードをちらつかせていなければ、多くの人は「戦略理論を押さえ、結構良く考えられているのでは?」と思ったのではないか。 実際、この程度の論理さえ事業計画で展開されることは珍しくなってはいます。合格点をあげたい気持ちもあります。ですがコトと次第では、〇〇キャンパスを埋めて戦略と言っているのと結果的に五十歩百歩なのかもしれません。 そう、すべてはコンテクスト次第なのです。 例えばもしもこれがハイエンドのアパレルブランドの話しだったらどう感じますか。 「いやさすがにハイブランドでコスト競争力とかあんまりブランド間の競争に関係なくないか?」と思うのではないでしょうか。そんなのあたりまえ?? では例えばもしこれが大型輸送機器において製造原価に占める比率が1%程度の部材で、現在需要の伸びに供給が追い付いていない状況での話しだったらどう感じますか。 さっきのアパレルの例よりは複雑そうだけど、原価比1%の部材で顧客にとって供給確保が大事な局面で、コスト競争力ってそんなに関係あるの?という気がしませんか。 コストが競争上重要かどうか。それはコンテクスト次第なわけです。 コストを削減し収益を向上する、ということ自体、合っているも間違っているもありません。 もしもコストが競争上重要ではないなら、コストを品質との兼ね合いを見ながら出来るだけ抑えるということは、戦略ではなくオペレーション改善施策案の一つにはなるでしょう。 状況やコンテクストを無視した戦略は戦略たりえない、ということは明らかです。 状況、コンテクストをどのように認識するか。すべてはそこから始まります。 状況認識が雑であればあるほど戦略も雑になるのは必定です。 では緻密に状況やコンテクストを認識すればよい戦略が描けるのか。 緻密な状況認識で戦略は描けると思います。しかしよい戦略が描けるかどうかは多くの場合緻密さとは別の眼差しも要請します。 それが、コンテクストの発見・破壊・創造。 どういうことか。 既存事業で想像してみればよくわかります。長年事業をやっていけば、一定の状況認識はなされていくことでしょう。実際多くの大企業における事業計画では環境認識・競合認識・市場認識などの状況認識が示されています。調査などを実施しかなり詳細かつ体系的組織的に押さえられていることも少なくありません。 ところでこの状況認識、競合はどう見ているでしょうか。実は多くの場合、競合も殆ど同じような状況・コンテクスト認識をしています。同じ事業を長年やっていれば当然と言えば当然。 同じような状況・コンテクスト認識に基づいて戦略を考えるとどうなるでしょう。 そうです。 同じような状況・コンテクスト認識からは同じような戦略示唆が出てくるものです。なまじ戦略論に通じていればいるほどそうなるという皮肉すらあり得ます。 よい戦略を立てるには戦略論に通じている方がよい。それはそう。しかし、戦略論への精通はどちらかというと十分条件なのではないか。ではよい戦略の必要条件とは。それが、コンテクストの発見・破壊・創造、 ポイントは、状況認識・コンテクスト認識においてユニークさを発揮できるか。といってもユニークなら何でもいいのではない。現実を無視したユニークさには殆ど何の価値もありません。現実を前に今までとは違う見方によって認識の更新をできること。競合と同じ現実を目の前にしながら違う景色が見えること。それこそが真に創造的な戦略性発揮への第一歩となります。一見平凡な・定石的な打ち手でも、ユニークな状況認識に基づいて競合の盲点を突く・出し抜く・裏をかくなどにつながる打ち手であるならば、それは非凡な打ち手へと変容します。逆に、凡庸なる状況・コンテクスト認識しかできないと、本当に凡庸な戦略しか出てこない(凡庸な戦略が常に悪いわけではない点にはご留意)か、無理やりこねくり回したようなへんてこりんな戦略を立ててしまうかでしよう。 ではそんな真にユニークなコンテクスト認識を可能とする眼差しはどうすれば獲得・発揮できるのでしょうか。それについては立ち入った考察と論述を要します。機会を改めることとしましょう。今時点でヒントを得たいならコラム「創造的思考態度」やクロスパートの特徴に記載の「多焦点・複眼マルチレンズ」等が補助線にはなると思います。 事業環境が複雑化し変化が加速している時代において戦略など時間をかけて考えても無駄、という風潮もありますが、皮肉にも事業環境が複雑化し変化が加速しているからこそグローバルリーダー企業の優位性基盤はかえってゆるぎないものとなっているように見えます。 他方で、全方位で通用する唯一無二の優位性基盤などはありえません。彼らに挑んだとて、いきなり全面的な勝ちを収めることは無理である反面、全面的に負けるはずもないのが道理です。そこかしこに潜んでいる小さなドクサを執拗についていくこと。戦略論の古典が教える平均政策の罠からアナロジーで推察できるのは、甘い汁を吸っているスポット・局面・セグメントにこそ付け入る隙があるかもしれないということ。戦略的成功への準備を進める価値は大きいと思います。 (文責:金光 隆志)

2024-01-19

戦略的セグメンテーションの再考

突然ですが質問です。市場って何でしょうか。 そんなわかりきったことは考えたことがない?ですよね、普通。 ではもうひとつ。 ディズニーランドは市場でビジネスを行っていますか? それは何の市場ですか?どんな市場ですか?その市場では誰かと競っていますか? これもわかりきったこと? ディズニーランドは普通に言えばテーマパーク市場に属していると思われるでしょう。 ではテーマパーク市場って何でしょうか。テーマパークを集めたらテーマパーク市場? 市場におけるディズニーランドの競合は誰でしょうか?USJ?ハウステンボス? 競合ってどういう意味でしょうか。同じ事業を行っていたら競合でしょうか? おやおや?となってきませんか? ここで私が、テーマパーク市場なんて殆ど存在しない、と言うと、阿呆かと思われるかもしれません。確かに、日常的慣習的語用を鑑みれば、流石に言い過ぎ・誤り感はあります。けれども、市場というからには、ある財・サービスにおいて複数の供給者が需要者の獲得を巡り、価格や取引条件を交渉・競争している場、なのであって、供給者が一人しかいないのであれば、経済学的には独占市場と呼ぶのだろうけど、ビジネスで言う「市場」とはちょっと違いそうではありませんか? ではここで補助線を。 ある人がデートで悩んでいます。今度の休みはどこに行こうかな。日帰り旅行いいな。TDLの方が喜ぶかな。でもあの展示会も早く観に行きたいって言っていたな・・ 皆さん(とくに関東在住なら)も似たような経験はあるかと思います。 TDLは普段誰とどんな顧客獲得競争をしてそうでしょうか。あるいは補助線に沿って需要者側から言えば、普段人は何の目的でTDLと何かを比較・選択する(≒市場)のでしょうか。 どうも多くの場合はテーマパーク同士ではなさそうです。ということは、市場を先ほどの定義に則って考えるなら、強いて言えばディズニーランド市場はあると言えるかもだがテーマパーク市場なるものは、ほぼ幻想というか抽象設定に過ぎないのかもしれません。 更に問題意識を深めていきましょう。 市場セグメントと顧客セグメントは同じことでしょうか?別のことでしょうか? おそらく多くの人は、日ごろ特に意識はせずなんとなく市場セグメントも顧客セグメントも似たような意味で使っているかもしれません。 一方で、ここでハッとした人もいるかもしれません。市場とは何なのだろう、と。 顧客セグメントは人や人の特性によるセグメントであることは明らか、対して市場セグメントにおける「市場」は抽象的にして多義的に使われます。「市場」が指すものは商品の場合もあれば機能の場合もあれば顧客の場合もあれば目的の場合もあれば手段の場合もあれば・・・という具合です。つまり「市場」は定義次第、と言うと節操なく聞こえますが、まさに「定義次第」で「意味のある定義」の場合もあれば「意味のない定義」の場合もあるわけです。では「意味」とは。そう、「意味」には絶対的なものなどなく、目的やコンテクスト次第。ゆえに「テーマパーク市場」なる市場定義が多くの場合意味を持たないわけです。 「顧客」セグメントは主にマーケティングや商品・事業開発において有用な概念です。 対して、「市場」セグメントというのは実はとても戦略的な概念になりえます。 「市場」とはサプライサイドとデマンドサイドが「交差」する場です。 デマンドサイドには行動目的、ニーズや欲望、オケージョン、ベネフィットなどの切り口があり得ます。一方サプライサイドでは、どういうデマンド切り口を設定するかによって、それに対応し得るサプライが変わってきます。 補助線の例では、ある人がこんどのデートはTDLか日帰り旅行か展覧会か・・と悩んでいたのでした。そうすると例えば「一日レジャーデート」というデマンドに対して「TDL・日帰り旅行・展示会・・・」のサプライがある、という市場セグメンテーションの定義があり得るわけです。この「一日レジャーデート」というデマンドに対して「TDL」は他のサプライに対して競争力があるか・経済性が十分よいか、それによってTDLが「一日レジャーデート」をビジネスの場に選択すべきか否かが左右されます。Yesなら「一日レジャーデート」は戦略ターゲットのオプションになり得ます。Noなら他にビジネスの場とすべきデマンドを探さなければなりません。この一連の作業が「戦略的セグメンテーション」と呼ばれるものの核心になります。 戦略的セグメンテーションには論理性と創造性の両方の発揮が求められます。答えは一つではありません。様々なセグメンテーションがあり得ます。そして、既存事業の戦略指針見直しにおいても、新規事業機会検討においても、うまい戦略的セグメンテーションの切り口を見つけることが出来れば、ビジネスの変革・成功にぐっと近づくはずです。 (文責:金光 隆志)

