Top/ トップ
Service / サービス
Feature / 特徴
Knowledge / ナレッジ
Column / コラム
Company / 企業情報

Column
ー コラム

1-6 件 / 6 件中 

ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。

k.社会課題
ALL
a.戦略
b.イノベーション
e.マネジメント
d.マーケティング
c.ビジネスモデル
f.価値
g.欲望
h.メカニズム
i.ヒットサイエンス
l.発想のアート
j.テクノロジー
k.社会課題

1-6 件 / 6 件中 

2021-10-21

地球中心主義って?

最近面白い話を読んだ。 少し前までは人間中心主義がデザイン思考の主流だったが、これからは地球中心で考える思考、地球中心主義が求められるのだとか。 デザイン思考が提唱した人間中心主義の文脈・時代背景と地球中心主義が言っていることとではそもそも話が噛み合っていない・論点がずれていると思うのだが、まぁそれは置いておこう。いや、流布しているデザイン思考ではなく、商品⇒人間⇒地球という様に資本主義批判の文脈でデザイン/アートを捉えるなら、ズレているとまでは言わないが、まぁそれも置いておこう。 地球中心主義って、本気で言っているのだろうか。 もし本気で議論するのであれば、そもそも地球に人間は必要か、というExtremeな議論から始めるべきだろう。私は本気で言っている。どういうことか。 話を単純にするため、一旦動物(自然)と人間の二元論で語る。人間は決定的に動物・自然界=コスモスから逸脱した存在である。自然界ではあらゆる生命の本能が見事に調和し呼応し合い循環している。対して、そもそも人間とは過剰(な欲望)を不可避に抱えた生き物だ。乱暴に言えば本能が狂っている、人為的な秩序(言語やら統治やら文化やら)を導入しないと自然のままでは殺し合い・犯し合い・破壊する生き物ということだ。動物は無為な殺戮や破壊など行わない。そんな本能は彼らの脳にはビルトインされていない。人為的な秩序などに頼らなくても動物は本能のシグナルに導かれて自然の秩序を形成している。人間だけは違う(この際チンパンジーなどの他の霊長類は脇に置く)。人間の過剰な大脳皮質は過剰な(≒自然から逸脱した)欲望を喚起せずにはいられない。これが人間学や文化理論の出発点だったはず。 そんなことはない、いやたとえそうだとしても人間=ホモ・サピエンス(理性の人)には理性が備わっており、理性の力でもって正しいことが選択出来るのだ、などの反論があるかもしれない。この手の啓蒙主義に逆戻りするような議論には肩をすくめるしか無い。啓蒙主義に導かれた「人間的進歩」こそが自然破壊や大量殺戮兵器に帰結した、というのが20世紀最大の学びではなかったか。まぁ簡単に言えば理性なんぞで人間的本性=過剰な欲望を抑えこむことなどできない、のだ。 ならば、人間が地球/自然と調和するには、人間が過剰な欲望を捨てるしかない、のだろうか。しかし、それは即ち、人間が人間をやめることとほぼ同義であるはずだ。つまり、地球中心に考えるなら人間をやめるべき=人間なんていらない、ということだ。実際そうではないのか?この広い宇宙において、人間がいなくたって誰も困らないし気にもしないはずなのだから。もっと言えば、宇宙からみたら地球環境が一つなくなるくらい、どうってことないわけだ。