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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
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戦略的セグメンテーションの再考
突然ですが質問です。市場って何でしょうか。 そんなわかりきったことは考えたことがない?ですよね、普通。 ではもうひとつ。 ディズニーランドは市場でビジネスを行っていますか? それは何の市場ですか?どんな市場ですか?その市場では誰かと競っていますか? これもわかりきったこと? ディズニーランドは普通に言えばテーマパーク市場に属していると思われるでしょう。 ではテーマパーク市場って何でしょうか。テーマパークを集めたらテーマパーク市場? 市場におけるディズニーランドの競合は誰でしょうか?USJ?ハウステンボス? 競合ってどういう意味でしょうか。同じ事業を行っていたら競合でしょうか? おやおや?となってきませんか? ここで私が、テーマパーク市場なんて殆ど存在しない、と言うと、阿呆かと思われるかもしれません。確かに、日常的慣習的語用を鑑みれば、流石に言い過ぎ・誤り感はあります。けれども、市場というからには、ある財・サービスにおいて複数の供給者が需要者の獲得を巡り、価格や取引条件を交渉・競争している場、なのであって、供給者が一人しかいないのであれば、経済学的には独占市場と呼ぶのだろうけど、ビジネスで言う「市場」とはちょっと違いそうではありませんか? ではここで補助線を。 ある人がデートで悩んでいます。今度の休みはどこに行こうかな。日帰り旅行いいな。TDLの方が喜ぶかな。でもあの展示会も早く観に行きたいって言っていたな・・ 皆さん(とくに関東在住なら)も似たような経験はあるかと思います。 TDLは普段誰とどんな顧客獲得競争をしてそうでしょうか。あるいは補助線に沿って需要者側から言えば、普段人は何の目的でTDLと何かを比較・選択する(≒市場)のでしょうか。 どうも多くの場合はテーマパーク同士ではなさそうです。ということは、市場を先ほどの定義に則って考えるなら、強いて言えばディズニーランド市場はあると言えるかもだがテーマパーク市場なるものは、ほぼ幻想というか抽象設定に過ぎないのかもしれません。 更に問題意識を深めていきましょう。 市場セグメントと顧客セグメントは同じことでしょうか?別のことでしょうか? おそらく多くの人は、日ごろ特に意識はせずなんとなく市場セグメントも顧客セグメントも似たような意味で使っているかもしれません。 一方で、ここでハッとした人もいるかもしれません。市場とは何なのだろう、と。 顧客セグメントは人や人の特性によるセグメントであることは明らか、対して市場セグメントにおける「市場」は抽象的にして多義的に使われます。「市場」が指すものは商品の場合もあれば機能の場合もあれば顧客の場合もあれば目的の場合もあれば手段の場合もあれば・・・という具合です。つまり「市場」は定義次第、と言うと節操なく聞こえますが、まさに「定義次第」で「意味のある定義」の場合もあれば「意味のない定義」の場合もあるわけです。では「意味」とは。そう、「意味」には絶対的なものなどなく、目的やコンテクスト次第。ゆえに「テーマパーク市場」なる市場定義が多くの場合意味を持たないわけです。 「顧客」セグメントは主にマーケティングや商品・事業開発において有用な概念です。 対して、「市場」セグメントというのは実はとても戦略的な概念になりえます。 「市場」とはサプライサイドとデマンドサイドが「交差」する場です。 デマンドサイドには行動目的、ニーズや欲望、オケージョン、ベネフィットなどの切り口があり得ます。一方サプライサイドでは、どういうデマンド切り口を設定するかによって、それに対応し得るサプライが変わってきます。 補助線の例では、ある人がこんどのデートはTDLか日帰り旅行か展覧会か・・と悩んでいたのでした。そうすると例えば「一日レジャーデート」というデマンドに対して「TDL・日帰り旅行・展示会・・・」のサプライがある、という市場セグメンテーションの定義があり得るわけです。この「一日レジャーデート」というデマンドに対して「TDL」は他のサプライに対して競争力があるか・経済性が十分よいか、それによってTDLが「一日レジャーデート」をビジネスの場に選択すべきか否かが左右されます。Yesなら「一日レジャーデート」は戦略ターゲットのオプションになり得ます。Noなら他にビジネスの場とすべきデマンドを探さなければなりません。この一連の作業が「戦略的セグメンテーション」と呼ばれるものの核心になります。 戦略的セグメンテーションには論理性と創造性の両方の発揮が求められます。答えは一つではありません。様々なセグメンテーションがあり得ます。そして、既存事業の戦略指針見直しにおいても、新規事業機会検討においても、うまい戦略的セグメンテーションの切り口を見つけることが出来れば、ビジネスの変革・成功にぐっと近づくはずです。 (文責:金光 隆志)
目前の課題と未来の課題と長期構想と