2023-12-25

モードとコードと消費と

随分と長い間コラムの更新を怠っていました。 心機一転、また徒然なるままに書いていこうかと思っている次第です。 再開第一弾は消費論。 過去にもいろいろと消費について論じてきましたが、チャットGPTやら生成AIがバブってきたいま、あらためて、人間が意味を考える意味を考えてみたい。ん? ということではじめましょう。さて。 大分前にはなりますが、【消費メカニクス3.0】という題で、コラムを書きました。 そこでは、消費行動は我々が思っているほどには自由な意思によるのではないこと、構造的に規定されていること、データサイエンスが人の意思を思いのまま操作しつつあることなどを論じました。 今回は【生成】に関わる話をできればと思います。そのために、まずは消費メカニクス3.0で述べた【構造】の話を、文化の理論の古典を下敷きに再確認しておきましょう。 人間の行動の殆どはコードに則っている、あるいはコード化されています。コードというと勿体ぶって聞こえますが、要は例えば社会慣習とか流行とか自分の中での習慣化とか。人間=コード・コード化する生き物、とさえ言えるかもしれません。 なんでか。よくわかりません。 この、よくわからないという時点ですでに、人間が意味を考える意味が垣間見えるのですが、さておき。 人の行動を統制するコードにはあからさまなものもあれば気づいていない・無意識に作用しているものもあります。また、一つの行動は様々なコードが複雑に絡み合い影響を及ぼした結果、としてあります 例えばあなたが誰かに一目ぼれしたとしましょう。それは運命と呼びたいかもしれません。絶対普遍だと思うかもしれません。だけど多分違う。 あなたが現代人なら、19世紀のコードではなく20世紀や21世紀のコードだし、日本で暮らしてきたならアフリカのコードではなく日本のコード、あるいは、生まれてこのかたどういう人と出会ってきたのか、どんな集団に属してきたのか、などからもコード化されている。 自分自身、なんでその人に一目ぼれしたのかわからなくても相当適度にコードや広義の社会学習の堆積から決定されている、だろうと思われます。 つまり、欲望はコード化されている、あるいはコードが欲望を喚起する。 消費のメカニクス3.0の議論は、この潜在するコードの複雑な影響をAIがパターン認識して中毒的・衝動的な反応(消費)が引き出されている、コードを侮るな、ということでした。 そうすると人間の欲望・消費はもはやAIの思うがまま、人間が介在する余地はない、のだろうか。ほとんどそうなのかもしれない。そうなっていくのかもしれない。 しかし、実はひとつ、絶対にAIが作り出せないものがあります。何か。 それは、コード自体です。 AIには既存のコードを解読できても新しいコードを生成することは絶対出来ない。なぜか。 コードは人間の社会活動、関係のネットワークによって生成されるからです。コードは社会・関係のネットワークの中にしか存在しません。もっといえばコードとは関係のネットワークそのもの、です。 日々の社会活動や関係のネットワークから新しいコードのSeedが沢山生まれています。あらゆる瞬間のあらゆる現場におけるあらゆる関係にSeedが宿る、というとロマンティックすぎるでしょうか。でもきっとそうなのです。そうしたSeedのほとんどはそのとき限りで泡のごとく消えていきます。しかし極々一部のSeedは、先ずは局所的に繰り返され・模倣されはじめる。ですがこれはまだコード以前、いわばモードの段階です。モードも殆どがすぐに消滅します。そして極々一部のモードだけ、改変されながらも局所から領域へと模倣が広がる。トレンド段階です。トレンド以降、模倣がより大域へと広がっていく。ファッション(流言・流行)の段階です。ファッション段階までくれば、一定程度、コードとして機能し始めたと言えるでしょう。 では、どんなものが新しいモードとなり新しいファッションへと発展していくのか。 それはわかりません。わからないから生成なのです。 既存コードの組み合わせや応用範疇で生み出せるファッションはあります。大半のトレンドやファッションはこれ。これらは生成ではなく再生産と呼ぶべきもの。再生産型トレンドやファッションはそのうちAIでも生み出せるようになるでしょう。いや、フェイクニュースの大拡散なんかを見ているとすでに起こっていること、なのかもしれません。 でも、既存コードを逸脱した行動・言動・モノ等が、関係の中でどう体験されるか、あるいはどんな新しい関係を生み出すのか、既存コードから読み解くことは出来ません。繰り返しますが、もし読み解けるなら、それは新しいコードを生み出してはいません。生成AIが作り出せるのは古いコードで読み解けるものだけ。つまり新しいコードは生成出来ないのです。 さて、長々書いてきた割には、だからなに?という感じの話になってきてしまいました。 ここからインプリケーションのある話に繋げていくには、さらに長々と論じるべきことがありそうです。 再開第一弾はとりとめのない話になってしまいましたが、リハビリということでご容赦を。 (文責:金光隆志)

2022-05-31

先発参入か後発参入か!?

新商品や新事業において、先発参入と後発参入のどちらが有利か。古くからある議論で沢山の研究が重ねられてきています。結論はまちまちなので、メタ分析的に言うとどちらとも言えない、ということかと思ったりします笑。とはいえ実例研究なんかは結構読み物としても面白いものが多い。成熟業界とテクノロジー業界の違いを論じるもの、デファクトスタンダード競争との関連で考察するもの、近年ならプラットフォーマー事業モデルを軸に研究しているものなど様々あり、興味や直面している課題に応じて読んでみるのもよいでしょう。 で、今更ここで、それら研究を紹介・総括したところで何も面白くないので、新たな視点、少なくとも既存のちゃんとした学術研究群とは違うパースペクティブで実践的な考察を行っておこうと思います。 パターンを論理的に整理しておきましょう。 先ずニーズについて。イノベーションでは普通のニーズはあまり対象になりません。イノベーションのターゲットになるニーズには2極あります。既に存在している大きなアンメットニーズか、ニーズがあるかどうか不確実か。 次にソリューションについて。ソリューションも2極に大別しましょう。一つは、その業界なりテーマなりで王道・既存の延長にあるソリューション、もう一つは、異質・既存では追求されていないソリューション。 ここで、ニーズとソリューションの掛け算を考えると4つの象限・パターンが出現します。「大アンメットニーズ×王道・延長ソリューション」「大アンメットニーズ×異質ソリューション」「不確実ニーズ×王道・延長ソリューション」「不確実ニーズ×異質ソリューション」 順に見ていきましょう。 先ず、「大アンメットニーズ×王道・延長ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 という問いには意味はありません。え!? この象限では最終的にリーダー企業が勝てるし勝ちに来ることが多いからです。大アンメットニーズなので解消すれば大きな事業チャンスです。そして他社が先に渾身の技術開発に先行で成功したとしましょう。リーダー企業は大抵すぐにキャッチアップできます。たとえ技術をパテントで押さえていたとしても、それが業界でスタンダードな技術領域や技術の筋だったとすると、いくらでも(は言い過ぎですが)類似ソリューションを開発することは可能だからです。この象限ではリーダー企業なら先発しようが後発に回ろうが勝ててしまう、ということです。 次に、「大アンメットニーズ×異質ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 ここでは多くの場合先発参入が圧倒的優位です。 大きなアンメットニーズなので大きな事業チャンスです。そこに業界スタンダードとは違う異質ソリューション。異質ソリューションを模倣するのは誰にとっても簡単ではなく時間がかかります。その間に市場を押さえ・ブランドを確立することが可能です。異質ソリューションの場合、市場に認知・受容されるのに時間を要する場合もあります。大きなアンメットが解消されるとはいえ見たことないソリューションだと様子を伺うユーザーも多いからです。ところが、逆説的ですが時間を要した場合のほうがむしろ先行者が勝ち切れる可能性は高まります。浸透が遅れていると既存プレーヤーは「あんなもの普及しない」とたかをくくって追随の手を打つのも遅れます。ところが。良いソリューションならユーザー行動の周囲状況依存とネットワーク効果で、突然一気に普及期を迎えます。そこではじめて後続は慌てて手を打とうとします。でも時すでに遅し。巻き返しには長い時間と大きな投資を要します。 次に、「ニーズ不確実×王道・延長ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 ここでは、実は「優位」か否かがポイントではない。「賢い」のは後発参入を選ぶことです。 ニーズは不確実なのでうまくいくかどうかはわかりません。ですが王道・延長ソリューションなら、上手くいくことを確かめてから参入準備しても、一定程度は間に合うしある程度は成功出来るのです。仮にリーダー企業が先陣を切って市場開拓に取り組み、需要が喚起され、市場が形成されてきたとしましょう。リーダー企業でなければ後発で逆転は難しいですがリーダーでなくても後発で参入は間に合うし、なんなら差別化できます。逆にリーダーが後発の場合ならもちろん逆転は十分起こしえます。 最後に「ニーズ不確実×異質ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 ここまでの論でお気づきかもしれません。異質ソリューションは成功するなら先発が優位です。しかしニーズ不確実ならば後発が賢い。ということで不確実なニーズに異質ソリューションを考える、というのは、なかなかやりたくても既存大企業が取り組むにはハードルが高いのです。つまりこここそが大企業にとってはベンチャリング領域、というわけです。ここでは単にソリューションの探査やR&Dを行うだけではダメで事業機会の存在も探査しなければいけない。事業化を試さなければならない。逆に言えば大企業が純粋にベンチャリングアプローチをとるべきなのはこの象限だけ。そのことに無自覚なCVCその他のベンチャリング的取り組みは失敗するか控えめに言って目標を見失い頓挫することが多いでしょう。 先発参入か後発参入か。これは決着のない二項対立の問いです。なので、少し眺める角度を変え、かつ考察を複眼にすることで、立体的に示唆を導出してみました。 イノベーションのジレンマやネットワーク外部性が働く事業や急速に技術進化が進む業界など、各論ベースではもう少し複雑なケース・優位性議論も出てきますが、4象限の原則論の理路を認識しておけば状況をうまくハンドリングできる可能性はぐっと上がることと思います。 (文責:金光 隆志)