すべての星はいずれ死ぬか超新星爆発を起こして消えるかなんだから。ならば、人間が自然を破壊しようがどうしようが、構わないではないか。それが地球生命進化の帰結ならば。 それだと困る?なんで?誰が? つまりは人間が困る、って話なんじゃないの?つまり。地球中心主義、なんて言いながら、実のところ人間中心に考えてるんじゃないの? 屁理屈に聞こえるだろうか。だが、屁だろうがなんだろうが残念ながらこれが理屈だ。 だからといって環境破壊なんて気にするなとか、反動的なことが言いたいのではない。人間なんて不用だ、などと自分を否定したいわけではない。逆だ。 地球に対して謙虚になる(それは実は上から目線であることに気づくべきだ)前に、人間自身に対して謙虚になるべきなのではないか。人間の原罪を認めることから始めるべきではないか。人間は過剰(≒自然からは逸脱した)な欲望を抱えずにはいられない。これはどうすることもできない人間の前提条件だ。それを抑圧したならば人間は精神の病気になる。そして、この手の議論が行き着くポリコレの大合唱は社会への抑圧となり、社会は病気になる。社会が鬱となるかヒステリーとなるかだ。そうではなく、つまり過剰な欲望を抑圧するのではなく、かといって破滅に向かうのではなくどう開放できるのか。そこに向き合わずして環境云々(や、巡り巡って貧困や差別や)を議論するのは欺瞞にしかならないだろう。環境を考える前に、人間の、人間社会の欲望開放の未来像を考えるべきではないだろうか。無自覚に環境破壊や貧困や差別に組みしてきたと気づいたまではよいが、だからといって自覚的に人間的自然を抑圧するだけでは解決にならない。無自覚に欲望を開放してもうまくいく社会。滑稽だろうか。でも人間はかつて何万年もそうして生きていたのではないのか。おかしくなってきたのは、長く言ってもたかだか2千年、短く見れば数百年のこと。 だからといって今更、自然へ帰れ、など不可能なばかりか人間的自然は狂っているのだから、何の解決にもならない。人間的自然の狂った欲望を秩序で抑え込みつつ戦争や祝祭という装置で周期的に解消してきたのが前近代までなら戦争と市場経済・日常の商品消費で解消してきたのが近代以降。その商品消費を人為で抑圧するのなら、新たに他に過剰欲望解消・抑圧からの開放のルートが必要になる。それが人間というもの。難題だ。 いやでも、環境負荷の高いゴミを出さなくなったらいいことした気がして気持ちいい、そうやって徐々に人間の価値観って変わっていくんじゃないの?そうかも知れない。その程度なら。でもじゃあ、南の貧困のために所得から10%を寄付することに同意できるか?森林再生のために同じく10%を寄付することに同意できるか?先進国の殆どの人は、贅沢できなくなるにせよ生活に困ることはない。でも先ずほとんどの人はできない。もしできるのならもっと世の中は社会主義的になっているはずだ。残念ながらCommonsはそのような理路だけでは実現しない。 答えは見えない。だが、ベタなことを言って締めるのも気恥ずかしいが、人間がVirtualにひきこもる未来像というのは案外悪くないのかもしれない、と思う今日この頃。図らずもコロナ禍が垣間見せた皮肉な事実と可能性。第二次世界大戦以来最もCO2排出量が削減されたらしい。そして遅ればせながら暇つぶしに見てきた「竜とそばかすの姫」。うん、これかも。 (文責 金光 隆志)