いま目の前にある大きな課題といまは見えないけど将来起こり得る大きな課題。 長期構想において前者だけをターゲットにして満足する企業は多くないだろう。むしろ、今見えていることではなく将来だけを長期構想ターゲットに据えようと考える企業も多い。 まだ見ぬ課題=まだ見ぬ機会=他社に先んじるチャンス、といったところか。 その是非は一旦置くとして、ではどうやって将来起こり得る課題を見定めるか。 例えば。 STEEP(Social、Technology、Environment、Economy、Politics)のメガトレンドから将来社会を想定し、だとすると我社にとってどんな課題や機会があり得るか。みたいな。 あるいは。 メガトレンドから見える将来課題は所詮似たりよったりだし課題も曖昧。客観予測ではなく主観的な意思・起こし得る未来こそが構想に値する、ということで想定外未来やフューチャリングセッションなどで未来を構想しバックキャストする、みたいな。 で、それらを一人ではなく様々なバックグラウンドを持った人、専門分野の異なる人同士で行うことで、一人の目では見えない意外なチャンスに気づきを得る、みたいな。 こういうエクササイズも視野を広げるには有効だろう。今までと違う事を考えた気になれるし、少なくとも楽しい。ワクワクしない構想になんかチャレンジ出来ないのだから! だけど残念ながら資本の論理はこんな不確実なものに賭けることを許してはくれない。だから経営の意思決定がどうなるかというと、投資はまだ出来ないが経費の範囲で探査的なリサーチは進めてよし、みたいな。 そして立案者たちは概ねこう反応する。「うちのトップは短期にしか目が向かない」「今の経営陣に言っても無駄だから次世代経営陣を巻き込んで・・云々。」一方で経営陣はこう思う。「もっと地に足ついた、それでいてなるほどと思うような構想は出来ないものか、云々。」 じゃあどうすればいいのか。 その前に、何がダメなのか。単純なこと、いきなり想定外やメガトレンドから入るから議論がふわふわするのだ。繰り返すが、それらのエクササイズがダメだとは思わない。でもその前に押さえておくべき・押さえる価値のある「まだ見ぬ未来」がある。何か。 日本には素晴らしい諺がある。「風が吹けば桶屋が儲かる。」 発想はオプション創造のコラムで論じた因果の連鎖に近いが、これはなかなかテクニカルですぐ上手くは出来ないだろう。先ずはより簡単・実践的な方法からやってみるとよい。 それは「今目の前の課題の次の課題」を考えること、である。もっと言えば「いま目の前の課題が解決した暁に生じる次の新たな課題」だ。そんなことは考えている?ならいいんですが、考えてないなら考える価値は大いにある。例えば。自動車が無かった時代に遡ってみよう。そして5年後には自動車が世に出ることが予見され得るとしよう。次に何が予見されるか。例えば今までになかった深刻な事故多発。混乱。で、何が必要になるかというと、道路の整備、交通システムの構築、燃料補給、定期的な整備、車の安全性能の向上、保険、などなど、車が現れたことによって生じた次なる課題や機会が山ほどあることを現代の我々なら知っているだろう。これらは全て新たなビジネスチャンスである。 例がわかりやすぎて、実際はそんな単純・簡単にはいかない、と思うだろうか。そのとおり。だから価値があるのだ。あるいは、そんな単純・簡単なことは全部見えていると思うだろうか。そうならば悩む必要はないだろう。投資家もそこそこ納得するような10年後の柱となる新規事業構想の種はその中に見つけられるだろうから。 あるいは、この論理の筋をベースに据えた上でのメガトレンド発想や想定外の未来構想ならば、だいぶ地に足のついたそれでいてなるほどという構想にも近づけるだろう。 長期構想の狙い目は目の前の課題とまだ見ぬ将来の課題の中間ゾーンにこそある。 風が吹けば桶屋以外に何が儲かるか。考えるとワクワクするではないか。 (文責:金光 隆志)
創造的な戦略の恩恵
創造的な戦略は立案も実践もはっきり言って難しい。仮に千社の戦略を並べたとして一つでも創造的な戦略と呼べるものが見つかるかどうか。だがもし成功すれば。そのリターンはとても大きい。 創造的な戦略とはどのようなものか。パラフレーズして考察しておこう。 創造性とは。人のパーセプションを変えること、人にとって想定外なこと。 戦略とは。自社に能う限り有利な状況を生み、出来れば競争優位実現に至る方策のこと。 つまり、創造的な戦略とは、 ① 競争相手にとって想定外、つまり競争相手を出し抜いて、 ② 有利な状況を作り、いつのまにか競争優位・障壁を築くこと だと解しておいて大過ないだろう。 さて、競争相手を出し抜く方向性は3つある。 その①:競争相手が気づいていない戦略ミスを突く その②:競争相手が気づいていない戦略チャンスをモノにする その③:競争相手が気付く前にゲームチェンジを起こす 言うは易しで、出し抜くだけでも簡単ではない、その上で競争優位を築くとなると難度は一気に上がる。ある打ち手がたまたま創造的戦略の条件を満たすことはあるが、意図的に方策を考えるとなると、戦略に関する相応以上の理論的理解と実践的経験が必要にはなるだろう。ここではその方法の概念だけでも供しておきたい。繰り返すが、難しい。 さて、相手が気づいていない戦略ミス・戦略チャンスは、大小問わなければ実は様々に存在している。殆ど全ての企業にあると言っても誇張ではない。典型的には戦略事業単位の無理解・誤解に起因し、その無理解・誤解は競争メカニズム及び経済性メカニズムの無理解・誤解に起因する。