2022-05-10

消費のメカニクス 3.0

マーケティングにおいて大事なことは何か? 消費者の理解?新たな提供価値の構想?購買欲を刺激する仕掛け? 等など。 もちろんどれも大事。というより、それらを行うことがマーケティングですね。 なので、ここでの問いは、それらを行うにあたって、あるいはそれら以前に、大事なこと、です。 それは消費者理解・提供価値構想・購買欲刺激云々に通底する「構造」の認識、です。 もっと言うと、人の行動は構造に・あるいは構造的に規定されている、という認識を持つことが最重要です。 ひとは皆、一人ひとり個性が違い、個性に応じて主体的に意思決定している、と思っています。確かに、個人によって趣味嗜好には違いがあって、それによって意思決定は影響されています。しかし、その趣味嗜好の違い自体が、実はかなりの程度構造的に規定されているのだとしたら? ちなみに消費の構造的規定というと、一昔前(大昔ですが)に流行った議論、と思う方もいるかもしれません。まぁそうなのです。が、一周回ってデジタルの発展によって止揚した形で、その重要性が益々先鋭化してきた、という感じです。図式化して言えば、 「構造が大事」⇒「構造はダメ・個(別)性が大事」⇒「個(別)性だと思っていることの構造が大事」 みたいな。ちょっと単純化しすぎましたが、まぁイメージはそんな感じです。 どういうことか その1:人間=「ポピュレーション」。 人間の行動や欲求は、かなりの程度、デモグラフィックに代表される構造特性によって規定されています。構造特性(属性)には大別して、人口・疫学的属性、社会・文化的属性、経済的属性があります。性別・年齢帯・身長体重・既往症・遺伝子などが人口・疫学属性、家柄・家族構成・ジェンダー・地域・学校・世代・流行経験・幼少体験などが社会・文化属性、職業・役職・雇用形態・年収・世帯年収・資産などが経済属性、です。 その2:人間=人間という「生命種としてのアルゴリズム」。 以前のコラムで、生命=欲望、生命活動とは広義の欲望のFilled-Unfilledギャップを埋める活動≒エネルギー代謝の活動、という話をしました。そして、他の生物とは違い、人間の欲望は方向付けがない・尽きることがない・満たされきることがない、という話も。こんなにも沢山の商品があることがその査証でもあるのですが、それを裏返して言うと、どんな方向にであれFilled-Unfilledギャップを生成すればそれを埋める反応をする、ということです。ちなみに、人の欲望の殆どは人間だけが持つであろう自意識を経由し、その際に精神分析的な意味での他者の欲望の欲望に媒介されます。今どきの承認欲求もベタな例です。一方で人間は行動経済学や社会心理学が明らかにしている通りかなりシステマティックに判断や認知のエラーを起こします。それらの知見の多くが地域や人種によらずあてはまることは、人類種にほぼ共通の判断や認知アルゴリズムがあることを示唆しています。 さて、そんなマクロ属性や生命種特性なんかで現代の複雑な消費者や高度化した消費社会・商品経済を理解できるものか、と思う人は多いでしょう。私もそう思うというかそうであって欲しい。けれども、そうした思いとは裏腹に、現代のデータサイエンスや人間科学は、人の行動が統計的・生物学的・構造的に殆ど決まっている(あるいは決められ得る)ことを明らかにしてきています。もっと言えば、データサイエンスや人間科学の応用によって人の個性や理性は益々空っぽにされてしまった。されたというのは言い過ぎで、意図的にというより結果的にでしょう。いずれにせよ、人は立ち止まって考えるような面倒くさいことはしなくて済む代償として言わばポピュレーションとしての属性・人類という生物種に備わった特性に突き動かされるばかりの存在になってしまったということ。そして、世界の支配的プレーヤーは今や、このポピュレーション・人類という生物種のアルゴリズムや振る舞いの統計的傾向の操作によって莫大な利益を生み出しています。最も先鋭的にはGoogleやFacebookで、彼らのAIやアルゴリズムによって人は意のままに操作され得ます。彼らのAIはあなた以上にあなたをうまく操ることができるのです。 「人類という生命種のアルゴリズム」についてもっと深い議論をするには人間科学(の応用)最先端のコンバージェンスを理解する必要があり、ここではそのスペースも簡潔に語る力量もありませんが「ポピュレーション」のマーケティングについてはもう少しパラフレーズを続けましょう。 デモグラに代表される構造属性の重要性・決定性は、日本における昨今のクリエイティブや事業構想・創造ブームの中で過小評価されています。もっと言うと殆ど無視されています。 曰く、 「差別化」や「イノベーション」のために「提供価値の革新」によって「今までにない市場」を創造することが重要、そのためには漫然と「市場の平均」を見ていてはだめで極論すれば「特定の1人」が本当に「ハマる」体験やサービスを設計することがカギ、云々。 一見もっともだし、実際「構造属性」による決定性を前提した上でなら論旨は悪くない。しかしこれを言う人・実践する人の殆どは真逆に構造属性をむしろ「見ない」ための方法だとさえ思っています。 それがいかに的外れな考えかは、世の中にある商品の消費構造を詳しく分析すればすぐわかります。ある製品カテゴリーにおいて、誰がどのようなタイプの製品を選ぶかは、その製品カテゴリーに応じて複数の構造属性を説明変数にとれば、ほぼ説明されます。これは、製品開発段階でどこまで構造属性を想定したかに関係なく、です。逆に言えばだからこそ沢山のアンメットがあるのです。 構造属性に規定される消費のメカニクスは意思決定(ニーズ・ウオンツやら検討方法やら)から行動プロセス(AIDMAやらVISASやら)全体に及びます。 「マーケティングR&D(マーケティングにおけるR&D活動)」によって構造属性による消費メカニクスの理解・知見はどんどん深まり高精度になっていきます。 ちなみにそこまで深い理解でなくても、構造属性について簡単な解説とエクササイズを行ったあとに、商材は何でも良いのですが例えば、 ・「高齢者向けの掃除機を構想してみてください」 ・「世帯年収600万円程度で共働き、幼児のいるファミリー世帯向け掃除機を構想してみてください」 と問うてみると、マーケティングのプロでなくとも(むしろプロじゃないほうが)たちどころに様々な切り口・アイデアが出てきます。 この程度なら構造属性なんて大げさに考えなくても出来そうだと思うかもしれません。浅いレベルなら実際そうです。 しかし例えば、 「【20代独身で外資系に務める年収800万円の男性、賃貸のデザイナーズマンションに住み、仕事のあとには勉強会などにも参加するなど意識高い、シンプルでナチュラルだが品質の良い清潔感のある服が好み、趣味はアウトドアだが自炊男子でもあり彼女がいてちょくちょく家に遊びに来るのでインドアの楽しみかたも嗜んでいる・・】人向け掃除機を構想してみてください」 という問いを、構造属性のエクササイズを行う前にやるとアイデアが出てこなくなるし出てきても珍答・迷答のオンパレードになります。 で、構造属性のエクササイズを行って再びチャレンジすると、あら不思議、すらすらとアイデアが出はじめます。 ペルソナ設定して参与観察してエクスペリエンスマップやマインドマップを描いて、とか、やるのはよいのですが、やり方です。 「特定の1人」を「一人ひとりの個性」と解すると大きく見誤ります。「特定の1人」はある「構造的特性」によって規定される「市場クラスター」の「代表サンプル」という視点が決定的に重要です。 くどいですが、人の行動は人が自覚している以上に構造属性に規定されています。そして恐らくはデータサイエンスが逆説的に益々その反応傾向を強化しています。人間=ポピュレーションと人間=アルゴリズムのコンバージェンスが起こりつつあると言ってもよいでしょう。 (文責:金光 隆志)

2021-10-21

地球中心主義って?

最近面白い話を読んだ。 少し前までは人間中心主義がデザイン思考の主流だったが、これからは地球中心で考える思考、地球中心主義が求められるのだとか。 デザイン思考が提唱した人間中心主義の文脈・時代背景と地球中心主義が言っていることとではそもそも話が噛み合っていない・論点がずれていると思うのだが、まぁそれは置いておこう。いや、流布しているデザイン思考ではなく、商品⇒人間⇒地球という様に資本主義批判の文脈でデザイン/アートを捉えるなら、ズレているとまでは言わないが、まぁそれも置いておこう。 地球中心主義って、本気で言っているのだろうか。 もし本気で議論するのであれば、そもそも地球に人間は必要か、というExtremeな議論から始めるべきだろう。私は本気で言っている。どういうことか。 話を単純にするため、一旦動物(自然)と人間の二元論で語る。人間は決定的に動物・自然界=コスモスから逸脱した存在である。自然界ではあらゆる生命の本能が見事に調和し呼応し合い循環している。対して、そもそも人間とは過剰(な欲望)を不可避に抱えた生き物だ。乱暴に言えば本能が狂っている、人為的な秩序(言語やら統治やら文化やら)を導入しないと自然のままでは殺し合い・犯し合い・破壊する生き物ということだ。動物は無為な殺戮や破壊など行わない。そんな本能は彼らの脳にはビルトインされていない。人為的な秩序などに頼らなくても動物は本能のシグナルに導かれて自然の秩序を形成している。人間だけは違う(この際チンパンジーなどの他の霊長類は脇に置く)。人間の過剰な大脳皮質は過剰な(≒自然から逸脱した)欲望を喚起せずにはいられない。これが人間学や文化理論の出発点だったはず。 そんなことはない、いやたとえそうだとしても人間=ホモ・サピエンス(理性の人)には理性が備わっており、理性の力でもって正しいことが選択出来るのだ、などの反論があるかもしれない。この手の啓蒙主義に逆戻りするような議論には肩をすくめるしか無い。啓蒙主義に導かれた「人間的進歩」こそが自然破壊や大量殺戮兵器に帰結した、というのが20世紀最大の学びではなかったか。まぁ簡単に言えば理性なんぞで人間的本性=過剰な欲望を抑えこむことなどできない、のだ。 ならば、人間が地球/自然と調和するには、人間が過剰な欲望を捨てるしかない、のだろうか。しかし、それは即ち、人間が人間をやめることとほぼ同義であるはずだ。つまり、地球中心に考えるなら人間をやめるべき=人間なんていらない、ということだ。実際そうではないのか?この広い宇宙において、人間がいなくたって誰も困らないし気にもしないはずなのだから。もっと言えば、宇宙からみたら地球環境が一つなくなるくらい、どうってことないわけだ。すべての星はいずれ死ぬか超新星爆発を起こして消えるかなんだから。ならば、人間が自然を破壊しようがどうしようが、構わないではないか。それが地球生命進化の帰結ならば。 それだと困る?なんで?誰が? つまりは人間が困る、って話なんじゃないの?つまり。地球中心主義、なんて言いながら、実のところ人間中心に考えてるんじゃないの? 屁理屈に聞こえるだろうか。だが、屁だろうがなんだろうが残念ながらこれが理屈だ。 だからといって環境破壊なんて気にするなとか、反動的なことが言いたいのではない。人間なんて不用だ、などと自分を否定したいわけではない。逆だ。 地球に対して謙虚になる(それは実は上から目線であることに気づくべきだ)前に、人間自身に対して謙虚になるべきなのではないか。人間の原罪を認めることから始めるべきではないか。人間は過剰(≒自然からは逸脱した)な欲望を抱えずにはいられない。これはどうすることもできない人間の前提条件だ。それを抑圧したならば人間は精神の病気になる。そして、この手の議論が行き着くポリコレの大合唱は社会への抑圧となり、社会は病気になる。社会が鬱となるかヒステリーとなるかだ。そうではなく、つまり過剰な欲望を抑圧するのではなく、かといって破滅に向かうのではなくどう開放できるのか。そこに向き合わずして環境云々(や、巡り巡って貧困や差別や)を議論するのは欺瞞にしかならないだろう。環境を考える前に、人間の、人間社会の欲望開放の未来像を考えるべきではないだろうか。無自覚に環境破壊や貧困や差別に組みしてきたと気づいたまではよいが、だからといって自覚的に人間的自然を抑圧するだけでは解決にならない。無自覚に欲望を開放してもうまくいく社会。滑稽だろうか。でも人間はかつて何万年もそうして生きていたのではないのか。おかしくなってきたのは、長く言ってもたかだか2千年、短く見れば数百年のこと。 だからといって今更、自然へ帰れ、など不可能なばかりか人間的自然は狂っているのだから、何の解決にもならない。人間的自然の狂った欲望を秩序で抑え込みつつ戦争や祝祭という装置で周期的に解消してきたのが前近代までなら戦争と市場経済・日常の商品消費で解消してきたのが近代以降。その商品消費を人為で抑圧するのなら、新たに他に過剰欲望解消・抑圧からの開放のルートが必要になる。それが人間というもの。難題だ。 いやでも、環境負荷の高いゴミを出さなくなったらいいことした気がして気持ちいい、そうやって徐々に人間の価値観って変わっていくんじゃないの?そうかも知れない。その程度なら。でもじゃあ、南の貧困のために所得から10%を寄付することに同意できるか?森林再生のために同じく10%を寄付することに同意できるか?先進国の殆どの人は、贅沢できなくなるにせよ生活に困ることはない。でも先ずほとんどの人はできない。もしできるのならもっと世の中は社会主義的になっているはずだ。残念ながらCommonsはそのような理路だけでは実現しない。 答えは見えない。だが、ベタなことを言って締めるのも気恥ずかしいが、人間がVirtualにひきこもる未来像というのは案外悪くないのかもしれない、と思う今日この頃。図らずもコロナ禍が垣間見せた皮肉な事実と可能性。第二次世界大戦以来最もCO2排出量が削減されたらしい。そして遅ればせながら暇つぶしに見てきた「竜とそばかすの姫」。うん、これかも。 (文責 金光 隆志)