2020-04-09

ひとのとき -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(終)

企業はこれから益々、社会的な課題に取り組み、社会的責任を果たす方向へと進んでいく。間違いのないことだろう。 日本では未だESGやSDGsをメセナの延長くらいに認識している企業も多い。だが、欧米企業は遠の昔に事業活動においてESGを意識し、SDGsへの取り組みを強化してきている。ESG格付け機関によるスコアが、ESG銘柄として企業価値を直接・間接に左右するなど、株主/資本にとっても、もはやESGは無視できないどころか、企業がSDGsに積極的に取り組むことが株主のメリットに繋がる重要なアジェンダとなってきている。 SDGsに取り組むことが企業価値にプラスに働くなら、善意でも悪意でもなく、資本はSDGsに取り組むESG銘柄に集まるだろう。尤も、これは自己言及的な構造でもある。欧米の有力機関投資家の多くは国連環境計画の金融イニシアティブPRIに署名している。PRIに署名した金融機関はPRIの基準を満たすために、企業にESGへの取り組みを要請し、ESG取り組みが水準以上の企業に投資をする必要がある。当然ESG銘柄に資金が集まる。株価があがる、まぁからくりはどうでもいい。有力企業にはSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブがある、ということだ。 企業がSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブはもう一つある。これも欧米では顕著だが、Z世代を中心としたエシカル消費・ポリコレコンシューマーの増大である。人や社会や環境に対し責任を果たしている企業の商品を選択する、という、消費行動を通じて、よりよい世界を実現しようというのがエシカル消費。このような考え方をする消費者が増えれば増えるほど、企業はSDGsに取り組むことが必須となっていく。 現段階では、ESGと資本効率(ROE)のバランス・両立、などという議論も未だなされる(日本で顕著)が、本質的ではない。もしエシカル消費が十分広範に浸透すれば、SDGsとROEはより連動性を高めていくことになるだろう。新指標として提唱されているROESG(ROEとESGスコアの合成でバランス・両立を測る)等、ROE(資本)とESG(社会責任)のトレードオフをインプリシットに前提しているような議論は、いずれ終焉するだろう。はっきりいって、世界の先端から見れば既に周回遅れの議論である。 さてここまでは、外からのプレッシャーへの反応で企業が変わっていくというストーリーを語ったが、最後にもうワンピースある。それは、企業自身の内からの変化である。消費者とは誰のことか?言うまでもなくその多くは企業の従業員でもある。消費者・生活者としてエシカル意識のある人間が、会社の従業員という立場ではアンチエシカルに考える・行動する、というのは中々難しい。企業は内からも、エシカルに考える人々(消費者→従業員)によって運営されていくようになる。 ここにきて、重要なことが明らかになったであろう。生活者がエシカルになることと企業がエシカルになることは、ほぼ同時進行なはずなのだ。当たり前だが、企業の性格を決めるのは最終的には人である。とりわけお客様である生活者である。企業は生活者の要求に応えて初めて存在できる。一方で生活者とは企業の従業員でもある。全てが連動していく。 ところで私の見立てでは、いまちょっと面白いというか、おかしなことが起きている。 振り返れば、SDGsにおいて、現在一番意識が先行しているのがESG投資を推進する金融(資本)であり、それに応える形で企業がSDGsに取り組み、一方消費者はと言えば、Z世代を中心にエシカル消費意識が高まりつつあるとはいえ、まだまだエゴが強い、という構造だ。市民のエゴな欲望が強いからこそ、国家もエゴイスティックでナショナリスティックになるのだろう。 まるで逆立ちではないか。社会的行動を積極的に取ろうと思う企業は生活者に社会的行動を啓蒙しなければならない、わけだ。このねじれが、ROEとSDGsのバランス・両立といった議論をあたかも本質に見せてしまう。だが今はそれでよいのではないか。企業と消費者、どちらが先行しようと、いずれ相互にもっと影響し合う関係になっていくだろう。 そしてこれまでの論理で明らかな通り、エシカル消費が広く生活者に浸透した暁には企業は当然エシカルになっており、即ち社会全体がエシカルになっているはずだ。楽観的に過ぎるだろうか。だがここにトレードオフはありえない。エシカルと懐具合のトレードオフに悩むことは起こり得るだろう。あるいは行き過ぎたエシカル/ポリコレが逆に問題となることもあるだろう。だがそうやって、正―反―合の運動をくりかえしながら、ポストエシカル消費の世界は形成されていく。 日本でも進んだ企業では、30年先の社会をエクストリームな形で想定し、そうだとしたら今何をすべきか、という思考でSDGsへの取り組みを駆動している。自らなにかを仕掛けるだけでなく、自社の事業資産やケイパビリティを開放して、市民や活動家に社会問題解決に役立ててもらうことは出来ないか、考えている企業もある。「ひとのとき」では、企業と消費者と活動家が一緒になって、あるいは企業同士が組織の垣根を超えて一緒に、SDGsの実現に取り組んでいく社会基盤、プラットフォームを創ろうと構想している。 社会資本、シェア、ギフト、おすそ分け、・・これらのオルタナティブ経済議論は重要だし興味深いものだが、一面では、市民運動よりはるかに先に企業の実践・挑戦が始まっているともいえる。対峙ではなく共創の思考と行動。時代を先へと導いてくれるだろう。 (文責:金光隆志)

2020-04-04

お金はやっぱり浪費とお金持ちがお好き!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備・補助線としての試論(3)-