戦略事業単位とは、競争メカニズムや経済性メカニズムの異なる事業やセグメントの切り口単位のことであり、上述はトートロジーなのだが、トートロジーを承知で敢えて付言すれば、一つの事業領域において複数の戦略事業単位で事業展開している場合、相当な確率で、どれかの戦略事業単位において戦略ミスを犯している。殆どの企業が戦略事業単位を認識しそこねている(戦略事業単位を商品カテゴリーや事業カテゴリーと同じと見做し勘違いしている企業が大半)からだ。 いずれにせよ、戦略ミス・チャンスを突くためのポイントの一つは競争メカニズムや経済性メカニズムの正しい理解である。精緻さが重要なのではない。正しさが重要なのだ。通常は社内の事業管理単位、情報取得・利用範例、インテリジェンス、事業システム、管理会計システム等が戦略事業単位と整合していることはない(だからこそ敵も我が方も見損なうわけだ)。よって精緻な分析など望むべくもない状況だがその必要も実はない。精度ではなく正しさを検証できるレベルの戦略分析を実施することが重要で、戦略分析のためには戦略ミスや戦略チャンスに関する蓋然性の高い仮説と仮説検証に足りるモデル化が決定的に重要となる。モデルは出来る限り、部分的であっても定量化検証出来ることが基本だが先ずは定性モデル化からでもやらないよりはるかによい。その場合でもファクトに基づくことが大事である。 少し話が逸れた。戻そう。 「戦略事業単位の誤解」は「平均化のワナ」へと繋がる。「平均化のワナ」は気づかないうちに様々な形の歪み・ミスマッチや無視を生み出している。価格設定の歪み、資源配分の歪み、ビジネスモデルの歪みなど各種の歪みや、アンメットニーズの無視、置き去りユーザーの見逃し、市場構造変化の無視などである。これら歪みや無視を突く方策は悉く「競争相手を出し抜く」創造的な打ち手となる。 しかしそれだけでは戦略的な成功を収めるには道半ば(よりも手前)。競合が気づいて手を打ってくるまでに十分な時間を稼げて、かつ手を打とうと思った段階では既にこちらが新たに競争優位の条件を整えている、ということが必要になる。一般論としてはサプライサイドでミスを突く方が競争に気づかれにくい。例えば単純な例、資源配分をこっそり変える等の打ち手は相手からは見えにくい。一方デマンドサイド、特に新商品・新サービスの展開の場合には十分な注意を要する。イノベーションのジレンマのような状況を起こすケースで無い限り、殆どはすぐに模倣される。模倣されないためには同時にサプライサイドでの障壁(例えば開発や適用には時間のかかる独自の技術や異質技術が伴っている、サプライチェーン調整に手間がかかる・ハードルがある等など)があれば、模倣される前にこちらがスケールを獲得し複合的優位性へと発展させられる可能性は高まる。あるいは、デマンドサイドでも顧客ロックインやネットワーク効果のメカニズムが働き、かつ顧客のマルチホーミングに一定の障壁がある場合には先行者がある程度有利である。など。 いずれにせよ、相手のスキを突く創造的な打ち手を打つだけでは全く不十分で、競争優位のロジックと行動シナリオをしっかり詰めることが肝要である。 デジタル化の進展で、かつてに比べると企業が保有する情報は格段に増えている。データサイエンスの実施を含め、社内での分析の量も格段に増えている。それらはもちろん大事かつ収益をもたらしている。だが、それらはオペレーションレベルでの分析の発展であり成果なのだ。戦略検討とは次元が異なる。これほどデータが増えていても戦略分析を実施する際の困難・苦労は今も昔もそう大差がない。だが苦労する価値はある。 進化スピードが早い市場では競争優位の戦略は成立しない云々、全くの観念論・常識的イメージ論であって、見誤りだと断言出来る。実際デジタル事業・環境では逆に恐ろしいほど競争優位のロジック・メカニズムが純化したかたちで働いている。2番手以降には創造的な戦略で立ち向かう以外に残された手は殆ど無いとさえ言える。 デジタル領域では殆ど競争地位の変動が起こらない事実をさきの進化論者や適応論者はどう説明するだろう?事業創造のロジックと競争のロジックは峻別しなければならない。 事業創造にはもちろん価値があるし、どこか神秘的イメージもあって魅惑される。だが企業のボトムラインへの影響は競争、従って戦略が遥かに大きいことに刮目されたい。事業経営に関与する人たちにはこんなご時世・ムードが支配的だからこそ、リアリストの目を備えることを勧めたい。 (文責:金光 隆志)
戦略的な創造性の発揮
前回、戦略性と創造性は双子の兄弟のようなもの、と論じた。 そこで今回は、実践編として、戦略的に創造性を発揮する方法について話してみよう。 先ずは自分自身が創造的になる方法について。 タネを知らないとまるで手品のように感じるが、タネを知り方法に習熟すればちょっと気の利いたアイデアを出すことぐらいは誰でも出来るようになる。 創造性とは何だろうか。 今までにない新たなものを生み出すこと、とか、何かの真似でない独自性・オリジナリティ、とか、色んな定義があるようだが、あまり生産的・実践的な定義ではない。 今までにあるかないかとか真似でないかどうか、はどうでもいい。創造的なものは悉く、人々の認識を一瞬にして変えるもの、である。もう少し丁寧に言って「〇〇とは☓☓だ」とか「○○ならば△△だ」といった定石・定説・常識・慣習・暗黙の前提を覆すもの、である。 