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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
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モードとコードと消費と
随分と長い間コラムの更新を怠っていました。 心機一転、また徒然なるままに書いていこうかと思っている次第です。 再開第一弾は消費論。 過去にもいろいろと消費について論じてきましたが、チャットGPTやら生成AIがバブってきたいま、あらためて、人間が意味を考える意味を考えてみたい。ん? ということではじめましょう。さて。 大分前にはなりますが、【消費メカニクス3.0】という題で、コラムを書きました。 そこでは、消費行動は我々が思っているほどには自由な意思によるのではないこと、構造的に規定されていること、データサイエンスが人の意思を思いのまま操作しつつあることなどを論じました。 今回は【生成】に関わる話をできればと思います。そのために、まずは消費メカニクス3.0で述べた【構造】の話を、文化の理論の古典を下敷きに再確認しておきましょう。 人間の行動の殆どはコードに則っている、あるいはコード化されています。コードというと勿体ぶって聞こえますが、要は例えば社会慣習とか流行とか自分の中での習慣化とか。人間=コード・コード化する生き物、とさえ言えるかもしれません。 なんでか。よくわかりません。 この、よくわからないという時点ですでに、人間が意味を考える意味が垣間見えるのですが、さておき。 人の行動を統制するコードにはあからさまなものもあれば気づいていない・無意識に作用しているものもあります。また、一つの行動は様々なコードが複雑に絡み合い影響を及ぼした結果、としてあります 例えばあなたが誰かに一目ぼれしたとしましょう。それは運命と呼びたいかもしれません。絶対普遍だと思うかもしれません。だけど多分違う。 あなたが現代人なら、19世紀のコードではなく20世紀や21世紀のコードだし、日本で暮らしてきたならアフリカのコードではなく日本のコード、あるいは、生まれてこのかたどういう人と出会ってきたのか、どんな集団に属してきたのか、などからもコード化されている。 自分自身、なんでその人に一目ぼれしたのかわからなくても相当適度にコードや広義の社会学習の堆積から決定されている、だろうと思われます。 つまり、欲望はコード化されている、あるいはコードが欲望を喚起する。 消費のメカニクス3.0の議論は、この潜在するコードの複雑な影響をAIがパターン認識して中毒的・衝動的な反応(消費)が引き出されている、コードを侮るな、ということでした。 そうすると人間の欲望・消費はもはやAIの思うがまま、人間が介在する余地はない、のだろうか。ほとんどそうなのかもしれない。そうなっていくのかもしれない。 しかし、実はひとつ、絶対にAIが作り出せないものがあります。何か。 それは、コード自体です。 AIには既存のコードを解読できても新しいコードを生成することは絶対出来ない。なぜか。 コードは人間の社会活動、関係のネットワークによって生成されるからです。コードは社会・関係のネットワークの中にしか存在しません。もっといえばコードとは関係のネットワークそのもの、です。 日々の社会活動や関係のネットワークから新しいコードのSeedが沢山生まれています。あらゆる瞬間のあらゆる現場におけるあらゆる関係にSeedが宿る、というとロマンティックすぎるでしょうか。でもきっとそうなのです。そうしたSeedのほとんどはそのとき限りで泡のごとく消えていきます。しかし極々一部のSeedは、先ずは局所的に繰り返され・模倣されはじめる。ですがこれはまだコード以前、いわばモードの段階です。モードも殆どがすぐに消滅します。そして極々一部のモードだけ、改変されながらも局所から領域へと模倣が広がる。トレンド段階です。トレンド以降、模倣がより大域へと広がっていく。ファッション(流言・流行)の段階です。ファッション段階までくれば、一定程度、コードとして機能し始めたと言えるでしょう。 では、どんなものが新しいモードとなり新しいファッションへと発展していくのか。 それはわかりません。わからないから生成なのです。 既存コードの組み合わせや応用範疇で生み出せるファッションはあります。大半のトレンドやファッションはこれ。これらは生成ではなく再生産と呼ぶべきもの。再生産型トレンドやファッションはそのうちAIでも生み出せるようになるでしょう。いや、フェイクニュースの大拡散なんかを見ているとすでに起こっていること、なのかもしれません。 でも、既存コードを逸脱した行動・言動・モノ等が、関係の中でどう体験されるか、あるいはどんな新しい関係を生み出すのか、既存コードから読み解くことは出来ません。繰り返しますが、もし読み解けるなら、それは新しいコードを生み出してはいません。生成AIが作り出せるのは古いコードで読み解けるものだけ。つまり新しいコードは生成出来ないのです。 さて、長々書いてきた割には、だからなに?という感じの話になってきてしまいました。 ここからインプリケーションのある話に繋げていくには、さらに長々と論じるべきことがありそうです。 再開第一弾はとりとめのない話になってしまいましたが、リハビリということでご容赦を。 (文責:金光隆志)
先発参入か後発参入か!?
新商品や新事業において、先発参入と後発参入のどちらが有利か。古くからある議論で沢山の研究が重ねられてきています。結論はまちまちなので、メタ分析的に言うとどちらとも言えない、ということかと思ったりします笑。とはいえ実例研究なんかは結構読み物としても面白いものが多い。成熟業界とテクノロジー業界の違いを論じるもの、デファクトスタンダード競争との関連で考察するもの、近年ならプラットフォーマー事業モデルを軸に研究しているものなど様々あり、興味や直面している課題に応じて読んでみるのもよいでしょう。 で、今更ここで、それら研究を紹介・総括したところで何も面白くないので、新たな視点、少なくとも既存のちゃんとした学術研究群とは違うパースペクティブで実践的な考察を行っておこうと思います。 パターンを論理的に整理しておきましょう。 先ずニーズについて。イノベーションでは普通のニーズはあまり対象になりません。イノベーションのターゲットになるニーズには2極あります。既に存在している大きなアンメットニーズか、ニーズがあるかどうか不確実か。 次にソリューションについて。ソリューションも2極に大別しましょう。一つは、その業界なりテーマなりで王道・既存の延長にあるソリューション、もう一つは、異質・既存では追求されていないソリューション。 ここで、ニーズとソリューションの掛け算を考えると4つの象限・パターンが出現します。「大アンメットニーズ×王道・延長ソリューション」「大アンメットニーズ×異質ソリューション」「不確実ニーズ×王道・延長ソリューション」「不確実ニーズ×異質ソリューション」 順に見ていきましょう。 先ず、「大アンメットニーズ×王道・延長ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 という問いには意味はありません。え!? この象限では最終的にリーダー企業が勝てるし勝ちに来ることが多いからです。大アンメットニーズなので解消すれば大きな事業チャンスです。そして他社が先に渾身の技術開発に先行で成功したとしましょう。リーダー企業は大抵すぐにキャッチアップできます。たとえ技術をパテントで押さえていたとしても、それが業界でスタンダードな技術領域や技術の筋だったとすると、いくらでも(は言い過ぎですが)類似ソリューションを開発することは可能だからです。この象限ではリーダー企業なら先発しようが後発に回ろうが勝ててしまう、ということです。 次に、「大アンメットニーズ×異質ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 ここでは多くの場合先発参入が圧倒的優位です。 大きなアンメットニーズなので大きな事業チャンスです。そこに業界スタンダードとは違う異質ソリューション。異質ソリューションを模倣するのは誰にとっても簡単ではなく時間がかかります。その間に市場を押さえ・ブランドを確立することが可能です。異質ソリューションの場合、市場に認知・受容されるのに時間を要する場合もあります。大きなアンメットが解消されるとはいえ見たことないソリューションだと様子を伺うユーザーも多いからです。