前回、前々回の話を、マクロな視点から、更に論理展開してみよう。 本質をえぐり出すため、生産財投資や税や政府セクターや、話が見えにくくなることは乱暴なまでに省略し、議論の単純化を行っている点、ご了承願いたい。 さて。 経済の発展とは、究極的には、未来への信頼・信用なはずである。 どういうことか。 市場経済×資本経済における生産と消費には絶対的な矛盾がある。 労働契約で支払われた賃金以上の商品価値を生産しても、賃金以上の消費は出来ない。ということは、一つの経済系の中に閉じている限りは、利潤なんて生まれない。売れない商品の在庫が残って終わり。なのだ。 解決策は「閉じない」以外にはありえない。つまり「外」から買ってくれる人の存在だ。資本は常に「外」を必要とする、ということを了解しておくとよい。 で、これ実は、前々回のたとえ話で言った「なぜかお金を持っている人」のことである。 何故かお金を持っている人とは例えば、なぜか過去からの蓄積がある貴族的な人。あるいは例えば日本人が作ったものを買ってくれる外国人。とか。 でもこれら「空間的な外」には当然限界がある。貴族は過去の蓄積を食い尽くしたらアウト。外国人消費を取り込むとは要するに経済圏をどんどん海外まで広げて「内」に取り込んでいくことだが、取り込み尽くして地球規模での「内」なる経済圏が完成したら終わり。もはやその外からの消費は無い。 そこで、究極の解決策「時間的な外」である。つまり未来の消費の先取り。経済が発展することを前提に、先に支払う。例えば、生産性が上がっていくことを前提に賃金を高くする。そうすると今の消費力があがる。あるいは、人口が増える。そうすると消費力があがる。 さて、時間的な外にだっていずれ限界はあるはずだが「発展する」と信じて金融が資金を提供する限りは、限界は見かけ上は先送りされ続ける。お金を刷り続けることになる。すると最初はインフレが起こる。でも一定範囲のインフレなら、過去の借金棒引き効果があるから、ある程度は辻褄が合っていく。インフレ経済下では投資をしろ、と言われる所以だ。インフレでしばらくは消費も刺激されるから、投資によるさらなる生産力の拡大は、借金棒引き効果とも相まって見返りのあるものとなるだろう。 さて、だが、ここでもし、「欲しいものもう別にないわ」、となったら何が起こるか。「買えるものがない」のじゃなくて、「買いたいものがない」状態。これが実は人類が歴史上初めて迎えつつある現代の先進国市場の姿、なのかもしれない。だから、まだ何がこれから起こるのか、よくわからない。 わからないけど、一つのシナリオは今の日本が見せているかもしれない。 買わなきゃ経済は縮んでいきます。急に縮んだら失業者が増えます。だから緩やかに縮むように、所得が調整されます。デフレです。デフレだと心理的にも財布の紐は少し固くなっていく。買ってほしいから商品の価格も下がってくるでしょう。でもさして欲しくないとそんなにも買わない。するとデフレがさらに進行する。デフレスパイラル。 日本の実態は更に複雑で、人口減少と急速な高齢化という問題も抱えている。労働力が足りないから外国人労働者を大量に受け入れている。でも単純労働が殆どだから大した消費力の向上には繋がらない。肝心の日本人の消費マインドは一向に上がらない。若者だけじゃない。高齢者なんてホントにそんなに今更欲しい物なんかない。かくして金利をマイナスにしてもデフレは止まらない。 こうなると、もう未来への信頼・信用を取り戻せるのか、なかなか難しそうだ。 究極的にはやっぱり前回や前々回の話の通り、余分なものでも買ってくれる金持ちと、不要だけど欲望を刺激する商品を作れる人、この人達が経済を活性化させて、結果、世の中を進化させる医療やら情報テクノロジーやらにも投資のお金が回せる世の中にしていく、というのを無理にでも目指すしか、ないのかそうではないのか。 (文責:金光隆志)

2020-04-04

資本とエシックス -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(4)

