Top/ トップ
Service / サービス
Feature / 特徴
Knowledge / ナレッジ
Column / コラム
Company / 企業情報

Column
ー コラム

1-2 件 / 2 件中 

ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。

j.テクノロジー
ALL
a.戦略
b.イノベーション
e.マネジメント
d.マーケティング
c.ビジネスモデル
f.価値
g.欲望
h.メカニズム
i.ヒットサイエンス
l.発想のアート
j.テクノロジー
k.社会課題

1-2 件 / 2 件中 

2021-10-21

地球中心主義って?

最近面白い話を読んだ。 少し前までは人間中心主義がデザイン思考の主流だったが、これからは地球中心で考える思考、地球中心主義が求められるのだとか。 デザイン思考が提唱した人間中心主義の文脈・時代背景と地球中心主義が言っていることとではそもそも話が噛み合っていない・論点がずれていると思うのだが、まぁそれは置いておこう。いや、流布しているデザイン思考ではなく、商品⇒人間⇒地球という様に資本主義批判の文脈でデザイン/アートを捉えるなら、ズレているとまでは言わないが、まぁそれも置いておこう。 地球中心主義って、本気で言っているのだろうか。 もし本気で議論するのであれば、そもそも地球に人間は必要か、というExtremeな議論から始めるべきだろう。私は本気で言っている。どういうことか。 話を単純にするため、一旦動物(自然)と人間の二元論で語る。人間は決定的に動物・自然界=コスモスから逸脱した存在である。自然界ではあらゆる生命の本能が見事に調和し呼応し合い循環している。対して、そもそも人間とは過剰(な欲望)を不可避に抱えた生き物だ。乱暴に言えば本能が狂っている、人為的な秩序(言語やら統治やら文化やら)を導入しないと自然のままでは殺し合い・犯し合い・破壊する生き物ということだ。動物は無為な殺戮や破壊など行わない。そんな本能は彼らの脳にはビルトインされていない。人為的な秩序などに頼らなくても動物は本能のシグナルに導かれて自然の秩序を形成している。人間だけは違う(この際チンパンジーなどの他の霊長類は脇に置く)。人間の過剰な大脳皮質は過剰な(≒自然から逸脱した)欲望を喚起せずにはいられない。これが人間学や文化理論の出発点だったはず。 そんなことはない、いやたとえそうだとしても人間=ホモ・サピエンス(理性の人)には理性が備わっており、理性の力でもって正しいことが選択出来るのだ、などの反論があるかもしれない。この手の啓蒙主義に逆戻りするような議論には肩をすくめるしか無い。啓蒙主義に導かれた「人間的進歩」こそが自然破壊や大量殺戮兵器に帰結した、というのが20世紀最大の学びではなかったか。まぁ簡単に言えば理性なんぞで人間的本性=過剰な欲望を抑えこむことなどできない、のだ。 ならば、人間が地球/自然と調和するには、人間が過剰な欲望を捨てるしかない、のだろうか。しかし、それは即ち、人間が人間をやめることとほぼ同義であるはずだ。つまり、地球中心に考えるなら人間をやめるべき=人間なんていらない、ということだ。実際そうではないのか?この広い宇宙において、人間がいなくたって誰も困らないし気にもしないはずなのだから。もっと言えば、宇宙からみたら地球環境が一つなくなるくらい、どうってことないわけだ。すべての星はいずれ死ぬか超新星爆発を起こして消えるかなんだから。ならば、人間が自然を破壊しようがどうしようが、構わないではないか。それが地球生命進化の帰結ならば。 それだと困る?なんで?誰が? つまりは人間が困る、って話なんじゃないの?つまり。地球中心主義、なんて言いながら、実のところ人間中心に考えてるんじゃないの? 屁理屈に聞こえるだろうか。だが、屁だろうがなんだろうが残念ながらこれが理屈だ。 だからといって環境破壊なんて気にするなとか、反動的なことが言いたいのではない。人間なんて不用だ、などと自分を否定したいわけではない。逆だ。 地球に対して謙虚になる(それは実は上から目線であることに気づくべきだ)前に、人間自身に対して謙虚になるべきなのではないか。人間の原罪を認めることから始めるべきではないか。人間は過剰(≒自然からは逸脱した)な欲望を抱えずにはいられない。これはどうすることもできない人間の前提条件だ。それを抑圧したならば人間は精神の病気になる。そして、この手の議論が行き着くポリコレの大合唱は社会への抑圧となり、社会は病気になる。社会が鬱となるかヒステリーとなるかだ。そうではなく、つまり過剰な欲望を抑圧するのではなく、かといって破滅に向かうのではなくどう開放できるのか。そこに向き合わずして環境云々(や、巡り巡って貧困や差別や)を議論するのは欺瞞にしかならないだろう。環境を考える前に、人間の、人間社会の欲望開放の未来像を考えるべきではないだろうか。無自覚に環境破壊や貧困や差別に組みしてきたと気づいたまではよいが、だからといって自覚的に人間的自然を抑圧するだけでは解決にならない。無自覚に欲望を開放してもうまくいく社会。滑稽だろうか。でも人間はかつて何万年もそうして生きていたのではないのか。おかしくなってきたのは、長く言ってもたかだか2千年、短く見れば数百年のこと。 だからといって今更、自然へ帰れ、など不可能なばかりか人間的自然は狂っているのだから、何の解決にもならない。人間的自然の狂った欲望を秩序で抑え込みつつ戦争や祝祭という装置で周期的に解消してきたのが前近代までなら戦争と市場経済・日常の商品消費で解消してきたのが近代以降。その商品消費を人為で抑圧するのなら、新たに他に過剰欲望解消・抑圧からの開放のルートが必要になる。それが人間というもの。難題だ。 いやでも、環境負荷の高いゴミを出さなくなったらいいことした気がして気持ちいい、そうやって徐々に人間の価値観って変わっていくんじゃないの?そうかも知れない。その程度なら。でもじゃあ、南の貧困のために所得から10%を寄付することに同意できるか?森林再生のために同じく10%を寄付することに同意できるか?先進国の殆どの人は、贅沢できなくなるにせよ生活に困ることはない。でも先ずほとんどの人はできない。もしできるのならもっと世の中は社会主義的になっているはずだ。残念ながらCommonsはそのような理路だけでは実現しない。 答えは見えない。だが、ベタなことを言って締めるのも気恥ずかしいが、人間がVirtualにひきこもる未来像というのは案外悪くないのかもしれない、と思う今日この頃。図らずもコロナ禍が垣間見せた皮肉な事実と可能性。第二次世界大戦以来最もCO2排出量が削減されたらしい。そして遅ればせながら暇つぶしに見てきた「竜とそばかすの姫」。うん、これかも。 (文責 金光 隆志)