ところが、逆説的ですが時間を要した場合のほうがむしろ先行者が勝ち切れる可能性は高まります。浸透が遅れていると既存プレーヤーは「あんなもの普及しない」とたかをくくって追随の手を打つのも遅れます。ところが。良いソリューションならユーザー行動の周囲状況依存とネットワーク効果で、突然一気に普及期を迎えます。そこではじめて後続は慌てて手を打とうとします。でも時すでに遅し。巻き返しには長い時間と大きな投資を要します。 次に、「ニーズ不確実×王道・延長ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 ここでは、実は「優位」か否かがポイントではない。「賢い」のは後発参入を選ぶことです。 ニーズは不確実なのでうまくいくかどうかはわかりません。ですが王道・延長ソリューションなら、上手くいくことを確かめてから参入準備しても、一定程度は間に合うしある程度は成功出来るのです。仮にリーダー企業が先陣を切って市場開拓に取り組み、需要が喚起され、市場が形成されてきたとしましょう。リーダー企業でなければ後発で逆転は難しいですがリーダーでなくても後発で参入は間に合うし、なんなら差別化できます。逆にリーダーが後発の場合ならもちろん逆転は十分起こしえます。 最後に「ニーズ不確実×異質ソリューション」 この象限では先発が優位か後発が優位か。 ここまでの論でお気づきかもしれません。異質ソリューションは成功するなら先発が優位です。しかしニーズ不確実ならば後発が賢い。ということで不確実なニーズに異質ソリューションを考える、というのは、なかなかやりたくても既存大企業が取り組むにはハードルが高いのです。つまりこここそが大企業にとってはベンチャリング領域、というわけです。ここでは単にソリューションの探査やR&Dを行うだけではダメで事業機会の存在も探査しなければいけない。事業化を試さなければならない。逆に言えば大企業が純粋にベンチャリングアプローチをとるべきなのはこの象限だけ。そのことに無自覚なCVCその他のベンチャリング的取り組みは失敗するか控えめに言って目標を見失い頓挫することが多いでしょう。 先発参入か後発参入か。これは決着のない二項対立の問いです。なので、少し眺める角度を変え、かつ考察を複眼にすることで、立体的に示唆を導出してみました。 イノベーションのジレンマやネットワーク外部性が働く事業や急速に技術進化が進む業界など、各論ベースではもう少し複雑なケース・優位性議論も出てきますが、4象限の原則論の理路を認識しておけば状況をうまくハンドリングできる可能性はぐっと上がることと思います。 (文責:金光 隆志)
目前の課題と未来の課題と長期構想と
いま目の前にある大きな課題といまは見えないけど将来起こり得る大きな課題。 長期構想において前者だけをターゲットにして満足する企業は多くないだろう。むしろ、今見えていることではなく将来だけを長期構想ターゲットに据えようと考える企業も多い。 まだ見ぬ課題=まだ見ぬ機会=他社に先んじるチャンス、といったところか。 その是非は一旦置くとして、ではどうやって将来起こり得る課題を見定めるか。 例えば。 STEEP(Social、Technology、Environment、Economy、Politics)のメガトレンドから将来社会を想定し、だとすると我社にとってどんな課題や機会があり得るか。みたいな。 あるいは。 メガトレンドから見える将来課題は所詮似たりよったりだし課題も曖昧。客観予測ではなく主観的な意思・起こし得る未来こそが構想に値する、ということで想定外未来やフューチャリングセッションなどで未来を構想しバックキャストする、みたいな。 で、それらを一人ではなく様々なバックグラウンドを持った人、専門分野の異なる人同士で行うことで、一人の目では見えない意外なチャンスに気づきを得る、みたいな。 こういうエクササイズも視野を広げるには有効だろう。今までと違う事を考えた気になれるし、少なくとも楽しい。ワクワクしない構想になんかチャレンジ出来ないのだから! だけど残念ながら資本の論理はこんな不確実なものに賭けることを許してはくれない。だから経営の意思決定がどうなるかというと、投資はまだ出来ないが経費の範囲で探査的なリサーチは進めてよし、みたいな。 そして立案者たちは概ねこう反応する。「うちのトップは短期にしか目が向かない」「今の経営陣に言っても無駄だから次世代経営陣を巻き込んで・・云々。」一方で経営陣はこう思う。「もっと地に足ついた、それでいてなるほどと思うような構想は出来ないものか、云々。」 じゃあどうすればいいのか。 その前に、何がダメなのか。単純なこと、いきなり想定外やメガトレンドから入るから議論がふわふわするのだ。繰り返すが、それらのエクササイズがダメだとは思わない。でもその前に押さえておくべき・押さえる価値のある「まだ見ぬ未来」がある。何か。 日本には素晴らしい諺がある。「風が吹けば桶屋が儲かる。」 発想はオプション創造のコラムで論じた因果の連鎖に近いが、これはなかなかテクニカルですぐ上手くは出来ないだろう。先ずはより簡単・実践的な方法からやってみるとよい。 それは「今目の前の課題の次の課題」を考えること、である。もっと言えば「いま目の前の課題が解決した暁に生じる次の新たな課題」だ。そんなことは考えている?ならいいんですが、考えてないなら考える価値は大いにある。例えば。自動車が無かった時代に遡ってみよう。そして5年後には自動車が世に出ることが予見され得るとしよう。次に何が予見されるか。例えば今までになかった深刻な事故多発。混乱。で、何が必要になるかというと、道路の整備、交通システムの構築、燃料補給、定期的な整備、車の安全性能の向上、保険、などなど、車が現れたことによって生じた次なる課題や機会が山ほどあることを現代の我々なら知っているだろう。これらは全て新たなビジネスチャンスである。 例がわかりやすぎて、実際はそんな単純・簡単にはいかない、と思うだろうか。そのとおり。だから価値があるのだ。あるいは、そんな単純・簡単なことは全部見えていると思うだろうか。そうならば悩む必要はないだろう。投資家もそこそこ納得するような10年後の柱となる新規事業構想の種はその中に見つけられるだろうから。 あるいは、この論理の筋をベースに据えた上でのメガトレンド発想や想定外の未来構想ならば、だいぶ地に足のついたそれでいてなるほどという構想にも近づけるだろう。 長期構想の狙い目は目の前の課題とまだ見ぬ将来の課題の中間ゾーンにこそある。 風が吹けば桶屋以外に何が儲かるか。考えるとワクワクするではないか。 (文責:金光 隆志)
加速度的・幾何級数的
アップルが自動運転EVを2024年生産開始(を目指す)と報道された。真偽は定かではないようだが、これから自動車メーカーとの協議を進める上でのポリティクスとしてリークがあったとしてもおかしくない。いずれにせよ、これを聞いて、正直に言って論理的ではなく殆ど本能的統覚的に「やっぱりきてしまうのか」という焦燥を禁じ得なかった。 やっぱり「何が」きてしまう、と思ったのか。 アップルが自動車産業に?いや、そりゃそうだけど、それだけで焦燥はしない。ではもう少し広げてITが自動車産業のゲームを根底から変えてしまうことに?うん、それはある。自動車産業の黄昏は乗数的に日本全体を黄昏へと導きかねない、と直感しただろう。でもそれだけ?いや、違う。「2024年」という数字と「アップルがEV」との「組み合わせ」に対する恐怖と焦燥。お茶の間的感覚で統覚したのはそっちだ。寝耳に水、え、そんなにすぐ?できるの?できちゃうの?自動運転社会きちゃうの?みたいな。 恐怖と焦燥は、思いもよらなさ即ち想定外、から来たのだろう。ではなぜ想定外なのか。それが、加速度的・幾何級数的進化で、直線的な予想・想定を遥かに超えてくるからだろう。それなりに知見を広めアンテナを立て、ものごとの本質や将来を見通す修練をしても、そんなものが吹き飛んでしまうほどの加速感。幾何級数感。ことほど左様に、イノベーションは相互に連結し、複合し、イノベーションのAとBとCとDが組み合わさるとXのようなことが実現できる、みたいなことが、少なくとも米国では常態化しつつある、ということだ。A,B,C,D・・には好きなテクノロジートレンドを入れればよい。ビッグデータ、AI、シュミレーション、AR/VR、センサリング、通信5G、ネットワーク、ロボティクス、マテリアル、3Dプリント、ナノテク、バイオテク、バイオロジー、クリスパ-、ニューロサイエンス・・・。