では、定石・定説・常識・慣習・暗黙の前提を覆すにはどうすればいいのか。 言葉で語るのは簡単だ。覆すには、覆す対象、即ち定石・定説・常識・・・を明確にすればいい。それらを明確に出来たなら「それ以外/そうではないもの」を考えれば、定石・常識・・・を覆す考えになる、という算段だ。Out of boxに考えろ、とはよく言われるが、Out of boxに考えるためには今のBox即ち定石・定説・常識・・を知らなければ始まらないし、知ればその外に出ることは容易である。 だが実践上の問題がある。 その1:何が定石・定説・常識・・かを、どうすれば認識できるのか。 その2:覆す案なら何でもよいのか。 定石・定説・常識・・・にはあからさまにそうだと気づく・分かるものと、無意識・暗黙に前提してしまっていて気づかない・解らないものがある。もっと言うと、あからさまに常識だと解っても、暗黙の前提・常識すぎて、それを覆すなんてナンセンスだと思ってしまうものがある。実はそこにこそ覆すに値する大きなチャンスが眠っているのだが、無意識に可能性をはじいてしまうのだから、なかなか普通は覆すターゲットと認識出来ないわけだ。 一例をあげよう。例えばハサミ。ハサミなのだから切れるのは当然だ。ではその常識を外したら?普通に考えればナンセンスだ。切れないハサミなど意味がない。そこで思考は止まる。というよりそもそもそんな可能性を思考しない。だがみんな知っているだろう、幼児の玩具や知育用教材、指が切れないハサミ、これらはまだ切る/切らないの単純な二項対立の範疇だが、医療における手術用の鉗子など機能転換したものまで、切れないハサミは色々ある。 このように「ハサミは切るもの」といった、当たり前過ぎて覆すことなど考えられない状況・事象を「機能性固着(機能的固着)」と言う。そしてこの「機能性固着」を覆すアイデアというのは一般的に言って創造性の高いアイデアになる。柔軟剤から柔軟を取ったらレノアに繋がり、エアコンから熱交換を取ったら空気清浄機に繋がる。鉛筆から芯を分離したらシャーペンになる。ガラケーからボタンを無くしたらスマホ形状になる。などなど。今やそれらが常識・あたりまえだが、出た当初はまぎれもなく「今までにない」だったはず。 さてでは、機能性固着に気づき、それを覆す創造的なアイデアを生み出すにはどうすればよいか。誰でも実践可能な方法論がある。「強制的バイアス破壊」の方法がそれだ(弊社HP「コンセプト」欄ご参照)。簡単に言うと、商品であれサービスであれ事業であれ、機能や機能を構成するパーツ・要素を適当に分解した上で、その中の任意のパーツ・要素を「方法」に従って「強制的」に「変形」する。「変形」した上で、「そうすると誰にどんなベネフィットが生まれ得るか」を「強制的」に考え出す。これだけ。変形の方法や意味を考える方法・手順には少し習熟が必要だが、慣れれば誰でもアイデア出しがかなり上手になるだろう。信じられないだろうが本当だ。 他にも有効な方法がある。これは以前にコラム「創造性と専門性と教養と」でも紹介したが、専門性を習得すること。「専門性はバイアスの源」のようなステレオタイプに安易に都合よく乗っかる愚は是非とも避けたい。バイアスになるほどの専門性なんて殆どの人はもっていない。むしろ専門性が欠けているからこそ世間の常識・平均と変わらないことしか出来ないしちょっとした創造性も発揮出来ないのだ。例えばマーケティング担当だとしよう。つまらないマーケティング案しか思いつかないと悩んでいるなら、安易にOut of box発想などを求める前にしっかりマーケティングの専門性を突き詰めてみよう。少なくとも自分自身が沢山の目からウロコ体験をするだろう。そして、以前の自分よりははるかに色んなもの・ことが見えるようになり、創造的にマーケティングを考えられるようになるだろう。さらに。そうやって専門性を高めた結果、嬉しい副産物も舞い込んでくる。ある分野における専門性の目でもって異分野を見たとき、異分野の常識とは違うものが見えるようになる。創造性の高いアナロジーが駆動される。この副産物効果を視野に入れると、異なる2つの分野で専門性を持てればとても強力だということに気づく。詳しくは以前のコラムを参照されたい。 まだまだあるがとりあえずもう一つ。これも以前にコラム「創造性とコンテクスト」で論じたが、コンテクストを操ること。既存コンテクストとの調和、既存コンテクストを下敷きとした異化、コンテクストの創造、大きくは3つの操作法がある。コンセプト理解の補助線・補助ツールとしては視点のズームイン・ズームアウトの方法がある。こちらも詳しくは以前のコラムを参照されたい。 さて、ここまで、個人としての創造性の発揮の方法について基本的なものを紹介してきた。よってここまでの話での「戦略的」とは「計算できる」という意味合いに近い。 では、組織として「戦略的」に創造性を発揮する方法はあるのか。つまりは「創造性の発揮」を「組織のケイパビリティ(組織ケイパビリティは模倣・獲得に時間がかかるという点において競争優位の源泉になり得ます)」とすることは出来るか。個々人が創造的になれば組織全体としても創造的になるだろうが、それに加えて組織ならではの、3人よれば文殊の知恵、のような創造性発揮のケイパビリティについて考えてみよう。もう答えを半分言ってしまった。「3人よれば文殊の知恵」を実現すること。即ち異質とのオープンコミュニケーションの実現。