2021-08-02

目前の課題と未来の課題と長期構想と

いま目の前にある大きな課題といまは見えないけど将来起こり得る大きな課題。 長期構想において前者だけをターゲットにして満足する企業は多くないだろう。むしろ、今見えていることではなく将来だけを長期構想ターゲットに据えようと考える企業も多い。 まだ見ぬ課題=まだ見ぬ機会=他社に先んじるチャンス、といったところか。 その是非は一旦置くとして、ではどうやって将来起こり得る課題を見定めるか。 例えば。 STEEP(Social、Technology、Environment、Economy、Politics)のメガトレンドから将来社会を想定し、だとすると我社にとってどんな課題や機会があり得るか。みたいな。 あるいは。 メガトレンドから見える将来課題は所詮似たりよったりだし課題も曖昧。客観予測ではなく主観的な意思・起こし得る未来こそが構想に値する、ということで想定外未来やフューチャリングセッションなどで未来を構想しバックキャストする、みたいな。 で、それらを一人ではなく様々なバックグラウンドを持った人、専門分野の異なる人同士で行うことで、一人の目では見えない意外なチャンスに気づきを得る、みたいな。 こういうエクササイズも視野を広げるには有効だろう。今までと違う事を考えた気になれるし、少なくとも楽しい。ワクワクしない構想になんかチャレンジ出来ないのだから! だけど残念ながら資本の論理はこんな不確実なものに賭けることを許してはくれない。だから経営の意思決定がどうなるかというと、投資はまだ出来ないが経費の範囲で探査的なリサーチは進めてよし、みたいな。 そして立案者たちは概ねこう反応する。「うちのトップは短期にしか目が向かない」「今の経営陣に言っても無駄だから次世代経営陣を巻き込んで・・云々。」一方で経営陣はこう思う。「もっと地に足ついた、それでいてなるほどと思うような構想は出来ないものか、云々。」 じゃあどうすればいいのか。 その前に、何がダメなのか。単純なこと、いきなり想定外やメガトレンドから入るから議論がふわふわするのだ。繰り返すが、それらのエクササイズがダメだとは思わない。でもその前に押さえておくべき・押さえる価値のある「まだ見ぬ未来」がある。何か。 日本には素晴らしい諺がある。「風が吹けば桶屋が儲かる。」 発想はオプション創造のコラムで論じた因果の連鎖に近いが、これはなかなかテクニカルですぐ上手くは出来ないだろう。先ずはより簡単・実践的な方法からやってみるとよい。 それは「今目の前の課題の次の課題」を考えること、である。もっと言えば「いま目の前の課題が解決した暁に生じる次の新たな課題」だ。そんなことは考えている?ならいいんですが、考えてないなら考える価値は大いにある。例えば。自動車が無かった時代に遡ってみよう。そして5年後には自動車が世に出ることが予見され得るとしよう。次に何が予見されるか。例えば今までになかった深刻な事故多発。混乱。で、何が必要になるかというと、道路の整備、交通システムの構築、燃料補給、定期的な整備、車の安全性能の向上、保険、などなど、車が現れたことによって生じた次なる課題や機会が山ほどあることを現代の我々なら知っているだろう。これらは全て新たなビジネスチャンスである。 例がわかりやすぎて、実際はそんな単純・簡単にはいかない、と思うだろうか。そのとおり。だから価値があるのだ。あるいは、そんな単純・簡単なことは全部見えていると思うだろうか。そうならば悩む必要はないだろう。投資家もそこそこ納得するような10年後の柱となる新規事業構想の種はその中に見つけられるだろうから。 あるいは、この論理の筋をベースに据えた上でのメガトレンド発想や想定外の未来構想ならば、だいぶ地に足のついたそれでいてなるほどという構想にも近づけるだろう。 長期構想の狙い目は目の前の課題とまだ見ぬ将来の課題の中間ゾーンにこそある。 風が吹けば桶屋以外に何が儲かるか。考えるとワクワクするではないか。 (文責:金光 隆志)

2021-06-23

認識と欲望と真実と

通信と言えば固定電話、メディアと言えばテレビ・ラジオ・雑誌・新聞しかなかった時代。 今20代以下の人たちなら、えっマジ?どうやって生きてたの?、と思うかもしれない。 でも、生きやすかった面もあるんですよね。。という昔話をしたいわけではない。 インターネットはたしかに、とてつもなく便利。 知りたいことは検索すればすぐ見つかるし、興味関心を同じくする人とすぐ繋がれるし、何を買うか迷ったときにレビューで他の人の評価が見られるし。記事、本、写真、動画・映画、音楽・・何でもスマホで、ネット一つで完結できてしまうし。云々。 しかし、である。 インターネットは人を、人間=ホモ・サピエンスとして、進歩させているだろうか? 個人的な感想としては、どうにもダウトに思えてならないのです。 人間には悲しい性があるらしい。例えば。理性的に考えるには前頭前野の活性が必須だが、どんなに賢いつもりでも、何かを感知・判断する際にはどうやら前頭前野よりも扁桃体の方が優位にかつ瞬時に働くらしい。扁桃体は情動やら感情やら共感やら、まぁ乱暴に言えば好き嫌いの反応に大きく関わっている。で、扁桃体は海馬の近くにあって、記憶にも強い影響を与える、らしい。 その結果。頑固親父でなくとも、人は客観的な証拠をいくら突きつけられたところで自分の信じたことを簡単には変えられない、ことが、社会心理学の実験などで客観的に検証されている。簡単に変えられると信じている人はこの実験の証拠など信じないのだろうけど、そうならば逆説的に自分でこの説を証明したことになってしまう笑。まぁそれはともかく、脳神経科学を取り入れた検証によれば、その理由が上述の脳の特性に由来するらしい。簡単に言えば、自分に都合の良い・心地よい情報にしか脳・扁桃体は反応しない、というわけです。これは科学的な訓練を受けているか否かによらない、どころかむしろ、自分は客観的・数字に強いとか思っている人の方がバイアスがかかりやすい、らしい。 で、インターネット。インターネットには数多の情報が溢れている。自分の信念に近い情報やそれをサポートするような情報から、反する情報・反証データまで、何でもある。 その結果。例えば何か気になっていることがあるとしよう。ネットがあればすぐ調べられる。そこで、事前に自分の仮説や信念があった場合。自分に都合の悪い情報はスルーして、都合良い情報にたどり着くのは容易。そこから孫検索するとどんどん都合の良い情報が出てくる。しばらくすると検索エンジンはご丁寧に学習してくれて、おまえこういう情報が好きだろう、と関連情報やおすすめ情報を与えてくれる。やっぱりそうだよな、と思う。気持ちいい。かくして仮説や信念は棄却されることなく強化されて記憶される。わけです。 インターネットが多様性をもたらした、という面はたしかにあるでしょう。それは進歩と言えば進歩かもしれない。けれども多様性を「容認」するように働いてはくれない。ネットは自分の意を益々強くし、他の可能性や意見を排除するようにしか働いてはくれない。のかもしれない。 これは、AかBか、の二択のような状況では悲惨な結果を呼ぶんじゃないだろうか。A派とB派は互いに自分に都合の良い情報だけを信じて・手軽に集めて・認識を益々強化し、反目し合うしか道が無くなるんじゃないだろうか。それが現代のポスト・トゥルース・・とかいう政治的な話は置いておこう。 ともかくもネットは集団の多様性を生む契機になりつつも個々人で見ると多様どころか自己強化のメカニズムとして働きやすい、ということはおさえておきたい。 ところで人間にはもう一つ、悲しい性があるらしい。模倣(他者学習)の習性だ。模倣習性も社会心理学の実験で色々トンデモなことがわかっている。滅茶苦茶乱暴に単純化すると、あなたは、みんなが黒だと言ったらあなたも「本当に」黒だと思うようになる、らしいのだ。 客観的判断基準の無いものほどその傾向が強く、例えば音楽の好みなどはモロに影響を受けるし、驚くことに、何色だったかなどの客観性のある事柄でさえ、条件によっては間違った他者の意見を「本当に」自分でもそうだと信じてしまうらしい。ここにも扁桃体⇒海馬のメカニズムが働いているという研究もあるようだが、メカニズムはともかく模倣習性はほぼ検証によって確証されている。先程の自分の信念を変え難い習性と一見矛盾するようだが、解説は割愛するとして矛盾ではない。相補的に働くと見るのがよいだろう。なお、扁桃体は不安やストレスにも過敏に反応する。もっと言えば不安やストレスを嫌う。これが赤信号みんなで渡れば・・の心理・行動を生むようだ。 で、インターネット。インターネットはたしかに多様性(ニッチ)をもたらした一方で一極集中・なだれ的爆発的流行、炎上・・等などを日々生み出していることも承知の通り。自分で基準を持てない・もっていないものに対しては、他者のリコメン、大勢の意見を模倣する。少数派の不安を回避し多数派に乗っかる。攻撃されることを過剰に回避する、等など。要は、色んなものを見聞きし吟味した上で自分の趣味嗜好信念などを形成するのではなく、偶然の流行、皆が正しいという意見、皆が選んでいるものを選ぶ、という扁桃体優位の行動がどんどん強化・増殖している。のではなかろうか。 インターネットの即時性と利便性は、一歩身を引いて前頭前野を働かせて冷静に考える・判断する、ということを、恐らくはとても困難にしている。人の悲しい性といったが、正確には人も動物であることの悲しい性。ネットが全面化した世界で人はもはやホモ・サピエンス=理性の・人、ではなくなっている、のかもしれない。高齢者でもない限り殆どの人は起きている時間の大半をネットとともに過ごし、何かと検索したり人のつぶやきや口コミを見たりして大して考えるまでもなく扁桃体が反応・判断を下し続けていることだろう。そしてネットで習慣化した思考や行動特性はネットを離れた(ネットから完全に離れたリアルなどもはやないのだが)リアル場面での思考や行動特性にまで影響を及ぼさずにはいないのだろう。 なるほどね、と。 人の弱みにつけ込むようで口にするのは憚られもするが、まぁここはビジネスのお話として。ネットで剥き出しになった人間の特性にはマーケティングや交渉術のヒントが満載ではないか! (文責:金光 隆志)