それぞれの進化のインプリケーションに精通するだけでも困難だが、まだ想定の範囲内。だがそれらが組み合わさって、例えばソードアートオンラインの世界が10年後には現実化する、とか言われてもにわかには信じがたい。(BCIやBrain to Brain Networkの進化で十分あり得るようだ)。こうした「思いのほか早く」は今後身近なところで「思いのほか沢山」生まれていくのではなかろうか。たとえばコロナワクチン。何年かかかる可能性,とか言われていたが現実にはたった1年たらずで,高い有効性で、しかも大量生産できる形で開発されてしまった。ウイルス治療では異端だががんの遺伝子治療で標準的に研究されてきたmRNA技術を応用、そこにSARSのスパイク研究から発見されたスパイク安定のデザイン技術もマージ、さらにナノ粒子によるDDS技術で細胞膜を通過しやすくし体内での免疫作用誘導を向上、抗体測定にも新手法を応用し、スピード開発。しかも従来のワクチンだと簡単に大量生産出来ないことが多いが、mRNAは人工合成で、大手製薬には大量生産技術があった。そしてこの開発のすごいところは、未来のウィルスにも比較的迅速に対応できるだろうということ。DDSは共通で、ウイルスの遺伝子情報さえわかればmRNAを人工生成してワクチンにすればどんなウィルスであっても抗体反応を誘発することが可能になる。このワクチン開発は医療内だけでの技術の融合ではあるが、従来ではあまりなされなかった異分野の様々な技術の融合をコロナ危機が図らずも後押しした結果、「想定外に早く」しかも「想定外に画期的」なワクチン開発・製造技術が確立された、という塩梅だ。他にも、食品、流通、旅行、保険、美容・・・様々な分野で思いがけない進化・変化が進行していくのだろう。 さて、今回の加速度的・幾何級数的進化の話。それだけだと焦燥と絶望にしか繋がらないかもしれないが、実はセレンディピティやオプション創造で論じた話と、ズレはありつつも交点がある。実際、コロナワクチン開発のストーリーはより仔細に追えば、セレンディピティとオプション創造の話まんま、とも言える。個々の技術進化の速度にもビビらず目を見開くことは大事だが、それと同等かそれ以上に、連結・連鎖・連合・融合の論理に刮目すべきだと思う。 (文責:金光 隆志)
セレンディピティの可能性を高める
新規事業の創出・成功をセレンディピティ(偶然の発見・気づき)にかける、というのは中々出来ることではないだろう。経営陣にしてみれば投資家に許容されそうにない、と思うだろうし、しからば当然、事業開発担当にとっても経営陣から許容されそうにない、ということになる。 だが、セレンディピティが事業創造・成功に果たしている役割は、残念ながらというのも変だが、恐らくは想像以上に大きいだろう。InstagramもYoutubeもGrouponもPayPalもAirBnBもTwitterも、Appleも、ポストイットも、コカ・コーラも、じゃがりこも、等など、セレンディピティがなければ生まれていなかった。 可能性の連鎖を描ききるという前回の話(「事業創造とオプション創造」参照)は、セレンディピティの潜在を出来るだけ顕在化させておく試みでもある。また、描ききることが、描いていなかった真に想定外な気づきへの可能性・感度を高めることに繋がる。 今回は、セレンディピティの可能性を高めるもう一つの方策、モジュール化×バザール化について少し解説を試みよう。 セレンディピティとは、思いがけない発見や出来事からの気付き、である。ではセレンディピティを起こす可能性を高めるにはどうすればいいか。思考実験をすれば簡単にわかる。仮にあなたが、たった一つのことを、たった一人で、しかも情報を遮断して、行っているとしよう。セレンディピティが起こる可能性は?限りなくゼロであろう。ならばその逆、色々なことを、色んな人・多くの人と、情報をやり取りしながら、行ったとしたら?偶然の出来事可能性は高まっていくだろう。だが、過剰な複層化、過剰な情報、つまり複雑性が過剰になってくると、発見や気付きの可能性は徐々に下がっていくだろう。つまり量と確率がトレードオフになっていく。そこで、中くらいのいい塩梅を探るか、トレードオフを解消するか、どちらかによってセレンディピティの可能性を高められそうだと予想がつく。しかしてその方策、それがバザール化×モジュール化(複層化の方法がバザール化、複層化しつつ複雑性をコントロールする方法がモジュール化)である。バザール化はオープンソースの開発方式からのアナロジー、モジュール化は製品開発や生産・生産管理の方式からのアナロジーなのでそちらに不案内な人は一度見てみるとよい。バザール化は、簡単に言うと事業開発を社内的社外的に多様化・多重化かつ可能な限りでオープン化していくことに相当する。多様化は、一つの大きな事業テーマのものとで、商品特性・サービスタイプ・事業モデル・顧客層などを多様に探査していくことを指し、多重化は、例えば一つのサービスタイプにおいて検討する担当・外部パートナー等を多重にしておくことを指す。オープン化は、狭義のオープン開発という意味ではなく、関係ありそうな人・なさそうな人を問わず可能な範囲で内容やコミュニケーションをオープンにしていくことを指す。バザール化によって瞬く間にアプローチや関係ネットワークが成長・多様化し、想定外の展開や情報のインベントリが生成されていくだろう。一方モジュール化は、この多様化の動き・流れをカオスでもなく統制でもないレベル・中くらいの複雑さ、いわばセミラティス構造に落ち着かせる働きをする。セミラティス構造の特性については都市論に触れたことがある人にはお馴染みだろう。詳しくは是非そちらを参照して頂きたい。なぜ人工都市が死んでいくのか、自然都市が有機的な発展を続けるのか、大変示唆深いだろう。さて、セミラティスを構成するモジュールの分け方・組み方には色々なやり方がある。事業モデル単位で分けるとか、機能単位で分けるとか、切り口の一律性・一貫性・整合性に拘る必要はない。むしろ、硬直的にならないようにセミラティスで相互に重なり・繋がる線を担保していくことが大事である。セミラティスに構造した各モジュールは、成長・多様化を損なうことなく様々な茎を伸ばし・連結していきながら、自然に進化していく。一方でそれぞれのモジュールは事業開発エンジン・アセットとなっていく。アセットとなったモジュールは、切り離して全く別の事業創造テーマにあてていく、といったことも可能になっていく。これは前回話した「オプションの創造」に関する最上級の打ち手でもある。 バザール化によって人々や出来事のネットワークを多層・多茎化し、拡張・連結・切断を繰り返しながら想定外の発展を促進する。一方でモジュール化によってその発展による複雑性をカオスと統制の間の絶え間ないゆらぎに緩やかに組織する。セレンディピティの起こる可能性は飛躍的に高まるだろう。セレンディピティと言うと、偶然待ちの消極的な姿勢・自らではどうすることもできない運、と捉えられがち。だがその考えでは残念ながらセレンディピティは訪れないしセレンディピティが訪れないとしたらイノベーションを起こせる可能性はとても低いだろう。本日論じたことは従前の組織編成・運営システムとは180度違う。効率・持続成長のマネジメントと変革のマネジメントが180度違うのは当たり前なのだが、そのことにちゃんと向き合える企業はまだまだ少ない。逆に言えばチャンスでありまだまだ可能性はあるということだ。全社を180度違うマネジメントスタイルに変えるという話ではない。そんなことをしたら既存事業に支障をきたす。かといって1%ですむ話でもない。10%程度のリソースをバザール化×モジュール化の組成・運営に振り向けていけば、事業創造にぐっと近づくことができるだろう。 (文責:金光 隆志)
事業創造とオプション創造