部門間、世代間、国籍間、男女間、等などで真に対話・相談・意見・傾聴するチームを縦横無尽・柔軟に組織できるとそれだけでもかなり強い。でも決定的に重要なのは社外に開けた組織となれるか否か。事業創造ブームで今や多くの企業がオープンイノベーションを標榜し方法を取り入れている。でもオープンになれている会社はどれくらいあるだろうか。最低限の情報しか開示しない、下請け扱いする、格下に見る、駆け引きする、最悪の場合アイデアを盗もうとする、等など。元々そういう体質が染み込んだ企業が形だけオープンイノベーションを取り入れたところで盗賊的な成功はあり得ても創造的な成功はありえない。実は組織が創造的になるほうが個人が創造的になるよりも遥かに簡単なはずなのだが。現実はそうなっていない。ということは難しいということなのだが、「現実には色々難しい」と考える時点で創造的な組織作りからはかけ離れたところにいると思ったほうがよい。これは社員の、個人の問題ではない。組織の体質転換の問題である。体質転換はトップマネジメントのリーダーシップに始まり全社のビジネスシステムやガバナンス改革にまで及ぶ大きな経営アジェンダとなる。と言ってもガラガラポンは出来ない。既存事業とのバランスやトランジションマネジメントの巧拙が重要となる。さらに先がある。組織の創造性ケイパビリティ構築は、社外を巻き込んだパートナーシップ・エコシステム改革にまで及ぶ。エコシステムのトップに君臨する企業が真にオープンになったとき、パートナーシップの変容・組み換え・再発見・増殖・循環・オープンの連鎖・・が起こる。かくしてエコシステム全体に創造性が波及していく。 グローバルを見たとき、競争の次元が企業間からエコシステム間へ、競争優位の単位がエコシステム競争優位へと転換しつつある。創造性発揮の組織のケイパビリティは現代における強力な競争優位の源泉である。 (文責:金光 隆志)
戦略性と創造性と
昨今、創造性と戦略性がまるで対極であるかのように語られることも多い。 戦略アプローチはクリエイティビティの敵、みたいな。客観ではなく主観、みたいな。 その実、なぜ・どのように対極なのかを上手く説明している論にお目にかかったことはない。 創造性とは何で、戦略性とは何か、そのエッセンスを掴んでいれば造作もないことなのだが。 言葉遊びであることを了解した上で、対極という主張に与する説明を与えておこう。 戦略とは計算であり、創造性とは計算外である。 自分で言うのもあれだが、これはなかなかイケた定義だろう。戦略はロジックであり創造性は感性だ、とかいう類の説明よりは随分マシだ。 説明のココロを簡潔に述べておこう。戦略とは競争相手に勝つため・戦いを諦めさせるための作戦でありシナリオの組み立てである。これを計算と呼んだ。一方創造性とは人の認識を変えることであり、常識とは違うことである。これを計算外と呼んだ。 しかし、戦略にしろ創造性にしろ、人の裏をかいたときに最も成功するわけである。ならば最も上等な戦略とは創造的な戦略、即ち敵にとっての計算外を計算にいれた戦略なのだし、最も上等な創造性とは戦略的な創造性、即ち偶然などではなく計算して人の計算外(常識と違うこと)を生み出すこと、になる。 というわけで、創造性と戦略性は高みであればあるほど双子の兄弟のようなものなのだ。 最近では殆ど聞かなくなったが、その昔は、戦略はアートだ、とよく言われた。戦略の本質を踏まえて厳密に言うと、弱者にとっての戦略はアートだ、となるだろう。強者にとっては弱者に諦めさせるために分かりやすい戦略(競争優位)つまり計算しやすい戦略を示すことが有効である。強者がわけのわからないことをやると、逆にわけのわからない反撃を受けて自身も痛手を被る等が起こるからだ。逆に、弱者にとっては分かりやすい戦略は殆ど無効である。弱者は強者の裏をかかなければ勝てない。生存できない。つまりは創造性が求められるのだ。 一方で、余談になってしまうが、アートは戦略だ、というと意外に思うだろうか。だが世界的に成功しているアーティストであれば、何を当たり前のことを、と思うのではないか。 実際、近代以降のアートは極めて計算高く、従来のアートの計算外(常識を覆す)をモードとして生み出してきたのだし、モダン以降に至ってはアート業界の文脈を計算しつくした上で「文脈に収まる計算外」を創出することがKSFだといって過言ではない。モダンアートを理解しようと思えば、あるいはアートの世界で成功したければ、ナイーブにアーティストの内なる感性の表出こそがアートの本質、などと思わないほうが賢明だ(いいか悪いかは別にして)。 さてでは創造性と戦略性が対極どころか双子なのだとしたら。戦略的に創造性を発揮する、ということはいかにして可能なのだろうか。あるいはまた、創造的に戦略をたてる、ということはいかにして可能なのだろうか。 (文責:金光 隆志)
ムーンショットとナラティブと