2021-06-15

創造的な戦略の恩恵

創造的な戦略は立案も実践もはっきり言って難しい。仮に千社の戦略を並べたとして一つでも創造的な戦略と呼べるものが見つかるかどうか。だがもし成功すれば。そのリターンはとても大きい。 創造的な戦略とはどのようなものか。パラフレーズして考察しておこう。 創造性とは。人のパーセプションを変えること、人にとって想定外なこと。 戦略とは。自社に能う限り有利な状況を生み、出来れば競争優位実現に至る方策のこと。 つまり、創造的な戦略とは、 ① 競争相手にとって想定外、つまり競争相手を出し抜いて、 ② 有利な状況を作り、いつのまにか競争優位・障壁を築くこと だと解しておいて大過ないだろう。 さて、競争相手を出し抜く方向性は3つある。 その①:競争相手が気づいていない戦略ミスを突く その②:競争相手が気づいていない戦略チャンスをモノにする その③:競争相手が気付く前にゲームチェンジを起こす 言うは易しで、出し抜くだけでも簡単ではない、その上で競争優位を築くとなると難度は一気に上がる。ある打ち手がたまたま創造的戦略の条件を満たすことはあるが、意図的に方策を考えるとなると、戦略に関する相応以上の理論的理解と実践的経験が必要にはなるだろう。ここではその方法の概念だけでも供しておきたい。繰り返すが、難しい。 さて、相手が気づいていない戦略ミス・戦略チャンスは、大小問わなければ実は様々に存在している。殆ど全ての企業にあると言っても誇張ではない。典型的には戦略事業単位の無理解・誤解に起因し、その無理解・誤解は競争メカニズム及び経済性メカニズムの無理解・誤解に起因する。戦略事業単位とは、競争メカニズムや経済性メカニズムの異なる事業やセグメントの切り口単位のことであり、上述はトートロジーなのだが、トートロジーを承知で敢えて付言すれば、一つの事業領域において複数の戦略事業単位で事業展開している場合、相当な確率で、どれかの戦略事業単位において戦略ミスを犯している。殆どの企業が戦略事業単位を認識しそこねている(戦略事業単位を商品カテゴリーや事業カテゴリーと同じと見做し勘違いしている企業が大半)からだ。 いずれにせよ、戦略ミス・チャンスを突くためのポイントの一つは競争メカニズムや経済性メカニズムの正しい理解である。精緻さが重要なのではない。正しさが重要なのだ。通常は社内の事業管理単位、情報取得・利用範例、インテリジェンス、事業システム、管理会計システム等が戦略事業単位と整合していることはない(だからこそ敵も我が方も見損なうわけだ)。よって精緻な分析など望むべくもない状況だがその必要も実はない。精度ではなく正しさを検証できるレベルの戦略分析を実施することが重要で、戦略分析のためには戦略ミスや戦略チャンスに関する蓋然性の高い仮説と仮説検証に足りるモデル化が決定的に重要となる。モデルは出来る限り、部分的であっても定量化検証出来ることが基本だが先ずは定性モデル化からでもやらないよりはるかによい。その場合でもファクトに基づくことが大事である。 少し話が逸れた。戻そう。 「戦略事業単位の誤解」は「平均化のワナ」へと繋がる。「平均化のワナ」は気づかないうちに様々な形の歪み・ミスマッチや無視を生み出している。価格設定の歪み、資源配分の歪み、ビジネスモデルの歪みなど各種の歪みや、アンメットニーズの無視、置き去りユーザーの見逃し、市場構造変化の無視などである。これら歪みや無視を突く方策は悉く「競争相手を出し抜く」創造的な打ち手となる。 しかしそれだけでは戦略的な成功を収めるには道半ば(よりも手前)。競合が気づいて手を打ってくるまでに十分な時間を稼げて、かつ手を打とうと思った段階では既にこちらが新たに競争優位の条件を整えている、ということが必要になる。一般論としてはサプライサイドでミスを突く方が競争に気づかれにくい。例えば単純な例、資源配分をこっそり変える等の打ち手は相手からは見えにくい。一方デマンドサイド、特に新商品・新サービスの展開の場合には十分な注意を要する。イノベーションのジレンマのような状況を起こすケースで無い限り、殆どはすぐに模倣される。模倣されないためには同時にサプライサイドでの障壁(例えば開発や適用には時間のかかる独自の技術や異質技術が伴っている、サプライチェーン調整に手間がかかる・ハードルがある等など)があれば、模倣される前にこちらがスケールを獲得し複合的優位性へと発展させられる可能性は高まる。あるいは、デマンドサイドでも顧客ロックインやネットワーク効果のメカニズムが働き、かつ顧客のマルチホーミングに一定の障壁がある場合には先行者がある程度有利である。など。 いずれにせよ、相手のスキを突く創造的な打ち手を打つだけでは全く不十分で、競争優位のロジックと行動シナリオをしっかり詰めることが肝要である。 デジタル化の進展で、かつてに比べると企業が保有する情報は格段に増えている。データサイエンスの実施を含め、社内での分析の量も格段に増えている。それらはもちろん大事かつ収益をもたらしている。だが、それらはオペレーションレベルでの分析の発展であり成果なのだ。戦略検討とは次元が異なる。これほどデータが増えていても戦略分析を実施する際の困難・苦労は今も昔もそう大差がない。だが苦労する価値はある。 進化スピードが早い市場では競争優位の戦略は成立しない云々、全くの観念論・常識的イメージ論であって、見誤りだと断言出来る。実際デジタル事業・環境では逆に恐ろしいほど競争優位のロジック・メカニズムが純化したかたちで働いている。2番手以降には創造的な戦略で立ち向かう以外に残された手は殆ど無いとさえ言える。 デジタル領域では殆ど競争地位の変動が起こらない事実をさきの進化論者や適応論者はどう説明するだろう?事業創造のロジックと競争のロジックは峻別しなければならない。 事業創造にはもちろん価値があるし、どこか神秘的イメージもあって魅惑される。だが企業のボトムラインへの影響は競争、従って戦略が遥かに大きいことに刮目されたい。事業経営に関与する人たちにはこんなご時世・ムードが支配的だからこそ、リアリストの目を備えることを勧めたい。 (文責:金光 隆志)