事業創造とは何か。 当たり前すぎて考える気にもならない?確かに。事業創造とは事業を創ること。では同義反復であって何ら新しい発見はない。しかし、この問いへの切り込み方・回答次第で事業創造の巧拙が決まるのだとしたら?ということで今回は事業創造とは何かの見立てを更新してみよう。 事業創造とはオプションの創造であり権利の創造である。 どういうことか。 一般的に、事業創造には不確実性が伴う。不確実性には2種類ある。何が起こるか想像もつかない・思いも寄らないことがあり得る、という意味の不確実性。そしてもう一つ、色んなことが派生的・連鎖的に起こり得るのだが、そのどれがどこまで起こるのかわからない、という意味の不確実性。事業創造においてこの2つの不確実性の意味は深く考える価値がある。なお本稿では詳述しないが、前者は弊社が提唱する適応変異(アダプション)の創造手法に、後者は生態系多様性の創造手法に関係するだろう。 さて、パラフレーズを続けよう。この不確実性の創造こそが事業創造なのだ、というと驚くだろうか驚かないだろうか。事業創造の常識的なイメージでは、ある狙った事業構想があり、そのリターンを想定し、それを実現していくことが事業創造であろう。日本の大企業の事業創造は殆どここで躓く。リターンを定量的に想定出来なかったり、想定してもそれこそ不確実であったりするわけで、ここで色んな対処のバリエーションが現れる。大別すると3つだろう。①不確実だからリーンに小さくスタートして検証しながら進めよう②革新的なアイデアを定量評価しようとすること自体間違っているし革新的であるかどうかが大事③わからないから様子を見よう。①②③のどれも、それ自体が間違っているわけではないが前提が間違っているとそのあとの論理も全部間違いとなる。前提とは繰り返すが、事業創造とは不確実性の創造であり、不確実性には2種類ある、ということ。 まだ何が言いたいかピンとこないだろう。ここで、不確実性を可能性と読み替えてみるとどうか。「可能性の創造こそが事業創造であり、可能性には2種類即ち想定外と想定連鎖の枝分かれの2種類がある。」どうだろう。ちょっと見え方が変わってきただろうか。ところでまたしても殆どの大企業の事業創造の取組みにおいて、可能性の連鎖の想定は全くといっていいほど行っていない。「こういう風になるだろう、でも不確実で、アップサイドこれくらい・ダウンサイドこれくらいの振れ幅」みたいなことをやっているケースはある。やらないより遥かによいが、ここで言っているのはそういうことではない。想定の実現可能性のことではない。所謂サイドエフェクトや、風が吹けば桶屋的な関係性の連鎖がもたらす可能性のユニバース(と宇宙の果て的な想定外の発見・出来事)のことだ。やってみればわかるが、サイドエフェクトは具体的なアクションやイベントを考えれば考えるほどどんどん広がり、それこそ想定外だった可能性に気づいていくことだろう。そして、事業創造とはこれら可能性のオプションの創造、起こし得る権利の創造、と考えるべき行為なのだ。 事業創造において常識的考え方で「これをやればこれくらいのリターンが期待できる」と算段しそれが十分魅力的なとき、十中八九はその見通しは誤っている。だから、さっき①②③どれも間違いと言ったが、こういう起案がされたとき、③の「よくわからないから様子見」という態度は皮肉にも実は合理的だとも言えるわけだ。念の為捕捉しておくと、スモールビジネスを立ち上げるのであれば、この限りではない。スモールで十分なら色々やりようはある。例えば特定のユーザーを想定し、そのユーザーを徹底的に満足させる商品やサービスを作れば、似たようなユーザー層には確実に波及し受容されていく。だがまぁそれ以上でもそれ以下でもない。 可能性の連鎖は今起こるわけではないし今の投資だけで起こせるものでもない。どこかで大きな分岐がある。だが可能性が低くても起こり得る・起こし得る未来。それがオプションである。そして事業創造の価値は殆どこのオプションの価値に依存する。オプション価値の小さい事業は控えめに言って魅力は高くない。また、ほぼ同義なのだが、事業創造において確度の高い未来の価値は小さい。さっきの繰り返しになるが、逆に言えばこれを大きいと見積もっているならその見立ては殆ど誤りだろうということだ。直感的に了解するなら本当に確度が高いのなら皆が同じところを狙うから価値は毀損される、と考えてみればよいだろう。 可能性連鎖のオプションをどう考案しどう評価するかとなると少々テクニカルな習熟を要する。評価についてはまだ限界もある。また、もう一つの可能性である想定外をどう「想定」するかも、可能性連鎖の想定を前提とするのでここでの説明には収まらない。だが、これだけは押さえておくと良い。オプション=権利を買う・押さえるという考えがないと、ロクな新規事業投資は行えない。オプションを買う気がないならはじめから新規事業など考えないほうがよいとさえ言える。思うに日米のここ20年の決定的な差はここにあるんじゃなかろうか。先ずは定性でも良いから可能性の連鎖を描ききってみるとよい。事業構想が当初想定とまるで違うものへと変貌することだろう。変貌しない事業案はボツにするのが懸命だ。とまで言うと言い過ぎか。でもそれくらいでないと大企業なんて変わらないですからね。 (文責:金光 隆志)
ムーンショットとナラティブと
ムーンショットプロジェクト。ナラティブアプローチ。どっちも言っている自分がちょっと恥ずかしくなるジャーゴン(今やバズワードか)だが、ちょっと考察するきっかけがあり、得るものがあったので簡単に書き記しておきたい。 イノベーション方法論の文脈で語られるムーンショットとは、通常の努力・技術・発想・・ではとても実現できそうにない野心的なプロジェクト、と言った感じか。 さて、ムーンショットをこのように定義したとき、イノベーションに繋がる目標設定のありかたとの関連・幾ばくかの真実がそこに見て取れそうである。 目標設定はイノベーションのドライバーの一つ(全部ではないのはもとより、常にということでもないのだが)になる。ではイノベーションをドライブしてくれる目標の要件はなにか。 達成困難な大胆な目標、というのは殆ど同義反復なので、要件というより前提であるとして。 先ず、自分(達)が夢中・熱中するものであることが必要条件。言うまでもないことのようだが殆どのプロジェクトあるいは殆どの人がここで落第となる。繰り返すが、目標だけがイノベーションのドライバーではないのだから、熱中出来ないとイノベーションのチャンスがない、とまではいわない。だが取り組むことが苦しくても快感であり、ときに寝食を忘れるほど熱中して取り組めるからこそ、隘路を乗り越える気概もチャンスも運も生まれる。と、私が言っても説得力が無いかもしれないからジョブズを引用しておこう。ジョブズの方が強烈だ。曰く「情熱は大きなことをやり遂げるための唯一の方法」であり、「成功と失敗の分かれ目は諦めるか否かだけ」だと。うん、ジョブズが言うとバッサリ言ってても深い感じがする。 また、経験のある人にはわかるだろうが、夢中はある種のフロー状態・トランス状態を生む。思考と感覚が静かにそして鋭敏になっていく。いまここの経験や意識が鮮明になり、一見関係のない過去の記憶や経験が殆ど無意識に呼び出され結び付けられていく。と、これも私が言っても説得力が無いかもしれないが発達心理学や認知科学でも実証研究は進んでいる。創造のプロセスと夢中には強い相関があることがわかっている。 次に、周囲に人が集まるものであることが十分条件。今や大きなイノベーションは一人や一社で実現できることは殆どない。課題も求められる解決策も20世紀と比べて格段に複雑さを増している。多くの人のプロアクティブな参画・協力が不可欠となる。では人が集まる条件とは。「賛同される」「意義を感じる」「好奇心がそそられる」などである。「利得を感じる」のはもちろんあったほうがよいが、それだけ、あるいはそれが最初にくるのではだめ。金の切れ目が縁の切れ目になるのがオチ。隘路に直面した途端に雲散霧消するだろう。 ここでムーンショットのオリジナル、文字通りのアポロ計画について見てみよう。為政者にとっては、宇宙開発競争による対ソ軍事戦略優位の危機、という抜き差しならない賛同の契機があった。一級の科学者やエンジニアにとっては、科学の進歩・人類の進歩・人類初へのチャレンジ、という生涯の中でも滅多に得がたい挑戦テーマであった。また、関与するスタッフにとっては意義ある取組みへの参画の誇り、民衆にとっては人間が月に行くというSFのような現実のロマンを掻き立てられるものであっただろう。なおアポロ計画の為政者を経営陣、科学者をイノベーター、スタッフを関係各部や協力企業、民衆を生活者・ユーザーと置き換えて考えてみよう。企業のプロジェクトのメタファとなるだろう。アポロ計画は周囲にプロアクティブに人が集まる条件を満たしていたのがわかる。と同時に、対象となる人によって、その意味・意義が少しずつ違うことに気づく。ここにヒントがある。目標が壮大というだけでは人は集まらない。[有人で月面着陸」という目標は大胆かもしれないがそれだけで多くの人が成功に向けて行動を起こすことはない。なぜいまなのか、誰にとってどんな意味・意義があるのか。云々。それぞれの立場の人にとってのコンテクスト形成と意図の練り上げ・昇華、それをまとめ上げる大きな物語があることが重要である。いまどきことばで言えばナラティブということだろう。因みに所謂問題解決力の発揮にもコンテクストや物語が大きく影響することが認知科学の簡単な実証研究で明らかになっている。イノベーションのドライブにも大いに関係するであろう。 ムーンショットとナラティブと。巷の「なんちゃってムーンショット」や「ナラティブなんちゃら」などを見るにつけ酷いもんだと半ばうんざりしていたが、少し掘り下げ補助線を引いて本質を考えてみると案外意味のあるイノベーション方法議論が出来るものだと見直した。イノベーションに繋がる目標とはどのようなものか、目標を実効性あるものにするには何がカギか。テーマが新規事業か既存事業か、個別事業か企業全体か、さらに言えば事業か組織か、などによらず、大きな示唆がここにある。 (文責:金光 隆志)