ムーンショットプロジェクト。ナラティブアプローチ。どっちも言っている自分がちょっと恥ずかしくなるジャーゴン(今やバズワードか)だが、ちょっと考察するきっかけがあり、得るものがあったので簡単に書き記しておきたい。 イノベーション方法論の文脈で語られるムーンショットとは、通常の努力・技術・発想・・ではとても実現できそうにない野心的なプロジェクト、と言った感じか。 さて、ムーンショットをこのように定義したとき、イノベーションに繋がる目標設定のありかたとの関連・幾ばくかの真実がそこに見て取れそうである。 目標設定はイノベーションのドライバーの一つ(全部ではないのはもとより、常にということでもないのだが)になる。ではイノベーションをドライブしてくれる目標の要件はなにか。 達成困難な大胆な目標、というのは殆ど同義反復なので、要件というより前提であるとして。 先ず、自分(達)が夢中・熱中するものであることが必要条件。言うまでもないことのようだが殆どのプロジェクトあるいは殆どの人がここで落第となる。繰り返すが、目標だけがイノベーションのドライバーではないのだから、熱中出来ないとイノベーションのチャンスがない、とまではいわない。だが取り組むことが苦しくても快感であり、ときに寝食を忘れるほど熱中して取り組めるからこそ、隘路を乗り越える気概もチャンスも運も生まれる。と、私が言っても説得力が無いかもしれないからジョブズを引用しておこう。ジョブズの方が強烈だ。曰く「情熱は大きなことをやり遂げるための唯一の方法」であり、「成功と失敗の分かれ目は諦めるか否かだけ」だと。うん、ジョブズが言うとバッサリ言ってても深い感じがする。 また、経験のある人にはわかるだろうが、夢中はある種のフロー状態・トランス状態を生む。思考と感覚が静かにそして鋭敏になっていく。いまここの経験や意識が鮮明になり、一見関係のない過去の記憶や経験が殆ど無意識に呼び出され結び付けられていく。と、これも私が言っても説得力が無いかもしれないが発達心理学や認知科学でも実証研究は進んでいる。創造のプロセスと夢中には強い相関があることがわかっている。 次に、周囲に人が集まるものであることが十分条件。今や大きなイノベーションは一人や一社で実現できることは殆どない。課題も求められる解決策も20世紀と比べて格段に複雑さを増している。多くの人のプロアクティブな参画・協力が不可欠となる。では人が集まる条件とは。「賛同される」「意義を感じる」「好奇心がそそられる」などである。「利得を感じる」のはもちろんあったほうがよいが、それだけ、あるいはそれが最初にくるのではだめ。金の切れ目が縁の切れ目になるのがオチ。隘路に直面した途端に雲散霧消するだろう。 ここでムーンショットのオリジナル、文字通りのアポロ計画について見てみよう。為政者にとっては、宇宙開発競争による対ソ軍事戦略優位の危機、という抜き差しならない賛同の契機があった。一級の科学者やエンジニアにとっては、科学の進歩・人類の進歩・人類初へのチャレンジ、という生涯の中でも滅多に得がたい挑戦テーマであった。また、関与するスタッフにとっては意義ある取組みへの参画の誇り、民衆にとっては人間が月に行くというSFのような現実のロマンを掻き立てられるものであっただろう。なおアポロ計画の為政者を経営陣、科学者をイノベーター、スタッフを関係各部や協力企業、民衆を生活者・ユーザーと置き換えて考えてみよう。企業のプロジェクトのメタファとなるだろう。アポロ計画は周囲にプロアクティブに人が集まる条件を満たしていたのがわかる。と同時に、対象となる人によって、その意味・意義が少しずつ違うことに気づく。ここにヒントがある。目標が壮大というだけでは人は集まらない。[有人で月面着陸」という目標は大胆かもしれないがそれだけで多くの人が成功に向けて行動を起こすことはない。なぜいまなのか、誰にとってどんな意味・意義があるのか。云々。それぞれの立場の人にとってのコンテクスト形成と意図の練り上げ・昇華、それをまとめ上げる大きな物語があることが重要である。いまどきことばで言えばナラティブということだろう。因みに所謂問題解決力の発揮にもコンテクストや物語が大きく影響することが認知科学の簡単な実証研究で明らかになっている。イノベーションのドライブにも大いに関係するであろう。 ムーンショットとナラティブと。巷の「なんちゃってムーンショット」や「ナラティブなんちゃら」などを見るにつけ酷いもんだと半ばうんざりしていたが、少し掘り下げ補助線を引いて本質を考えてみると案外意味のあるイノベーション方法議論が出来るものだと見直した。イノベーションに繋がる目標とはどのようなものか、目標を実効性あるものにするには何がカギか。テーマが新規事業か既存事業か、個別事業か企業全体か、さらに言えば事業か組織か、などによらず、大きな示唆がここにある。 (文責:金光 隆志)
創造性とコンテクスト
すべてはコンテクストである。とひとまず言ってみよう。 実際どんなモノもコトも、時間的空間的コンテクスト無しには何ら意味を持たない。逆にコンテクスト次第でモノやコトはいかようにでも物事として意味を帯びるだろう。コンテクストと言うとわかりにくいかもしれないが、要はどんなモノもコトもそれ自体には意味はなく、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて正負様々な意味を帯びる、ということだ。 あたりまえ?そう、当たり前です。当たり前なんだけど、ここに「クリエイティブ」の全てのヒントがあるとしたら? その点を了解するために、クリエイティブとはなにかをちょっと考えてみよう。 あるモノやコトを見たとき、それがクリエイティブかどうかはどう見分けられるか。 革新的かどうか?じゃあ革新的ってどう判断する?ということで答えになってない。 今までにないものかどうか?