さて、経済発展のためには、お金持ちは必要、浪費は美徳、という論を展開してきた。 ここまでの議論をフォローしてきた方には、この論理の手強さはある程度伝わっているのではないか。と同時に、やはりどこか違和感が残っているかもしれない。 そうだとしたら、違和感の正体を、それぞれに突き詰めて考えてみることをオススメする。 そんなことをして何になるのだ、などと言う人は端からこんなエッセイを読んでいないだろうから、何故、はおいておこう。批判思考のちょっとした訓練になるサイドエフェクトは請け合いましょう。 私の場合、違和感は、カネだけが全て、ということのようだ。 思うに資本の決定的な弱点。それは、資本が収益率にしか興味がないこと。 薬を例に考えてみよう。罹患すると大変な苦痛の末に確実に死に至る病があるとする。通念として、この病を治療できる意義は大きいと感じるのではないか。しかしもしこの病が年間にせいぜい1000人しかかからないとしたら、製薬会社は莫大な研究開発費を投じてこの薬を作ろうと思うだろうか。多分、同じ開発費で、死なないけど毎年100万人がかかる病気の治療薬が作れるなら、そちらを優先するだろう。などなど。 つまり、資本にはエシックスはないのである。エシックスなんかより収益率の高い投資機会を求めてさまよい群がるのが、資本の行動原理。悪意も善意もない。そういう生き物。 あるいは、資本の収益最大化行動は、功利主義的立場からは実はそこそこ全体善を実現しているのだというのかもしれない。だが、カネの量最大化=全体善というのは雑に過ぎる。この論を揺さぶるのはすこぶる簡単。例えば、電車の中で足の悪い高齢者に席を譲るのは善いことだろう。この行為にカネは絡まない。むしろ絡んだ瞬間それを善と呼ぶことに躊躇いを感じるはず。以上。 さて、資本が、エシックス欠如という根本的弱点を抱えているのだとすると、それはきっと乗り越えられなければならないはずだ。 ということで、ようやく経済・ビジネス議論のフロントラインにたどり着いたようだ。昨今のSDGs議論、CSV経営、エシカル消費、レスポンシブルコンシューマー、等など。意識的であれ無意識にであれ、資本の側の自己防衛としてであれ労働者/消費者側の生活者としての覚醒・蜂起としてであれ、高度に発達した資本が抱える矛盾の前景化によって、人々がエシックスに向き合い始めた証、といって言い過ぎなら兆候なのではなかろうか。 ところで先程、資本のエシックス欠如、の趣旨をわかりやすく示すために薬を例に語ったが、グローバル製薬企業の名誉のために付言すると、彼らは21世紀から徐々に、患者数の少ない難治性疾患の治療薬開発にも一定の力を入れてきている。その成果は今出つつある。 製薬企業に限らず、IBM、GE、ユニリーバ、Nestle、J&J、Google・・・グローバル企業では、21世紀以降、社会的な問題解決を企業の事業アジェンダとして取り組む動きが広がり、この10年で実際に成果を上げてきている。2000年の国連ミレニアム宣言/ミレニアム開発目標(MDG’s)を境に、といっていいだろう。 ごく最近SDGsを意識し始めた日本企業とは20年近い差がある。この差は絶望的なほど大きいのだと言わざるを得ない。それでも、前に進まないよりは遥かによい。 ということで、そろそろポスト・エシックスを考える準備が揃ってきた。 (文責:金光隆志)