創造性とコンテクスト
すべてはコンテクストである。とひとまず言ってみよう。 実際どんなモノもコトも、時間的空間的コンテクスト無しには何ら意味を持たない。逆にコンテクスト次第でモノやコトはいかようにでも物事として意味を帯びるだろう。コンテクストと言うとわかりにくいかもしれないが、要はどんなモノもコトもそれ自体には意味はなく、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて正負様々な意味を帯びる、ということだ。 あたりまえ?そう、当たり前です。当たり前なんだけど、ここに「クリエイティブ」の全てのヒントがあるとしたら? その点を了解するために、クリエイティブとはなにかをちょっと考えてみよう。 あるモノやコトを見たとき、それがクリエイティブかどうかはどう見分けられるか。 革新的かどうか?じゃあ革新的ってどう判断する?ということで答えになってない。 今までにないものかどうか?ちょっとはマシな答えだけど、じゃあ例えばそのへんにある紙をグシャっと適当に丸めたら今までに無い形なはずだけどこれはクリエイティブ?いやそれ意味ないじゃん、という声が聞こえてきそうですが、そう。「意味」が無いと意味ありません。笑。では意味はどう生まれるか。これはさっき述べたとおり、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて意味が生じるわけです。どうでしょう。あるモノやコトがクリエイティブかどうかはコンテクストと決定的に関係がありそうですよね。でもまだちょっと抽象的でピンとこないかもしれない。そこでもう少し具体的な補助線を引いてみていきましょう。 補助線その1。 あなたは和室のエアコンに違和感を感じたことは無いだろうか。 畳、襖、障子、床の間、欄間、長押、あるいは掛け軸や陶器、茶具などの調度品、障子から漏れ来る薄明かりの織りなす陰影・・質素で侘びた空間、時間の経過による傷み・寂れ、それらこそが日本的な枯れや幽玄の美を構成している。で、そこに近代的で機能優先的で、どうだと言わんばかりに存在感を主張するエアコン本体、不細工な配管シールド。合わない。「真」「草」「行」などいずれのスタイルにおいても、絶望的に合わない。もしも違和感を感じないとしたら、モダン化した和室を見ているのか、あるいは見慣れ過ぎて当たり前の風景として見逃しているかでしょう。ということでどうでしょう。コンテクストを見ることで今までに無いエアコンを考えるヒント、見えてきそうではないですか?これが所謂アンメットニーズとか無意識の妥協の発見、ってやつの源泉・本質です。 補助線その2。 マルセル・デュシャンの「泉」はご存知だろうか。 磁器製の小便器に署名をしたもの、それが「泉」というアート作品です。ところで今さりげなくアート作品と言いましたが、果たして何がある作品(モノ)をアートたらしめるのだろうか。以前「イノベーションとアート」という当コラムの論考でアートとは何かの試論・素描はしましたが、ここでは違う観点で、人々にアートだと認められるとはどういうことか、を見てみると、美術館・ギャラリー・コレクション・キュレーション・オークション・富裕層。これらの連関がシステムとしてアートを構成しているのであり、システムに組み込まれたものがアートとなるわけです。システムをコンテクストと置き換えてみよう。「泉」はこの「隠された」事実、アート業界という欺瞞(は言い過ぎか)のコンテクスト、に2重の揺さぶりをかけています。第一に、このコンテクストに組み込まれ・飾られたものがアートであるという事実に「小便器の展示」という異化作用によって気付かせる・明るみに出す(現前化)ことで。そして第二に、実はこの作品は、デュシャン自身が委員長を務める展示会の実行委員会から出品を断られているのだが、それに対し、委員長辞任で不服を表明することで、既存の価値を揺さぶる革命こそがアートではないのか(異化)、だがかといってでは既存の価値を逸脱すれば何でもアートなのか・その線引は・・という決定不能性を明るみにだすことで。 長くなりましたが、まぁ、あるものをあるものたらしめているのはコンテクストであって、そのコンテクストは往々にして暗黙化しているが実は恣意的なものなのであって、従ってオルタナティブの可能性が常にあること。これが所謂常識や無意識のバイアスへの気付き、ってやつの源泉・本質ですね。 補助線その3。 あなたは子供のらくがきがプリントされた、他に何の変哲もない白いTシャツを売る自信はあるだろうか。まぁ何だって売れなくはないだろうが、そういう話ではありません。 例えば。 この子供のらくがきは実は、アフリカの難民や超貧困層の子どもたちの手によるもの。域内食糧難の大きな要因の一つは先進国への牧畜用食料輸出であること、限られた優良な耕作地や地下資源鉱脈は北側諸国・企業に専有され、原住民は疎外されていること。即ち、南の貧困はリアルに北の贅沢とリンクしていること。そしてそのような経済問題の隠蔽を告発し、介入すべく有志のアーティストが立ち上がり、アフリカ農園労働者の美術制作を支援するアートサークルプロジェクトが立ち上がっていること。その一環で、子どもたちにも絵画の機会を与え、歓びを生み出していること。そしてこのT-シャツは、当プロジェクトとのコラボレーションで生み出されていること。云々。 こうしたコンテクストがあると、この商品の意味、この商品を買う意味、着る意味、語る意味、などが大きく変容してくるでしょう。これは本質的には価値の創造なのだが、まぁ今どきの言い方でいえば、これがエモいストーリーってやつになるでしょうか。 補助線その1は「コンテクストと調和」、補助線その2は「コンテクストの前景化・からの異化」、補助線その3は「コンテクストの創造」です。補助線1と2は「既存コンテクストの理解」を前提とした言わばコインの裏表のような関係であることを付言しておきましょう。クリエイティブとはこのどれかを達成しているものです。 クリエイティブの秘訣。それはコンテクスト(モノ・コトの関係の網)への眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造、というわけです。 (文責:金光 隆志)
データサイエンスのオルタナティブ未来
ビジネスは今も昔も、平均(マス)を狙うか細分化(差別化)するか、その選択であった。 経営学では、それぞれの成立条件、事業特性・優位性との関係、エコノミクス、具体的方法論などが研究され、洗練されてきた。 ところで、大げさになるが、実はこれは人間のモノの考え方、そのものである。 平均とは、全体・マクロ・統合・共通・普遍・抽象・・・の系。 細分化とは、部分・ミクロ・分解・固有・個別・具体・・の系。 ちなみに思考力のカラクリは、この2極それぞれをゴリゴリ突き詰めつつ2極をグルグルと回すこと。これに横滑りが加われば自在。思考力の話はまたの機会に譲ろう。 さて、平均と細分化はいまもって、殆どのビジネスで相当にうまくいく。 もう少し丁寧に言って、全体と部分を吟味し、分布を考慮に入れ、更には部分と全体の影響関係をシステム的に考察すれば、ビジネス検討としてはほぼ完璧だろう。 だが、平均にせよ細分化にせよ、それが人間のモノの考え方そのものである以上、人間認識の限界の内にある。 例えば。 あなたはインドア派かアウトドア派か。内向的か外向的か。陽気か陰気か。文系か理系か。邦画派か洋画派か。モダン派か古典派か。TV派かネット派か。犬派かネコ派か。音楽はロックか、ポップスか、R&Bか、ジャズか・・。 詰まるところあなたのペルソナは何派か。云々。 殆どの事項について、イチゼロではないであろう。その日の気分、コンテクストなどによっても変わるだろう。犬派だがブルドッグよりネコのベンガルの方が好きかもしれない。ガリガリくんが好きだけど今日はハーゲンダッツの気分、ロックが好きだけどジャズも聞くよ、など。 