2021-06-10

戦略的な創造性の発揮

前回、戦略性と創造性は双子の兄弟のようなもの、と論じた。 そこで今回は、実践編として、戦略的に創造性を発揮する方法について話してみよう。 先ずは自分自身が創造的になる方法について。 タネを知らないとまるで手品のように感じるが、タネを知り方法に習熟すればちょっと気の利いたアイデアを出すことぐらいは誰でも出来るようになる。 創造性とは何だろうか。 今までにない新たなものを生み出すこと、とか、何かの真似でない独自性・オリジナリティ、とか、色んな定義があるようだが、あまり生産的・実践的な定義ではない。 今までにあるかないかとか真似でないかどうか、はどうでもいい。創造的なものは悉く、人々の認識を一瞬にして変えるもの、である。もう少し丁寧に言って「〇〇とは☓☓だ」とか「○○ならば△△だ」といった定石・定説・常識・慣習・暗黙の前提を覆すもの、である。 では、定石・定説・常識・慣習・暗黙の前提を覆すにはどうすればいいのか。 言葉で語るのは簡単だ。覆すには、覆す対象、即ち定石・定説・常識・・・を明確にすればいい。それらを明確に出来たなら「それ以外/そうではないもの」を考えれば、定石・常識・・・を覆す考えになる、という算段だ。Out of boxに考えろ、とはよく言われるが、Out of boxに考えるためには今のBox即ち定石・定説・常識・・を知らなければ始まらないし、知ればその外に出ることは容易である。 だが実践上の問題がある。 その1:何が定石・定説・常識・・かを、どうすれば認識できるのか。 その2:覆す案なら何でもよいのか。 定石・定説・常識・・・にはあからさまにそうだと気づく・分かるものと、無意識・暗黙に前提してしまっていて気づかない・解らないものがある。もっと言うと、あからさまに常識だと解っても、暗黙の前提・常識すぎて、それを覆すなんてナンセンスだと思ってしまうものがある。実はそこにこそ覆すに値する大きなチャンスが眠っているのだが、無意識に可能性をはじいてしまうのだから、なかなか普通は覆すターゲットと認識出来ないわけだ。 一例をあげよう。例えばハサミ。ハサミなのだから切れるのは当然だ。ではその常識を外したら?普通に考えればナンセンスだ。切れないハサミなど意味がない。そこで思考は止まる。というよりそもそもそんな可能性を思考しない。だがみんな知っているだろう、幼児の玩具や知育用教材、指が切れないハサミ、これらはまだ切る/切らないの単純な二項対立の範疇だが、医療における手術用の鉗子など機能転換したものまで、切れないハサミは色々ある。 このように「ハサミは切るもの」といった、当たり前過ぎて覆すことなど考えられない状況・事象を「機能性固着(機能的固着)」と言う。そしてこの「機能性固着」を覆すアイデアというのは一般的に言って創造性の高いアイデアになる。柔軟剤から柔軟を取ったらレノアに繋がり、エアコンから熱交換を取ったら空気清浄機に繋がる。鉛筆から芯を分離したらシャーペンになる。ガラケーからボタンを無くしたらスマホ形状になる。などなど。今やそれらが常識・あたりまえだが、出た当初はまぎれもなく「今までにない」だったはず。 さてでは、機能性固着に気づき、それを覆す創造的なアイデアを生み出すにはどうすればよいか。誰でも実践可能な方法論がある。「強制的バイアス破壊」の方法がそれだ(弊社HP「コンセプト」欄ご参照)。簡単に言うと、商品であれサービスであれ事業であれ、機能や機能を構成するパーツ・要素を適当に分解した上で、その中の任意のパーツ・要素を「方法」に従って「強制的」に「変形」する。「変形」した上で、「そうすると誰にどんなベネフィットが生まれ得るか」を「強制的」に考え出す。これだけ。変形の方法や意味を考える方法・手順には少し習熟が必要だが、慣れれば誰でもアイデア出しがかなり上手になるだろう。信じられないだろうが本当だ。 他にも有効な方法がある。これは以前にコラム「創造性と専門性と教養と」でも紹介したが、専門性を習得すること。「専門性はバイアスの源」のようなステレオタイプに安易に都合よく乗っかる愚は是非とも避けたい。バイアスになるほどの専門性なんて殆どの人はもっていない。むしろ専門性が欠けているからこそ世間の常識・平均と変わらないことしか出来ないしちょっとした創造性も発揮出来ないのだ。例えばマーケティング担当だとしよう。つまらないマーケティング案しか思いつかないと悩んでいるなら、安易にOut of box発想などを求める前にしっかりマーケティングの専門性を突き詰めてみよう。少なくとも自分自身が沢山の目からウロコ体験をするだろう。そして、以前の自分よりははるかに色んなもの・ことが見えるようになり、創造的にマーケティングを考えられるようになるだろう。さらに。そうやって専門性を高めた結果、嬉しい副産物も舞い込んでくる。ある分野における専門性の目でもって異分野を見たとき、異分野の常識とは違うものが見えるようになる。創造性の高いアナロジーが駆動される。この副産物効果を視野に入れると、異なる2つの分野で専門性を持てればとても強力だということに気づく。詳しくは以前のコラムを参照されたい。 まだまだあるがとりあえずもう一つ。これも以前にコラム「創造性とコンテクスト」で論じたが、コンテクストを操ること。既存コンテクストとの調和、既存コンテクストを下敷きとした異化、コンテクストの創造、大きくは3つの操作法がある。コンセプト理解の補助線・補助ツールとしては視点のズームイン・ズームアウトの方法がある。こちらも詳しくは以前のコラムを参照されたい。 さて、ここまで、個人としての創造性の発揮の方法について基本的なものを紹介してきた。よってここまでの話での「戦略的」とは「計算できる」という意味合いに近い。 では、組織として「戦略的」に創造性を発揮する方法はあるのか。つまりは「創造性の発揮」を「組織のケイパビリティ(組織ケイパビリティは模倣・獲得に時間がかかるという点において競争優位の源泉になり得ます)」とすることは出来るか。個々人が創造的になれば組織全体としても創造的になるだろうが、それに加えて組織ならではの、3人よれば文殊の知恵、のような創造性発揮のケイパビリティについて考えてみよう。もう答えを半分言ってしまった。「3人よれば文殊の知恵」を実現すること。即ち異質とのオープンコミュニケーションの実現。部門間、世代間、国籍間、男女間、等などで真に対話・相談・意見・傾聴するチームを縦横無尽・柔軟に組織できるとそれだけでもかなり強い。でも決定的に重要なのは社外に開けた組織となれるか否か。事業創造ブームで今や多くの企業がオープンイノベーションを標榜し方法を取り入れている。でもオープンになれている会社はどれくらいあるだろうか。最低限の情報しか開示しない、下請け扱いする、格下に見る、駆け引きする、最悪の場合アイデアを盗もうとする、等など。元々そういう体質が染み込んだ企業が形だけオープンイノベーションを取り入れたところで盗賊的な成功はあり得ても創造的な成功はありえない。実は組織が創造的になるほうが個人が創造的になるよりも遥かに簡単なはずなのだが。現実はそうなっていない。ということは難しいということなのだが、「現実には色々難しい」と考える時点で創造的な組織作りからはかけ離れたところにいると思ったほうがよい。これは社員の、個人の問題ではない。組織の体質転換の問題である。体質転換はトップマネジメントのリーダーシップに始まり全社のビジネスシステムやガバナンス改革にまで及ぶ大きな経営アジェンダとなる。と言ってもガラガラポンは出来ない。既存事業とのバランスやトランジションマネジメントの巧拙が重要となる。さらに先がある。組織の創造性ケイパビリティ構築は、社外を巻き込んだパートナーシップ・エコシステム改革にまで及ぶ。エコシステムのトップに君臨する企業が真にオープンになったとき、パートナーシップの変容・組み換え・再発見・増殖・循環・オープンの連鎖・・が起こる。かくしてエコシステム全体に創造性が波及していく。 グローバルを見たとき、競争の次元が企業間からエコシステム間へ、競争優位の単位がエコシステム競争優位へと転換しつつある。創造性発揮の組織のケイパビリティは現代における強力な競争優位の源泉である。 (文責:金光 隆志)

2021-06-09

戦略性と創造性と

昨今、創造性と戦略性がまるで対極であるかのように語られることも多い。 戦略アプローチはクリエイティビティの敵、みたいな。客観ではなく主観、みたいな。 その実、なぜ・どのように対極なのかを上手く説明している論にお目にかかったことはない。 創造性とは何で、戦略性とは何か、そのエッセンスを掴んでいれば造作もないことなのだが。 言葉遊びであることを了解した上で、対極という主張に与する説明を与えておこう。 戦略とは計算であり、創造性とは計算外である。 自分で言うのもあれだが、これはなかなかイケた定義だろう。戦略はロジックであり創造性は感性だ、とかいう類の説明よりは随分マシだ。 説明のココロを簡潔に述べておこう。戦略とは競争相手に勝つため・戦いを諦めさせるための作戦でありシナリオの組み立てである。これを計算と呼んだ。一方創造性とは人の認識を変えることであり、常識とは違うことである。これを計算外と呼んだ。 しかし、戦略にしろ創造性にしろ、人の裏をかいたときに最も成功するわけである。ならば最も上等な戦略とは創造的な戦略、即ち敵にとっての計算外を計算にいれた戦略なのだし、最も上等な創造性とは戦略的な創造性、即ち偶然などではなく計算して人の計算外(常識と違うこと)を生み出すこと、になる。 というわけで、創造性と戦略性は高みであればあるほど双子の兄弟のようなものなのだ。 最近では殆ど聞かなくなったが、その昔は、戦略はアートだ、とよく言われた。戦略の本質を踏まえて厳密に言うと、弱者にとっての戦略はアートだ、となるだろう。強者にとっては弱者に諦めさせるために分かりやすい戦略(競争優位)つまり計算しやすい戦略を示すことが有効である。強者がわけのわからないことをやると、逆にわけのわからない反撃を受けて自身も痛手を被る等が起こるからだ。逆に、弱者にとっては分かりやすい戦略は殆ど無効である。弱者は強者の裏をかかなければ勝てない。生存できない。つまりは創造性が求められるのだ。 一方で、余談になってしまうが、アートは戦略だ、というと意外に思うだろうか。だが世界的に成功しているアーティストであれば、何を当たり前のことを、と思うのではないか。 実際、近代以降のアートは極めて計算高く、従来のアートの計算外(常識を覆す)をモードとして生み出してきたのだし、モダン以降に至ってはアート業界の文脈を計算しつくした上で「文脈に収まる計算外」を創出することがKSFだといって過言ではない。モダンアートを理解しようと思えば、あるいはアートの世界で成功したければ、ナイーブにアーティストの内なる感性の表出こそがアートの本質、などと思わないほうが賢明だ(いいか悪いかは別にして)。 さてでは創造性と戦略性が対極どころか双子なのだとしたら。戦略的に創造性を発揮する、ということはいかにして可能なのだろうか。あるいはまた、創造的に戦略をたてる、ということはいかにして可能なのだろうか。 (文責:金光 隆志)