2020-04-03

富豪は悪徳? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(2)-

前回は浪費と金持ちを礼賛してみた。 そこで、今回は、逆に富豪を地底に叩き落とすことを試みよう。 富豪って相当恥ずかしいことだと思う。と先ずは言ってみよう。 そもそもなんで富豪が生まれるのか。ちょっと考えてみるとおかしいと思いませんか? 思わないなら、イノベーションには向かない。常識や慣習を全く疑えないのだから。 だが、深く考えた結果、おかしくないと言えるなら話は別だ。 さて、なんで富豪が生まれるのか。簡単なこと。 略奪か、お金でお金を生んでいるか。根本的にはこの2つだ。 (アントルプルナー論はややこしくなるのでちょっと脇におく) 先回りして言っておくと、市場経済と資本経済は全く別、独立したものです。 モノやサービスの価値が取引で決まるのが市場経済。お金がお金を生むのが資本経済。 資本経済を否定したからといって市場経済の否定にはなりません。 しかして、資本は巧みにこの2つを駆使して、ボロ儲けするわけだ。 市場経済で略奪し、資本経済によって、略奪したお金でお金を生んでいる。 なお、お金がお金を生むプロセスは、単純な利子という形もあれば、溜まったお金が一度再び商品に形を変えて再び増えたお金に、というパターンも有る点留意されたい。 これが真実なら、富豪になるって相当恥ずかしいことじゃないですか? さて、資本は、略奪なんて無いというだろう。確かに。現行法的には何ら略奪はない。 雇用者との労働契約と、事業における売上(商品売買契約)。この2つはそれぞれ独立した、別々の意思・同意によって行われている。売上と賃金に差(益)があっても不正ではない。どちらも市場経済を前提とした独立した本人の意思・契約なのだから、そこに差益があっても略奪は無い。 確かに。 しかしおかしくないか?皆で働いて作った商品の収益は皆のものじゃない? 利益が余ったのなら労働者で分配するのが筋じゃない? いざというときのために貯めておく。いいだろう。 事業を大きくするのに必要な投資にとっておく。いいだろう。 でも、あくまで労働者が働いて作った収益。だから契約がどうあれ労働者のもの。違う? うーん。前回の浪費と金持ち礼賛と比べると、論理としてちょっと、いや大分弱いですね。 これ以上論を展開したところで道義論か、人間や人間社会の本質とかを持ち出すイデオロギー論に帰着してしまう。 そもそも労働契約や資本利潤が嫌なら自分たちでギルド的に商売やれば、って話だし。 それを別に禁止していないのだから。勝手にやればいい。やってないだけのこと。やってないのはやれないから。 これは資本主義とかギルドとか関係ない、職人ギルドでも、力ないうちは親方のもとで丁稚奉公で修行するのだから。いや、資本が生産手段を独占しているからして云々・・、いちいち異論に反論していたらキリないのでここらで止める。 いや、一つだけ言っておこう。この議論の延長に出てくるであろう弱者、マイノリティ、他者へのまなざし・・というのはとても大事だ。だが安易不用意にそんな話をもちだしたら、それこそ”社会的承認”云々とやらの目くらましで、本質的論点から目を逸らされてしまうのです。まずはマテリアルな論理を徹底しなければならない。 さて。だからこそ。略奪の不道徳性に訴えた革命が、所詮ルサンチマンを根拠にした革命であり、ルサンチマンとはエゴなのだから、そのエゴを大規模に集約してしまった以上、強烈な力でそれを押さえ込まなければならなかったわけであり、結局暴力と圧政と独裁と権力しか産まなかったわけではなかろうか。 共産主義革命って、資本経済を直接的に否定したんじゃない。労働と商品の市場経済を否定した。だから計画経済に行ってしまった。のではないかな。 生産と消費の矛盾及びお金でお金を生む信用経済≒資本経済の破綻の必然性(というか可能性)を語りながら、初期の疎外・搾取論だけ(は言い過ぎだけど)を根拠に勝手に後進資本主義国で革命して失敗されてしまい、その責をなんとなく着せられたマルクスってちょっと気の毒。 前回にも少し考察したが、お金持ちの否定とは市場経済の否定にほぼ等しい。市場経済の否定は私有財産(自分の労働力という商品も含め)の否定にほぼ等しい。逆に言えば、私有財産があれば市場は必ず生まれるだろう。市場が生まれれば必ずお金持ちが生まれるだろう。そしていずれ大きな資本(ストック)が生まれ、大きな投資が生まれるだろう。大きな投資は更に大きなベネフィットと利益を生むだろう。 例えば、多くの人が薬の開発は否定しないだろう。これには大規模投資がいる。この大規模投資をまかなえるのはお金持ちであり資本だ。 共有資本や社会資本を語る人は論理が逆立ちしている。共有資本や社会資本は市場経済の外に位置する。だが、大きな資本は市場経済からしか生まれない。 あるいは、大きな共有資本や大きな社会資本こそ、怪物的な権力による大きな略奪からしか生まれないだろうと言ったほうがより正確か。 はてさて。ルサンチマンではない私有財産の否定/アウフヘーベンの道ってありやなしや。 (文責:金光隆志)