つまりどのように、あなたのペルソナを「ざっくり大雑把に」捉えようが「細かく分けて」捉えようが、単純化あるいは固定化して捉える以上は、それはあなたではない。 あなたとは、生物学的にも心理学的にも、Chaoticな矛盾や対立を平然と内部や行動諸局面に抱えながら、不均衡の振動やベクトル相殺によって動的に均衡した複雑系、なのである。 動的均衡複雑系のあなたをそのまま捉えることは残念ながら無理。しかし、単純ではないあなたに動的に肉薄していく道標はある。その道の一つがビッグデータ・機械学習・最適化・・・、即ち現代データサイエンス。 現代データサイエンスは驚くほどの粒度・精度であなたを識別する。恐らくあなた自身よりもあなたを詳しく描写できる。これだけでもビジネスに、マーケティングに革命を起こすに十分だ。 そしてデータサイエンスにはもっと先があるだろう。精度の先。 と言っても今の私の力量では上手く語れない。だがイメージはある。生成の論理、とでも名指しておこう。ダイナミックプライシングやThompson Samplingアルゴリズムによる動的最適化のような方向性に感じる可能性だ。これらは勿論、予測や最適化の論理の中にある。であるならば、精度の追求は論理的には過剰適合に帰着する。乱暴にだがとりあえず、過剰適合とはランダムや誤差にまで適合して説明してしまうこと、と解しておこう。予測や最適化論理の内に留まるなら、これは要修正ということになる。だがここで、動的予測に留まらず動的生成の論理を導入したらどうなるだろう。実際ランダムや誤差とは、まさしく生成のリアルなのではなかったか。さらに推し進め、意図的にランダムを取り入れて、人とダイナミックに未来を形成していくマシンを想像してみるとどうだろう。実際ランダムはまさしく人の特性でさえなかったか。そして更にここでネットワークサイエンスを導入したら。アイデアの流れ・社会現象の生成に限りなく近づいていくのではないだろうか。 言葉にすると随分抽象的になってしまったが、要するに、予測・最適化論理の延長では、どこまでいってもデータサイエンスからピコ太郎(古くてすみません)は生まれない。でも生成の論理を導入したら、少なくとも生まれる可能性が生まれ、しかも人間だけの世界よりほんのちょっとであっても生まれる確率が高まる、のかもしれない。 うん、ちょっとまだSF。だが、荒唐無稽ではない近未来の可能性ではないだろうか。 (文責:金光 隆志)
生態系の戦略
イノベーションの大きな、そして見落としがちな落とし穴として、既存エコシステムとの思いがけないミスマッチ、というのがある。 ロン・アドナーの「ワイドレンズ」で見事に実証的に論じられている。10年近く前の名著で、今更そこに付け加える論もないが、概略はこうだ。技術的にも顧客への提供価値においても画期的な新ソリューションが出来たとする。画期的な新ソリューションは通常1社では実現できず、共同開発はじめ様々なパートナーとの協力関係が必要となる。その複雑さや困難さは、模倣障壁ともなるだろう。一見いいこと尽くめだ。だがまさに、この複雑な協力関係の必要性こそに、往々にして見えない落とし穴が潜んでいる。どういうことか。画期的な新ソリューションにおける協力関係の必要性は、産業システム全体に及ぶ。作る人、はもとより、部材を供給する人、流通する人、販売する人、使う人、修理する人・・・。ちょっとした適応の必要性まで含めれば、最上流から最下流(顧客)まで全てに何某かの適応を求める。ところが。新ソリューションの開発者は、その実現に向けては最大限の注意と粘りと集中力でもって、様々な人と協力する。昨今で言えばオープンイノベーションのような動きだ。そして、首尾よく開発できて、顧客の難題を解決できるのではれば、他の多少の適応など大きな問題ではない、と考えてしまう。ここに想像力の限界がある。想像力の限界は2つだ。第一に、サプライチェーン上離れたところの、中でも現場サイドでの適応の難度や抵抗にまで、想像が及ばないケースが一つ。第二にもっとやっかいなのは、サプライチェーン各段階に少しずつ適応調整の負荷がかかると、それは掛け算となって、顧客に届くまでにはかなり大きなハードルになる、ということ。真に画期的なソリューションであっても全く普及が進まないということが起こり得る。ミシュランのPAXシステム、ファイザーはじめ大手製薬会社がこぞって開発した吸入インスリン、デジタル映画の導入初期など、「ワイドレンズ」では目をみはる例が様々挙げられている。 逆も真である。遠く離れたところを含め、サプライチェーンで直接・間接に関与する各プレーヤーが少しずつでも協力し応援してくれたとき、顧客に届くまでに大きな推進パワーとなっていく。スマートフォンがなぜかくも早く世界に普及したのか、今となっては当たり前に思えるだろうが、ノキアのつまずきを振り返れば、それが紙一重であったことがわかる。 ここに、提供価値設計における視点の革新ポイントがある。 顧客の定義を変えてみよう。サプライチェーンに関わる全ての人達が顧客である。全ての人達それぞれに少しずつでも協力を引き出すベネフィットを考案出来れば、顧客に届くまでに大きな力となる。 ビジネスの始点終点の定義を変えてみよう。よもや売っておしまい、とは思っていないだろうが、アップサイクルまで視野に入れて考えたことのある人はほぼ皆無だろう。周辺の商品やサービス、メディア等まで含めて終点のないビジネスサイクルを構想できれば、生態系の繁栄ポテンシャルがぐっと上がる。 ワイドレンズのコンセプトをささやかながらでも発展させ得る点がるとすればここだろう。 (文責:金光隆志)
習慣化のパラドクス
商品やサービスの利用をいかに継続・習慣化するか。昔からある議論だが、DX議論・サブスクモデルの流行、脳神経科学の発達などを背景に、イノベーション界隈のトピックとして再燃しているようだ。 習慣と言えば、商品購入などとは全く別の、啓蒙的な文脈で、「○個の習慣」やら「習慣術」やら「天才の習慣」やら、要は「善い習慣とは何か」を知りそれを「いかに習慣化するか」といった類のHow to本も最近やたら見かける。これはちょっとアイロニカルで面白い現象。考えてみよう。あなたの日々の生活の何割くらいが習慣でできているだろうか?殆どの人が意識しているか無意識かはともかく7、8割は習慣化した行動で日々を生きているはずだ。ことほど左様に、習慣とは根深く、ちょっとやそっとでは変わらんということだろう。啓蒙書の類は、それをやめて「よりよい習慣」に変えよう、と言っているに違いない。だがそれが出来ないから皆悩んでいる、悩んでいるから啓蒙書にすがる、でも出来なくてまた悩む、その繰り返しが、この啓蒙書の類の隆盛を支えているのではないだろうか。私なら、新たな「善い習慣化」などを勧めるより、徹底的に気が散るような「注意散漫ライフのススメ」をしたいところだが、そんな本を出したところで売れないだろうからやめておく。しかし、日常習慣の惰性を打ち破り、あなたを未知の世界との連結・切断を繰り返す「スルドイ」人に変えてくれるのは、注意散漫力をおいて他にない、と大見得を切っておこう。 脱線してしまった。商品・サービス購入・利用の習慣化に話を戻そう。 習慣化にはパラドクスがある。この点をよく了解し、商品・サービス政策を吟味することが習慣を形成する鍵であろう。どういうことか。 全ての習慣には習慣に先立つ「始まり」がある。ではどうやって始まるのか。もちろん興味関心、好奇心、欲望、などが「始まり」を駆動するわけだ。より今風に言えば、予期せぬもの・新しいものを期待する脳の報酬系が作用するのだが、ここに第一のちょっとしたパラドクスがある。端から関心のないことには脳は自動的・能動的にはピクリとも反応してくれないのだ。もともと関心があることにしか能動的には反応しない。しかし、関心があることはある程度知っている。その予測どおりだと思うと好奇心や欲望は駆動されない。つまり。もともと関心があるが、自分が知っていることと違う・あるいはそれ以上の何かがあるのでは、と思ってはじめて、脳は強くそれを知りたいと思うわけだ。ややこしいが押さえておこう。 さて、知っている以上の何か、を期待したとき脳は欲望し能動的に反応する。しかし一方で、脳はすぐさま、それ以上ってこれくらいかな、という期待水準も形成する。そして、実際の経験がこの予測を超えた時に、報酬系ニューロンが再び発火するのだ。脳は報酬系の活性化を受けて、それをまた欲望する。ここで、もしも十分活性化が起こらなければ、次はない。要はトライアルして終わり。つまり。