ちょっとはマシな答えだけど、じゃあ例えばそのへんにある紙をグシャっと適当に丸めたら今までに無い形なはずだけどこれはクリエイティブ?いやそれ意味ないじゃん、という声が聞こえてきそうですが、そう。「意味」が無いと意味ありません。笑。では意味はどう生まれるか。これはさっき述べたとおり、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて意味が生じるわけです。どうでしょう。あるモノやコトがクリエイティブかどうかはコンテクストと決定的に関係がありそうですよね。でもまだちょっと抽象的でピンとこないかもしれない。そこでもう少し具体的な補助線を引いてみていきましょう。 補助線その1。 あなたは和室のエアコンに違和感を感じたことは無いだろうか。 畳、襖、障子、床の間、欄間、長押、あるいは掛け軸や陶器、茶具などの調度品、障子から漏れ来る薄明かりの織りなす陰影・・質素で侘びた空間、時間の経過による傷み・寂れ、それらこそが日本的な枯れや幽玄の美を構成している。で、そこに近代的で機能優先的で、どうだと言わんばかりに存在感を主張するエアコン本体、不細工な配管シールド。合わない。「真」「草」「行」などいずれのスタイルにおいても、絶望的に合わない。もしも違和感を感じないとしたら、モダン化した和室を見ているのか、あるいは見慣れ過ぎて当たり前の風景として見逃しているかでしょう。ということでどうでしょう。コンテクストを見ることで今までに無いエアコンを考えるヒント、見えてきそうではないですか?これが所謂アンメットニーズとか無意識の妥協の発見、ってやつの源泉・本質です。 補助線その2。 マルセル・デュシャンの「泉」はご存知だろうか。 磁器製の小便器に署名をしたもの、それが「泉」というアート作品です。ところで今さりげなくアート作品と言いましたが、果たして何がある作品(モノ)をアートたらしめるのだろうか。以前「イノベーションとアート」という当コラムの論考でアートとは何かの試論・素描はしましたが、ここでは違う観点で、人々にアートだと認められるとはどういうことか、を見てみると、美術館・ギャラリー・コレクション・キュレーション・オークション・富裕層。これらの連関がシステムとしてアートを構成しているのであり、システムに組み込まれたものがアートとなるわけです。システムをコンテクストと置き換えてみよう。「泉」はこの「隠された」事実、アート業界という欺瞞(は言い過ぎか)のコンテクスト、に2重の揺さぶりをかけています。第一に、このコンテクストに組み込まれ・飾られたものがアートであるという事実に「小便器の展示」という異化作用によって気付かせる・明るみに出す(現前化)ことで。そして第二に、実はこの作品は、デュシャン自身が委員長を務める展示会の実行委員会から出品を断られているのだが、それに対し、委員長辞任で不服を表明することで、既存の価値を揺さぶる革命こそがアートではないのか(異化)、だがかといってでは既存の価値を逸脱すれば何でもアートなのか・その線引は・・という決定不能性を明るみにだすことで。 長くなりましたが、まぁ、あるものをあるものたらしめているのはコンテクストであって、そのコンテクストは往々にして暗黙化しているが実は恣意的なものなのであって、従ってオルタナティブの可能性が常にあること。これが所謂常識や無意識のバイアスへの気付き、ってやつの源泉・本質ですね。 補助線その3。 あなたは子供のらくがきがプリントされた、他に何の変哲もない白いTシャツを売る自信はあるだろうか。まぁ何だって売れなくはないだろうが、そういう話ではありません。 例えば。 この子供のらくがきは実は、アフリカの難民や超貧困層の子どもたちの手によるもの。域内食糧難の大きな要因の一つは先進国への牧畜用食料輸出であること、限られた優良な耕作地や地下資源鉱脈は北側諸国・企業に専有され、原住民は疎外されていること。即ち、南の貧困はリアルに北の贅沢とリンクしていること。そしてそのような経済問題の隠蔽を告発し、介入すべく有志のアーティストが立ち上がり、アフリカ農園労働者の美術制作を支援するアートサークルプロジェクトが立ち上がっていること。その一環で、子どもたちにも絵画の機会を与え、歓びを生み出していること。そしてこのT-シャツは、当プロジェクトとのコラボレーションで生み出されていること。云々。 こうしたコンテクストがあると、この商品の意味、この商品を買う意味、着る意味、語る意味、などが大きく変容してくるでしょう。これは本質的には価値の創造なのだが、まぁ今どきの言い方でいえば、これがエモいストーリーってやつになるでしょうか。 補助線その1は「コンテクストと調和」、補助線その2は「コンテクストの前景化・からの異化」、補助線その3は「コンテクストの創造」です。補助線1と2は「既存コンテクストの理解」を前提とした言わばコインの裏表のような関係であることを付言しておきましょう。クリエイティブとはこのどれかを達成しているものです。 クリエイティブの秘訣。それはコンテクスト(モノ・コトの関係の網)への眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造、というわけです。 (文責:金光 隆志)
消費の生産