2021-02-25

加速度的・幾何級数的

アップルが自動運転EVを2024年生産開始(を目指す)と報道された。真偽は定かではないようだが、これから自動車メーカーとの協議を進める上でのポリティクスとしてリークがあったとしてもおかしくない。いずれにせよ、これを聞いて、正直に言って論理的ではなく殆ど本能的統覚的に「やっぱりきてしまうのか」という焦燥を禁じ得なかった。 やっぱり「何が」きてしまう、と思ったのか。 アップルが自動車産業に?いや、そりゃそうだけど、それだけで焦燥はしない。ではもう少し広げてITが自動車産業のゲームを根底から変えてしまうことに?うん、それはある。自動車産業の黄昏は乗数的に日本全体を黄昏へと導きかねない、と直感しただろう。でもそれだけ?いや、違う。「2024年」という数字と「アップルがEV」との「組み合わせ」に対する恐怖と焦燥。お茶の間的感覚で統覚したのはそっちだ。寝耳に水、え、そんなにすぐ?できるの?できちゃうの?自動運転社会きちゃうの?みたいな。 恐怖と焦燥は、思いもよらなさ即ち想定外、から来たのだろう。ではなぜ想定外なのか。それが、加速度的・幾何級数的進化で、直線的な予想・想定を遥かに超えてくるからだろう。それなりに知見を広めアンテナを立て、ものごとの本質や将来を見通す修練をしても、そんなものが吹き飛んでしまうほどの加速感。幾何級数感。ことほど左様に、イノベーションは相互に連結し、複合し、イノベーションのAとBとCとDが組み合わさるとXのようなことが実現できる、みたいなことが、少なくとも米国では常態化しつつある、ということだ。A,B,C,D・・には好きなテクノロジートレンドを入れればよい。ビッグデータ、AI、シュミレーション、AR/VR、センサリング、通信5G、ネットワーク、ロボティクス、マテリアル、3Dプリント、ナノテク、バイオテク、バイオロジー、クリスパ-、ニューロサイエンス・・・。それぞれの進化のインプリケーションに精通するだけでも困難だが、まだ想定の範囲内。だがそれらが組み合わさって、例えばソードアートオンラインの世界が10年後には現実化する、とか言われてもにわかには信じがたい。(BCIやBrain to Brain Networkの進化で十分あり得るようだ)。こうした「思いのほか早く」は今後身近なところで「思いのほか沢山」生まれていくのではなかろうか。たとえばコロナワクチン。何年かかかる可能性,とか言われていたが現実にはたった1年たらずで,高い有効性で、しかも大量生産できる形で開発されてしまった。ウイルス治療では異端だががんの遺伝子治療で標準的に研究されてきたmRNA技術を応用、そこにSARSのスパイク研究から発見されたスパイク安定のデザイン技術もマージ、さらにナノ粒子によるDDS技術で細胞膜を通過しやすくし体内での免疫作用誘導を向上、抗体測定にも新手法を応用し、スピード開発。しかも従来のワクチンだと簡単に大量生産出来ないことが多いが、mRNAは人工合成で、大手製薬には大量生産技術があった。そしてこの開発のすごいところは、未来のウィルスにも比較的迅速に対応できるだろうということ。DDSは共通で、ウイルスの遺伝子情報さえわかればmRNAを人工生成してワクチンにすればどんなウィルスであっても抗体反応を誘発することが可能になる。このワクチン開発は医療内だけでの技術の融合ではあるが、従来ではあまりなされなかった異分野の様々な技術の融合をコロナ危機が図らずも後押しした結果、「想定外に早く」しかも「想定外に画期的」なワクチン開発・製造技術が確立された、という塩梅だ。他にも、食品、流通、旅行、保険、美容・・・様々な分野で思いがけない進化・変化が進行していくのだろう。 さて、今回の加速度的・幾何級数的進化の話。それだけだと焦燥と絶望にしか繋がらないかもしれないが、実はセレンディピティやオプション創造で論じた話と、ズレはありつつも交点がある。実際、コロナワクチン開発のストーリーはより仔細に追えば、セレンディピティとオプション創造の話まんま、とも言える。個々の技術進化の速度にもビビらず目を見開くことは大事だが、それと同等かそれ以上に、連結・連鎖・連合・融合の論理に刮目すべきだと思う。 (文責:金光 隆志)

2021-02-23

資本効率経営の功罪

資本効率経営が大企業の経営企画部あたりでちょっとしたホットトピックの一つになってきている。いつか来た道、大体10年周期くらいで似たようなブームがくる。新しい財務指標で「あの低迷していた企業○○がXXXを導入して復活した」とか「あの優良企業△△もXXXを活用している」みたいな話題がメディアで取り上げられ、新しい指標のブームが生まれるようだ。で、最近ならROIC経営、である。ちなみに資本効率経営に限らず、新しい経営手法が世界の潮流から3周くらい遅れて日本でブームになる、というのがここ数十年の現実。ちょっと前だとデザイン経営。米では20年くらい前にムーブメントがあって10年ちょっと前にピークがきて、今や米でそんなこと声高に言う人は殆どいない、というのは言い過ぎにせよ、まぁブームでも先端でも何でもない。米で誕生する経営手法は、その時代時代の米国企業や産業界が抱える課題に応えるかたちで台頭している。つまりコンテクストがある。対して日本では少なくともこの30年近く、ずっとちぐはぐなままである。デザイン経営(最近ではアート思考)と資本効率経営のブームがほぼ同時というのは笑えない冗談ではあるが、デフレ基調が変わらないままここまできたのだからインフレの環境で生まれた手法に遅れて乗っかったところでちぐはぐになるのも、さもありなん、である。資本効率を考えて経営するなんて当たり前のことだが、投資が加熱している環境・企業の状況下で、冷却装置として資本効率を厳し目に見る、というのが米やグローバル企業で起こるムーブメントなのであって、今の日本企業で皆が資本効率とか言い出すと、益々実体経済の景気は悪くなるのがオチである。絵に描いたような合成の誤謬が起こりそうだ。どうするんだろう。 さておき、資本効率経営。まぁ今ならROIC。多角化企業が事業を整理する際にはとてもわかり易い便利な指標だが、成長・拡大を目指すとなると途端に足枷となる。既存資産の範囲で事業を行う限りは拡大であってもまずまず機能する。PL上の利益拡大と資本効率の間に齟齬は殆どない。だが投資が絡むと困難が生じる。単純な話、追加設備投資により利益が拡大できるとしても限界資本効率が既存の資本効率を下回る場合、事業の資産運用サイドからみたROICは低下することとなる。だがその投資が例えば会社の現預金範囲で賄えるのなら調達サイドからみた全社ROICは向上する。この投資は是か非か、議論になるならまだしも、多角化企業では投資の検討・起案は先ず事業部が行うのが通常で、ならばそもそも議論祖上にあがらないかもしれない。それでもオーガニックの投資ならまだ単純、M&Aでは益々事態は複雑・困難となる。本来資本にとって、M&Aは自前成長よりも大きく確実な成長機会をもたらすことは多い。会社の既存資産の範囲でM&Aを実行出来る場合、連結で見れば被買収企業の純資産分の資産圧縮効果で全社ROICも向上する傾向にある。だがPBRが高い、したがって一般的に言えば有望な企業が買収対象であればあるほど、のれん代を考慮するとROICは悪くなる可能性がある。被買収企業の規模にもよるが、のれん代の大きい企業を全て現預金等で賄って買収ということは少なく、新規調達して買収することも多い。被買収企業の純資産額以上の資金調達を行って買収するならば、短中期では全社ROICを悪化させる可能性が高い。しかるに本来M&Aは、フェアヴァリューで見た企業価値よりも安く買えるなら、その投資はファイナンス的には是、事業シナジーが見込めるならなおさらであろう。だがROICに拘泥すると大型M&Aは非となりやすい。より先鋭的な言い方をすれば、これから先の企業価値増(≒FCF)最大化と過去の投資の正当化(≒ROIC)のどちらを優先するのかの問題に帰着する。短期の財務パフォーマンスを気にする会社は今の株主の期待値を大事にしていると言えなくもないが、緊縮的な財務戦略を続けていると、いずれ利益総出力に限界が訪れ配当性向は高まるばかり、しかもいずれそれも限界にきてついにはその株主も離れていく。かくして会社は衰退の一途をたどる。上場企業の株主なんてどうせ入れ替わるのだ。にっちもさっちも行かなくなって誰からも振り向かれなくなるくらいなら、今のうちに短期重視の株主から長期重視の株主に変わってもらったほうがいい、という企業が今の日本にはたくさんある。しかし、ブームに乗って資本効率経営と称して無自覚に自ら自分の首を締めようとしている企業を見るにつけ、さながらタナトスの欲望、自殺願望があるのではないかとさえ疑ってしまう。というのは悪い冗談だが。 資本効率経営と事業創造・成長の両立を図りたい企業に処方箋を述べよう。既存事業については、先ずは収益力強化の方策を実施しよう。商品別・顧客別の真の収益を把握出来ている企業は驚くことに未だに極小である。管理会計がずさん・未整備なまま(そもそもこんな状況では事業別ROICもへったくれもないのだが)何十年も放置されているのだが、そこはきっと文字通り金銀財宝・宝の山である。売掛買掛サイトや細かい経費を気にするくらいなら商品・顧客ポートフォリオをしっかりリストラクチャリングしよう。多くの事業ではそれで大幅にROICも向上・改善するはずである。収益力を強化しても業界平均ROICを大きく下回る事業については整理・できればカーブアウトの道を探ると良い。そうして生まれたキャッシュを、今の配当を増やすためではなく将来の配当をふやすため思い切り投資に回していこう。投資したくても魅力的な事業案・候補が無いのだ、という声もあるだろう。そうした企業では不確実性の見方を更新することが処方箋となるだろう。より具体的には新規事業の検討や投資判断にオプションの考え方を導入しよう。オプション価値を考慮すれば投資機会はぐっと増えてくるはずだ(コラム「事業創造とオプション創造」をご参照)。なお、投資はできれば日本優先で考えられたい。大企業が皆日本での投資を活性化すれば、新規事業の成功確率は全体として向上していくはずなのだ。 過激に聞こえたかもしれないが、これが数十年前、長年不況にあえいでいた米国が奇跡とさえ思えるパックスアメリカーナ復活を果たした道標。リストラクチャリング・リエンジニアリング旋風ののち、情報スーパーハイウェイ構想のもと、国内デジタル投資が活性、その際度々参照・立脚されたのがリアルオプション投資、株式市場だけでなく実需景気も徐々に浮上しデジタル以外の分野も活性、結果、各産業の競争力は回復・飛躍的に向上し、再びグローバル競争の雄へ。云々。 だいぶ話が大きく、そして長くなってしまった。今回はこの辺で。 (文責:金光 隆志)