2020-04-27

データサイエンスのオルタナティブ未来

ビジネスは今も昔も、平均(マス)を狙うか細分化(差別化)するか、その選択であった。 経営学では、それぞれの成立条件、事業特性・優位性との関係、エコノミクス、具体的方法論などが研究され、洗練されてきた。 ところで、大げさになるが、実はこれは人間のモノの考え方、そのものである。 平均とは、全体・マクロ・統合・共通・普遍・抽象・・・の系。 細分化とは、部分・ミクロ・分解・固有・個別・具体・・の系。 ちなみに思考力のカラクリは、この2極それぞれをゴリゴリ突き詰めつつ2極をグルグルと回すこと。これに横滑りが加われば自在。思考力の話はまたの機会に譲ろう。 さて、平均と細分化はいまもって、殆どのビジネスで相当にうまくいく。 もう少し丁寧に言って、全体と部分を吟味し、分布を考慮に入れ、更には部分と全体の影響関係をシステム的に考察すれば、ビジネス検討としてはほぼ完璧だろう。 だが、平均にせよ細分化にせよ、それが人間のモノの考え方そのものである以上、人間認識の限界の内にある。 例えば。 あなたはインドア派かアウトドア派か。内向的か外向的か。陽気か陰気か。文系か理系か。邦画派か洋画派か。モダン派か古典派か。TV派かネット派か。犬派かネコ派か。音楽はロックか、ポップスか、R&Bか、ジャズか・・。 詰まるところあなたのペルソナは何派か。云々。 殆どの事項について、イチゼロではないであろう。その日の気分、コンテクストなどによっても変わるだろう。犬派だがブルドッグよりネコのベンガルの方が好きかもしれない。ガリガリくんが好きだけど今日はハーゲンダッツの気分、ロックが好きだけどジャズも聞くよ、など。 つまりどのように、あなたのペルソナを「ざっくり大雑把に」捉えようが「細かく分けて」捉えようが、単純化あるいは固定化して捉える以上は、それはあなたではない。 あなたとは、生物学的にも心理学的にも、Chaoticな矛盾や対立を平然と内部や行動諸局面に抱えながら、不均衡の振動やベクトル相殺によって動的に均衡した複雑系、なのである。 動的均衡複雑系のあなたをそのまま捉えることは残念ながら無理。しかし、単純ではないあなたに動的に肉薄していく道標はある。その道の一つがビッグデータ・機械学習・最適化・・・、即ち現代データサイエンス。 現代データサイエンスは驚くほどの粒度・精度であなたを識別する。恐らくあなた自身よりもあなたを詳しく描写できる。これだけでもビジネスに、マーケティングに革命を起こすに十分だ。 そしてデータサイエンスにはもっと先があるだろう。精度の先。 と言っても今の私の力量では上手く語れない。だがイメージはある。生成の論理、とでも名指しておこう。ダイナミックプライシングやThompson Samplingアルゴリズムによる動的最適化のような方向性に感じる可能性だ。これらは勿論、予測や最適化の論理の中にある。であるならば、精度の追求は論理的には過剰適合に帰着する。乱暴にだがとりあえず、過剰適合とはランダムや誤差にまで適合して説明してしまうこと、と解しておこう。予測や最適化論理の内に留まるなら、これは要修正ということになる。だがここで、動的予測に留まらず動的生成の論理を導入したらどうなるだろう。実際ランダムや誤差とは、まさしく生成のリアルなのではなかったか。さらに推し進め、意図的にランダムを取り入れて、人とダイナミックに未来を形成していくマシンを想像してみるとどうだろう。実際ランダムはまさしく人の特性でさえなかったか。そして更にここでネットワークサイエンスを導入したら。アイデアの流れ・社会現象の生成に限りなく近づいていくのではないだろうか。 言葉にすると随分抽象的になってしまったが、要するに、予測・最適化論理の延長では、どこまでいってもデータサイエンスからピコ太郎(古くてすみません)は生まれない。でも生成の論理を導入したら、少なくとも生まれる可能性が生まれ、しかも人間だけの世界よりほんのちょっとであっても生まれる確率が高まる、のかもしれない。 うん、ちょっとまだSF。だが、荒唐無稽ではない近未来の可能性ではないだろうか。 (文責:金光 隆志)