2020-04-01

浪費は美徳!?金持ちは必要!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(1)-

今日は少し変な考察をしてみましょう。 一般に浪費は悪徳とされる。節約・倹約は美徳とされる。本当だろうか? そこで、ひとつ簡単な考察をしてみましょう。 ここに5人の生産者がいます。それぞれ米、野菜、精肉、服、宝石を作っています。 みんなお金は大してもっていません。すると何が起こるか。想像されるのは、宝石売れないだろうな、ということ。売れないとどうなるか。宝石屋さん飢えて死んでしまいます・・ さて、ここに一人お金持ちがいたとしましょう。この人は何も生産していませんが何故か沢山お金を持っている。お金があれば、大して必要ないものでも買ってくれます。宝石を沢山買ってくれたとしましょう。すると宝石屋さんにもお金が入ります。必要なものが買えます。 この話どう思いますか。宝石なんて必要ないものを作った人が悪い?死ぬのは自業自得? では宝石ではなく、椅子・机を作っていたけど、皆一応間に合ってるから無駄使いする余裕も無いし買ってくれなかったのだとしたら?やっぱり自業自得? 人に必要とされるものを作れない人が悪い? でもそんなにみんな、必要なものありますか?そして必要なものなら誰でも何でも作れますか? 多分殆どの人は、あってもなくてもどっちでもいいものしか作れないんじゃない?もう少し言って、必要なものだけしか経済で回らない世の中になったら殆どの人、死んでしまうんじゃないの?マンガはもとより、絵とか要らない、結婚式のきれいなドレスとかいらない、化粧なんて不要、スポーツなんて体力の無駄、学者なんてくそくらえ・・とか言ってたら、経済回らないし、無理にそれで回したとしても世の中つまらないし。 もの凄く乱暴に言って不景気とはこういうこと。皆が何らかの理由で節約・倹約すると景気は悪くなります。何等かと言ったけど、節約・倹約の理由は基本的には将来不安。食べるに困らないと思ったらみんな無駄なもの買いますから。欲望過剰は人間の本性。という話は論点がずれるのでこれ以上は言わない。 戻そう。だから。未来永劫食べるに困らないと思う人が、じゃんじゃん浪費してくれたら、庶民にもお金が回ってきて、少し贅沢出来る人も出て、大して必要ないものも売れるようになって、そういうのもを作る人にもお金が回って、経済全体が活性化するはずなのです。 人類生態系におけるキーストーンとなる少数のお金持ち大して必要なくても人の欲望を掻き立てる商品を作れる人たち。 これらの人が肥大化した人類の経済活性化のカギを握っているのではなかろうか。足るを知ったら現代経済も社会も終わる。浪費は美徳。金持ちは必要。 異論・反論・反感・・あるかと。しかしこの話を論理的に論破するのはかなり難しいと思う。 せいぜい統計的にトリクルダウン仮説を棄却する、程度のことしか出来ず、更に言えば、だから累進課税を大きく、程度のことしか言えない・言わないのだとすれば、何ら論破になっていない。 「金持ちが思ったほど富を使ってくれないからその人達から強制的に巻き上げて皆に配りましょう」と言うのは、上記論理の劣化ヴァリアントに過ぎないのだ。格差拡大が問題、など論外。貧困は問題だが格差は問題じゃない。メッシにビッグマネーが集まるからといって、Jリーガーが不公平だ、と言ったところで痛いだけ。メッシとJリーガーを企業家と労働者に置き換えても同じこと。資本と労働の分配率云々も同じこと。ビル・ゲイツが大富豪でMS社員が貧困なら流石に問題かもしれないが格差は問題か? 恐らく私有財産を否定しないかぎり、浪費と金持ちを否定は出来ないだろう、と思う。 否定できないから累進課税で強制的に制約しようというのは暴力的だ、ということには敏感でありたい。 だいぶ話がずれてきた。余談ついでに衝撃的な?事実をひとつ。 かのカールマルクス大先生も実は借金しまくりの大変な浪費家だったのさ!! (文責:金光隆志)