関心があることで今まで以上の何か、それが最初の購買を駆動し、その何かの事前期待値を更に超える利用経験でリピート。ややこしいが押さえておこう。 さて、ここからが第2のパラドクスである。報酬系活性を受けて、2度3度と利用を重ねたとしよう。期待値はどうなっていくだろう?当然実際と予測の差は無くなっていく。しからばもう報酬系は活性化されないのでは?そのとおり。活性化されなければ、脳の報酬を求めて他の商品を試すのでは?そのとおり。関心が続いているのであれば。そう。ここにパラドクスがある。習慣化の始まりには「高関与」の期待形成が鍵となる。しかし、習慣化するには、「高関与」から「低関与」への移行が必要となるのだ。つまり関心が薄れること。合わせて、他に色々な商品が出ても「まあこの程度だろうな」という経験に先立つ予定調和的期待(のなさ)も形成されている必要がある。盲目な恋愛のごとく「高関与」で他には目もくれずLoveな状態、というのが暫く続くことはあろう。永遠に続く愛もあるだろう。だが大抵は盲目Loveからは落ち着いてくる。その時、恋愛には「高関与」だが今の相手にだけ飽きたら?当然浮気の虫がうずくだろう。つまりカテゴリー自体への「高関与」状態が続いているうちは「習慣化」は難しいのである。 ややこしいだろうか。だが、インプリケーションは単純である。 その①「高関与」のうちは、「期待値を超える期待」を形成し続けることが肝要である。 製品にちょっとした変化を加える、サービスをちょっと変える、などなど。これを怠れば瞬く間にあなたの製品は飽きられるだろう。だが、 その②できるだけ早くカテゴリー「低関与」へと移行させ、その前にシェアで決着をつけておけば習慣化の勝者となれる。「期待値を超える期待」ゲームは徐々に収束・終焉に向かう。競合製品も含めて「まあこんなもの」という「期待値どおりの期待」へと変わっていく。その潮目に目を光らせ、徐々にマーケット刺激を減らしていく。最早「期待値を超える期待」は競合にも付け入るすきを与えるから、邪魔になる。というよりも「低関与」化した市場では、少々目先を変えたクリエイティブ程度では市場は動かないと思った方がよいだろう。「低関与」を再び「高関与」にするのは、王道の大きなアンメットを解消する技術イノベーションまたは以前に論じた異質イノベーション、くらいのインパクトが求められるであろう。 「低関与」化は習慣化の必要条件、というより、「低関与」=「習慣化」である。 なお、「低関与」化にはリスクもある。低関与→どうでもいい→大差ないから何でもいい、の契機を孕んでいることだ。要するにコモディティ化。ブランド選考よりも買いやすさや価格選考などが支配的になっていく。これに備えてどうスイッチ障壁を築いておくか、が論点となり得るが、習慣化とは既に別の論点である。 (文責:金光隆志)
オルタナティブ未来構想
ここ1,2年、未来構想について見聞きすることが増えてきた。 個人的には6,7年前ごろからこの種のテーマで検討依頼を受けることが増えていたが、当時は、10年・20年先を議論する日本企業は稀な存在だった。 今や、未来を創造する、世界を変えるといった議論はごく普通にみる風景となった。未来を構想する企業が日本に増えることは喜ばしいことだ。 ところで、最近の未来構想に関する論調で気になることがある。未来構想においては主観こそが大事・重要という議論である。 「起こるであろう未来ではなく、起こし得る未来を構想せよ」「確定した未来などない、人間の意思・目的意識が世界を形成していく、未来は創られていくものだ」云々。 人間中心主義(というのも大げさだと思うが)、バックキャスティング、想定外未来、フューチャーセッション・・・などがこの手の議論の方法論的ヴァリアントだ。 論旨に異存はない。未来「構想」というからには、人が構想するのは当然である。 だが、「現状制約は一旦脇に置いて、ありたい未来・創りたい未来を議論し考えましょう」といった、未来構想ならぬ未来妄想。「自分主語で共感的な物語を紡ごう」「その物語を共感を通じて皆に広げていこう」といった共同主観的ナラティブなんとか。云々。こうなると最悪である。 断言しておこう。無駄骨である。 頭の体操的・発想法的研修ならいざ知らず、実践においてこんな議論から、覚悟ある未来への行動が生まれることはない。 なぜか。 現実のラディカルな理解なしに、クリティカルな問題意識は生まれない。 クリティカルな問題意識無しに、未来への覚悟・投機/投企は生まれない。 覚悟・投機/投企無しに、構想したナイーブな未来が実現することはない. ではどうするか。 本稿で詳述は出来ないが一つの方法は、現実をキュビズムのような手つきで解することだ。 現実の中にある、様々な兆候。微かな変調。異常の痕跡。それらをエクストリームに未来に向かって拡大・延長・展開してみること。するとどんな未来像が立ち現れるか。極端で非現実的なSF未来が浮かびあがるだろう。それでよい。その未来像から再び現在を振り返ったとき、クリティカルな問題意識が刺激されオルタナティブへの思考が発動する。 少しテクニカルな話をすると、エクストリームに拡大・延長・展開するとき、剥き出しの人間の欲望・社会の欲望を補助線にするとよい。そうして描かれた未来像は、非現実的であっても妙に生々しくリアリティがあるはずだ。 そして考える。 もし未来がこうなるのだとしたら、我々はどうなるのだろうか。 この未来において、我々にはどんな可能性が開かれるだろうか。 逆に、未来がこうならないためには、何が必要だろうか。 我々はどんなオルタナティブ未来を望むか。・・ この作業を繰り返してみる。繰り返した数だけオルタナティブ未来が浮かび上がる。 こうして考えたことがそのまま未来構想になるわけではない。 だが、そこから考えを地におろして、再び現実の諸条件、人々の欲望、自分達の欲望と照らして、オルタナティブ未来をよりリアルにイメージ出来るものへと慎重に画像修正する。 退屈な現状の延長でも、空疎なアイデアでもない、リアルでクールな未来構想へと近づいていることだろう。 未来構想が主観か客観かはどうでもいい。どっちでもいい。 大事なのはリアルのラディカルな理解からクリティカルな問題意識を駆動すること。 大袈裟に言えば、現実とは存在論的にも精神分析的にも、汲み尽くすことのできない生成可能性の潜在だ。 量子力学的な比喩も援用してパラグラフを続けよう。すべての未来がいまここにある。それらは確率論的に潜在している。次の瞬間確率1である状態へとあらゆる可能性の未来が集約される。と同時に再び可能性の潜在体として現前する。この現実≒確率論的未来潜在体に対して慣性の力は強力だが、その慣性に一瞬抗い僅かな変異をもたらす程度のエネルギーなら都合はつく。但し慣性圏を抜け出すには変異エネルギーを継続して供給しないといけない。その原理・原動力は欲望ポテンシャルである。 リアルこそ、優れてスリリングなSF小説ネタの宝庫であることを付言しておこう。 (文責:金光隆志)
専門性と創造性と教養と
専門性は創造性発揮の障害になる、と語られる。専門を突き詰めるほど視野狭窄に陥る、専門知識がバイアスになる、等など。 この傾向は半ば認めねばなるまい。専門性とは、ある認識のスキーマ(しかも多くの場合制度化されたスキーマ)において蓄積された知識と技術に精通・習熟し、それを縦横無尽・半ば無意識に操作できる状態を指す。つまりは無意識に、ある認識のスキーマで物事が見えてしまう状態になるわけだ。だから、そのスキーマの外でモノを見る・考えることに困難を伴う。かなり意識してスキーマの外で考えようと思っても、無意識の専門思考の方が勝って働く。だって無意識に働いてしまうのだから。 そこで昨今は、広い教養が必要、欧米では専門課程に入るまでに西洋的教養を徹底的に叩きこまれているが日本にはそれが欠けている、創造性の時代には専門性だけではなく広い教養が必要なのに、となっているわけだ。 教養が横断的知性の源になり得る、というのは正しいだろう。色々なことをつまみ食いしておくと、ある時ある事案で思いがけないフュージョンが起こらないとも限らない。 けれども、クイズ王的つまみ食いや、最近巷にあふれている「社会人の為の〇〇」みたいな本ばかり読んで幅広い教養を身に着けよう、なんて戦略は最悪。恐らくは茶飲み話にすら使い物にならないだろうな、と思う。 教養を「使い物になるか否か」という文脈で語るのも憚られはするけれど、使い物になる教養を身に着けようと思ったら、相応の訓練、その分野での認識のスキーマを最低限度は獲得し、多少の専門書も読める、くらいじゃないと。だって問題は認識のスキーマなのだから。