2021-02-22

セレンディピティの可能性を高める

新規事業の創出・成功をセレンディピティ(偶然の発見・気づき)にかける、というのは中々出来ることではないだろう。経営陣にしてみれば投資家に許容されそうにない、と思うだろうし、しからば当然、事業開発担当にとっても経営陣から許容されそうにない、ということになる。 だが、セレンディピティが事業創造・成功に果たしている役割は、残念ながらというのも変だが、恐らくは想像以上に大きいだろう。InstagramもYoutubeもGrouponもPayPalもAirBnBもTwitterも、Appleも、ポストイットも、コカ・コーラも、じゃがりこも、等など、セレンディピティがなければ生まれていなかった。 可能性の連鎖を描ききるという前回の話(「事業創造とオプション創造」参照)は、セレンディピティの潜在を出来るだけ顕在化させておく試みでもある。また、描ききることが、描いていなかった真に想定外な気づきへの可能性・感度を高めることに繋がる。 今回は、セレンディピティの可能性を高めるもう一つの方策、モジュール化×バザール化について少し解説を試みよう。 セレンディピティとは、思いがけない発見や出来事からの気付き、である。ではセレンディピティを起こす可能性を高めるにはどうすればいいか。思考実験をすれば簡単にわかる。仮にあなたが、たった一つのことを、たった一人で、しかも情報を遮断して、行っているとしよう。セレンディピティが起こる可能性は?限りなくゼロであろう。ならばその逆、色々なことを、色んな人・多くの人と、情報をやり取りしながら、行ったとしたら?偶然の出来事可能性は高まっていくだろう。だが、過剰な複層化、過剰な情報、つまり複雑性が過剰になってくると、発見や気付きの可能性は徐々に下がっていくだろう。つまり量と確率がトレードオフになっていく。そこで、中くらいのいい塩梅を探るか、トレードオフを解消するか、どちらかによってセレンディピティの可能性を高められそうだと予想がつく。しかしてその方策、それがバザール化×モジュール化(複層化の方法がバザール化、複層化しつつ複雑性をコントロールする方法がモジュール化)である。バザール化はオープンソースの開発方式からのアナロジー、モジュール化は製品開発や生産・生産管理の方式からのアナロジーなのでそちらに不案内な人は一度見てみるとよい。バザール化は、簡単に言うと事業開発を社内的社外的に多様化・多重化かつ可能な限りでオープン化していくことに相当する。多様化は、一つの大きな事業テーマのものとで、商品特性・サービスタイプ・事業モデル・顧客層などを多様に探査していくことを指し、多重化は、例えば一つのサービスタイプにおいて検討する担当・外部パートナー等を多重にしておくことを指す。オープン化は、狭義のオープン開発という意味ではなく、関係ありそうな人・なさそうな人を問わず可能な範囲で内容やコミュニケーションをオープンにしていくことを指す。バザール化によって瞬く間にアプローチや関係ネットワークが成長・多様化し、想定外の展開や情報のインベントリが生成されていくだろう。一方モジュール化は、この多様化の動き・流れをカオスでもなく統制でもないレベル・中くらいの複雑さ、いわばセミラティス構造に落ち着かせる働きをする。セミラティス構造の特性については都市論に触れたことがある人にはお馴染みだろう。詳しくは是非そちらを参照して頂きたい。なぜ人工都市が死んでいくのか、自然都市が有機的な発展を続けるのか、大変示唆深いだろう。さて、セミラティスを構成するモジュールの分け方・組み方には色々なやり方がある。事業モデル単位で分けるとか、機能単位で分けるとか、切り口の一律性・一貫性・整合性に拘る必要はない。むしろ、硬直的にならないようにセミラティスで相互に重なり・繋がる線を担保していくことが大事である。セミラティスに構造した各モジュールは、成長・多様化を損なうことなく様々な茎を伸ばし・連結していきながら、自然に進化していく。一方でそれぞれのモジュールは事業開発エンジン・アセットとなっていく。アセットとなったモジュールは、切り離して全く別の事業創造テーマにあてていく、といったことも可能になっていく。これは前回話した「オプションの創造」に関する最上級の打ち手でもある。 バザール化によって人々や出来事のネットワークを多層・多茎化し、拡張・連結・切断を繰り返しながら想定外の発展を促進する。一方でモジュール化によってその発展による複雑性をカオスと統制の間の絶え間ないゆらぎに緩やかに組織する。セレンディピティの起こる可能性は飛躍的に高まるだろう。セレンディピティと言うと、偶然待ちの消極的な姿勢・自らではどうすることもできない運、と捉えられがち。だがその考えでは残念ながらセレンディピティは訪れないしセレンディピティが訪れないとしたらイノベーションを起こせる可能性はとても低いだろう。本日論じたことは従前の組織編成・運営システムとは180度違う効率・持続成長のマネジメントと変革のマネジメントが180度違うのは当たり前なのだが、そのことにちゃんと向き合える企業はまだまだ少ない。逆に言えばチャンスでありまだまだ可能性はあるということだ。全社を180度違うマネジメントスタイルに変えるという話ではない。そんなことをしたら既存事業に支障をきたす。かといって1%ですむ話でもない。10%程度のリソースをバザール化×モジュール化の組成・運営に振り向けていけば、事業創造にぐっと近づくことができるだろう。 (文責:金光 隆志)

2021-02-18

事業創造とオプション創造

事業創造とは何か。 当たり前すぎて考える気にもならない?確かに。事業創造とは事業を創ること。では同義反復であって何ら新しい発見はない。しかし、この問いへの切り込み方・回答次第で事業創造の巧拙が決まるのだとしたら?ということで今回は事業創造とは何かの見立てを更新してみよう。 事業創造とはオプションの創造であり権利の創造である。 どういうことか。 一般的に、事業創造には不確実性が伴う。不確実性には2種類ある。何が起こるか想像もつかない・思いも寄らないことがあり得る、という意味の不確実性。そしてもう一つ、色んなことが派生的・連鎖的に起こり得るのだが、そのどれがどこまで起こるのかわからない、という意味の不確実性。事業創造においてこの2つの不確実性の意味は深く考える価値がある。なお本稿では詳述しないが、前者は弊社が提唱する適応変異(アダプション)の創造手法に、後者は生態系多様性の創造手法に関係するだろう。 さて、パラフレーズを続けよう。この不確実性の創造こそが事業創造なのだ、というと驚くだろうか驚かないだろうか。事業創造の常識的なイメージでは、ある狙った事業構想があり、そのリターンを想定し、それを実現していくことが事業創造であろう。日本の大企業の事業創造は殆どここで躓く。リターンを定量的に想定出来なかったり、想定してもそれこそ不確実であったりするわけで、ここで色んな対処のバリエーションが現れる。大別すると3つだろう。①不確実だからリーンに小さくスタートして検証しながら進めよう②革新的なアイデアを定量評価しようとすること自体間違っているし革新的であるかどうかが大事③わからないから様子を見よう。①②③のどれも、それ自体が間違っているわけではないが前提が間違っているとそのあとの論理も全部間違いとなる。前提とは繰り返すが、事業創造とは不確実性の創造であり、不確実性には2種類ある、ということ。 まだ何が言いたいかピンとこないだろう。ここで、不確実性を可能性と読み替えてみるとどうか。「可能性の創造こそが事業創造であり、可能性には2種類即ち想定外と想定連鎖の枝分かれの2種類がある。」どうだろう。ちょっと見え方が変わってきただろうか。ところでまたしても殆どの大企業の事業創造の取組みにおいて、可能性の連鎖の想定は全くといっていいほど行っていない。「こういう風になるだろう、でも不確実で、アップサイドこれくらい・ダウンサイドこれくらいの振れ幅」みたいなことをやっているケースはある。やらないより遥かによいが、ここで言っているのはそういうことではない。想定の実現可能性のことではない。所謂サイドエフェクトや、風が吹けば桶屋的な関係性の連鎖がもたらす可能性のユニバース(と宇宙の果て的な想定外の発見・出来事)のことだ。やってみればわかるが、サイドエフェクトは具体的なアクションやイベントを考えれば考えるほどどんどん広がり、それこそ想定外だった可能性に気づいていくことだろう。そして、事業創造とはこれら可能性のオプションの創造、起こし得る権利の創造、と考えるべき行為なのだ。 事業創造において常識的考え方で「これをやればこれくらいのリターンが期待できる」と算段しそれが十分魅力的なとき、十中八九はその見通しは誤っている。だから、さっき①②③どれも間違いと言ったが、こういう起案がされたとき、③の「よくわからないから様子見」という態度は皮肉にも実は合理的だとも言えるわけだ。念の為捕捉しておくと、スモールビジネスを立ち上げるのであれば、この限りではない。スモールで十分なら色々やりようはある。例えば特定のユーザーを想定し、そのユーザーを徹底的に満足させる商品やサービスを作れば、似たようなユーザー層には確実に波及し受容されていく。だがまぁそれ以上でもそれ以下でもない。 可能性の連鎖は今起こるわけではないし今の投資だけで起こせるものでもない。どこかで大きな分岐がある。だが可能性が低くても起こり得る・起こし得る未来。それがオプションである。そして事業創造の価値は殆どこのオプションの価値に依存する。オプション価値の小さい事業は控えめに言って魅力は高くない。また、ほぼ同義なのだが、事業創造において確度の高い未来の価値は小さい。さっきの繰り返しになるが、逆に言えばこれを大きいと見積もっているならその見立ては殆ど誤りだろうということだ。直感的に了解するなら本当に確度が高いのなら皆が同じところを狙うから価値は毀損される、と考えてみればよいだろう。 可能性連鎖のオプションをどう考案しどう評価するかとなると少々テクニカルな習熟を要する。評価についてはまだ限界もある。また、もう一つの可能性である想定外をどう「想定」するかも、可能性連鎖の想定を前提とするのでここでの説明には収まらない。だが、これだけは押さえておくと良い。オプション=権利を買う・押さえるという考えがないと、ロクな新規事業投資は行えない。オプションを買う気がないならはじめから新規事業など考えないほうがよいとさえ言える。思うに日米のここ20年の決定的な差はここにあるんじゃなかろうか。先ずは定性でも良いから可能性の連鎖を描ききってみるとよい。事業構想が当初想定とまるで違うものへと変貌することだろう。変貌しない事業案はボツにするのが懸命だ。とまで言うと言い過ぎか。でもそれくらいでないと大企業なんて変わらないですからね。 (文責:金光 隆志)