色んな認識のスキーマでもって、一つのことがらを色んな切り口・眼鏡で見えるから創造性に繋がるわけで、「社会人の為の○○」読んだところでそんなもの身につきません。 よってもって「幅広い教養」を武器に創造性を発揮する、なんて戦略は、殆どの人に無理な相談なのです。 幅広い教養を否定しているのではない、むしろ教養を広め・深めていくことはとても楽しいことだし、人生を豊かにも、逞しくもしてくれる。だから若者たちには雑食でよいから色んなことに首を突っ込むことを推奨したい。先ずは入門からなんてチマチマせず、最初からプロ級の仕事や技にも触れていって欲しい。でもそれは奥深さの射程を測るため。一朝一夕に新たなスキーマを獲得できることはない。教養は長い年月をかけて少しづつ育んでいくもの。何かの手段としてではなく、それ自体を目的(と言って固すぎるなら趣味)として楽しみながら精神を滋養していくもの。さすればいつの日か、知のフュージョンが起こせるかもしれない。起こせないかもしれない。教養とはそういうものです。 では差し迫った今、創造性はどうやって発揮すればいいのか? 実は専門性にこそ、そのヒントがあるとしたら? 専門性とは、ある認識のスキーマへの習熟、無意識に働き得る認識スキーマのこと。分かり易くこれを色眼鏡と呼んでおこう。さて、仮にある分野でものすごく見通しが良くなる色眼鏡を手に入れているとしよう。それは、その分野の中だけでモノを考えるときにはバイアスのもとにもなり得るだろう。しかし。 その色眼鏡をかけて、他の分野のことを見て見たらどうなるだろうか?当然ながら他分野を見るための色眼鏡ではないから、他分野に最適な色眼鏡とは違った景色が見えるはず。 ということは、そうです。これってまさに創造的なモノの見方の出発点ではなかったか? 以前コラムで異質ソリューションの威力というのを紹介した。実はこの異質ソリューションに気づく・発見できる力の源泉・メカニズムの一つが、ある分野の専門性(色眼鏡)でもって他分野を見た時の思いがけない気づき、なのです。 創造性の勝利の戦略は明らかです。専門性を磨くこと。一つは仕事で。そして出来れば何か一つ、全然違う分野で趣味としてセミプロくらいの専門的教養、この二つで十分。 そして、その専門の認識スキーマ・色眼鏡・無意識の思考でもって、異分野を見てみる。その異分野でのモノの見方や技術の使い方からすれば非常識なことが見えるはず。非常識=不正解とは限らない。でもそれが正しいかどうかはどうでもいい。あなたに見えた異分野での非常識は、あなたの分野の色眼鏡で見えたモノなのだから、あなたの分野に適合・応用できる可能性は十分あるのです。 ここが重要なTake away。中途半端な「幅広い教養」なんぞであなたの分野内部を見たところで、多分何も新しいモノは見えない・気づきがない。一方、自身の深い専門性で他分野を見たときに、その他分野から自分野に応用できるような、新たなパターン認識が生まれ得る。これは優れて洗練されたアナロジー思考の一種だと言えるだろうが、これを話し出すとまた長くなるので、本コラムはこの辺にて。 (文責:金光隆志)
イノベーションとアート
イノベーションとアートは近親関係にある。 巷では、合理や論理では出てこない解、直観的・感性的な解を求めてアート的アプローチ、云々と言われているようだが、恐らく言っている当人が何のことだかわからず言っている。 消費について、論理ではなく快楽論者である私は、感性の判断を信じるものではあるが、この手の「アート」と「サイエンス」を対立に置いて論じる議論には与しない。 さておき、アートは悉くイノベーションである。 この点を了解するために、アートとは何かを簡単に考察しておこう。 乱暴に言って、アートとは、「日常」「普通」「常識」へのチャレンジ・超克作業である。 例えば。 日常何気なく見過ごしているモノや風景を「異化」「現前化」して新たな意味や今まで感じてこなかった感覚を呼び覚ます。マルセル・デュシャンの「toilet」、Chim↑Pomの渋谷の大ネズミで作ったピカチュウ、谷川俊太郎のいるかの詩、云々。ファインアートにおける「異化」ではシリアスなメッセージ性を持ったものが多いが、それが脱聖化されてポップになると、奇譚倶楽部の「コップのフチ子」「定礎」のような商品、あるいはピコ太郎の「パイナポーアポーペン」になる。 例えば、 作者や作品の唯一性、アウラ、それらを制度的に保証する評論、文壇、美術館といったものの虚構性を暴き出すアプロプリエーションやシユミレーショニズム。これらは言わば非日常や特別ということを「異化」しつつ、逆説的に現代の日常を「現前化」している。ある種の広告表現やハウスミュージックなど、サンプリングやリミックス手法を駆使して作られた作品の、全く空疎だが無意識のうちにハマるドラッグ性を思い起こせばよい。 例えば。 規範や常識・良識と言われているものを「侵犯」「逸脱」し、抑圧されたエロス・タナトスの欲望を垣間見せる作品。マルキド・サド、クロソウスキー、XX等々。それが脱聖化されポップになれば、アヴァンギャルドなアンダーグラウンドカルチャーになる。言うまでもなく消費シーンに現れるアヴァンギャルドは訓化されたアヴァンギャルドだ。 例えば。 「日常」や「普通」を端的に超克した美・快。イデアや神の領域を目指すもの。この系統は制度化・時代の制約を免れがたくはあるが、王立アカデミー系の芸術群、政治性を排して端的に色彩や形態の美を追求したアメリカ版モダニズム、パスティーシュを駆使したトランスアバンギャルド等々。私たちの審美的感覚はこれらのコードを介して内面化されているからして、美意識に訴える商品デザインはこれらのパスティーシュ、パスティーシュの連鎖として現れる。 さて。これらは悉く、「日常」「普通」を打ち破るもの。すなわちイノベーションである。 アートをイノベーションに応用するとすれば、このパースペクティブにおいてであろう。 そしてこれは、半ば方法論化が可能、つまり強力なイノベーション手法になり得るのだ。 方法論化されたアートなどアートたり得ない?そりゃそうです。ビジネスの話なので。 (文責:金光隆志)
フルクサスの戦略
ワンピース、自分が何かくわえることで、少しでも世界を変えることが出来たら。 まかり間違って、自分が商品を生み出すことが出来たら。 消費者を巻き込んだモノづくりは一つの潮流といってよい。自分でデザインできる服、といったパターンはプリミティブだがその典型である。あるいは消費者に商品アイデア等を議論してもらう共創プラットフォームの取り組みも2010年代から徐々に広がってきた。 だが消費者が「消費者」という相でモノづくりに参加するのは今に始まったことではない。 今注目すべきは「生活者」の相で、大げさに言えば「市民」の相で、人々がモノやサービスサプライにアクティブに参加し始めたことだろう。コミケ、デザフェス、フリマ、といったP2P市場、ハッカソン、クラウドファンディング、あるいは生活者が参加して初めてサービスが完結・実現するという意味ではSNSもその範例と言えるかもしれない。そしてこの潮流の目下のフロントラインと言えば政府が関与しない仮想通貨/独自通貨を市民が創出し流通させる動きであろう。 消費を最終目的としない、といってもよい。かといって生産者でもない。言わば社会とのコミュニケーション。大仰に構えた社会貢献ではない。かといって利己目的だけでもない。言わば承認欲求とも結びついたお裾分け、ギフト、共有。 これをフルクサスと結びつけるのは曲解が過ぎるだろう。しかし、Authorized Contentsを鑑賞・消費するのではなく、それらにあからさまにNonを突き付けるのでもなく、フラットに、自然に、しなやかに、ゆるやかに、ごく身近な人から地球の裏側の見知らぬ人まで、小さな連帯と離散を繰り返し、財、サービス、文化、アイデアをやり取りして世界に変曲をもたらす。矛盾だらけで問題だらけで穴だらけで不細工だけど広がることを止めない運動体。 企業にとってこれはチャンスか脅威か、といったエレメントで、この状況を見るのは恐らく誤りだろう。少なくとも大きな違和感を覚える。 一つ空想をしてみよう。この運動に本気でコミットする企業。さりとて従来の事業の生産様式をやめるわけではない。両方にコミットする。矛盾は利益率の低下となって現れるかもしれない。その時、資本は集まらなくなるのだろうか。資本の性質は変容しないだろうか。資本は一様か。端的に言って生活者はこの企業にどんな形で参加していくのだろうか。その行きつく先。バッドエンドもハッピーエンドも両方空想できるだろう。だが、例え似非だと罵られようが、ハッピーエンドを空想する程度にはポジティブでありたい。