モノやサービスを生産して販売するのが企業。それは半分正しい。そして半分も足りない。 いや、もしかすると半分以下かもしれない。 つまりモノやサービスを生産して販売するだけでは企業活動として片手落ち。企業は消費、もっと言えば欲望を生産する主体でもあるのだ。 何を当たり前なことを?そうだろうか。 モノやサービスを必要(≒ニーズ)な人(≒ターゲット)に的確に知らせ(認知)買ってもらう(購買)、その為に注意や興味を引く装飾・修飾・レトリックも使う。多くの企業がマーケティングをそのように考えているのではないか。 殆ど主従が逆である。「ある」と「ない」も逆である。 もともと「ある」ニーズを掘り起こす、のではない。もともと「ない」注意や興味(≒欲望)を創り出し、そこに自社の商品やサービスをあてこむ・合わせる、その為にニーズだターゲットだといったレトリックも使う。 過激に聞こえるかもしれない。だが、それこそがアメリカが創ったビジネスフォーマット、アメリカ覇権の源泉と言っても過言ではないだろう。 大半の商品・サービスにとって、欲望は最初からあるのではない。欲望は作りだされなければならない。商品やサービスを作っただけではそれ自体は欲望中立的、と心得よう。 欲望は、社会・文化・心理・意識によって形成される。よって、それらを援用して形成すること。その為に刺激(シグナル)を構成すること。五感作用・認知作用・意味作用の法則・コードを援用すること。 欲望の形成はメディア特性にも大きく依存する。ソーシャル化したデジタルメディア環境では、欲望がより刺激ー反応的に、同時に模倣ー集団的に、一方で統合を欠いた分散ー部分的に、流動的になってきている。プラットフォーマーだけが勝ち続けられることと無縁ではない。 プロダクトアウトではなくマーケットプルのことを言っているのだろう、と思うかもしれない。全く違う。プロダクトアウトもマーケットプルも欲望についての考え方という点ではどちらも同じ穴の狢であることに敏感であって欲しい。 欲望は創られるものである。殆どの商品に対して、欲望は作られる前には存在しない。 欲望生産のビジネスシステムを洗練させること。欲望生産を軸に企業活動を再編すること。 あなたの企業・ビジネスを根底から変えることになるだろう。 (文責:金光隆志)
創造的態度
誰しも、どんな企業も、創造的でありたいと思っているだろう。書店にいけば創造性発揮の方法論や思考法に係わる本がずらりと並んでいる。私の知る限り、それらはほぼ全部、創造的に考える為の優れた技術、手段、ノウハウ、テクニックで、それぞれに面白いところがあるし、何某かの気づき・学びは必ずあるだろう。 しかし、創造性発揮の為には、手段に先立って大事なこと、本質的なことがある。それは思考態度とでも呼ぶべきものだ。それを欠いて手段に走ったところで、アイデアマンになれるのが関の山であろう。逆に、思考態度が染みついていれば、手段の洗練を欠いても、創造的で鋭い思考を実践することが可能になるだろう。 さて、 創造性発揮の思考態度には、ほぼ真逆の2つの方向性がある。その①は「それって本当か」 という、言わば真の問いや答えを追求する方向、その②は「そうだとすると」という、言わば問いや答えの外延をどんどん押し広げる方向、この二つである。 この二つ、方向性は真逆だが、実は創造性の敵に対して同様なチャレンジを行っている。 創造性の最大の敵は何か。思い込み?常識?バイアス?ステレオタイプ?確かにそれらは全て創造性の敵だが、真の敵では無い。それらは真の敵の影であり現象である。では真の敵とは?それは思考停止である。 何かを確定的・断定的に語った瞬間、思考がそこで停止している。何かを受け入れた瞬間、思考がそこで停止している。何かを無意識に行った瞬間、思考がそこで停止している。 創造性はそこから先にある。思考停止の瞬間を捉まえたその時こそ駆動させるべき思考、それが、①「それって本当か」②「そうだとすると」である。そして、①に引き続き「それって思い込みじゃないか」「それは一面でしかないのでは」「それが真の問いか」「もっと大きな文脈で考えると実は」「見方・切り口を変えると」云々といった思考が、あるいは②に引き続き「それってこういうことに繋がる」「それが真ならこうも言える」「それに因んで実は斯々然々で」「だとすると次に考えるべきは」云々といった思考が誘引されるだろう。 二つの思考態度をうまく駆動させるにはコツやテクニックというのもあるが、本稿の範囲を超えるので、次の機会に譲る。だが、習うより慣れろ。ことあるごとに①②の問いを発し、思考停止を破るクセをつけることが第一歩であることは付言しておく。 ところで、この思考態度、どこかでお目にかかった覚えは無いだろうか。 ピンときた人はなかなかに鋭い。最も原理的に思考するとはこういうことなのだが、ある哲学者が生涯にわたって実践していたこと、と言えばお分かりだろうか。彼は専らアイロニカルな結論に導くのが目的だったようではあるが。 (文責:金光隆志)
オルタナティブ未来構想
ここ1,2年、未来構想について見聞きすることが増えてきた。 個人的には6,7年前ごろからこの種のテーマで検討依頼を受けることが増えていたが、当時は、10年・20年先を議論する日本企業は稀な存在だった。 今や、未来を創造する、世界を変えるといった議論はごく普通にみる風景となった。未来を構想する企業が日本に増えることは喜ばしいことだ。 ところで、最近の未来構想に関する論調で気になることがある。未来構想においては主観こそが大事・重要という議論である。 「起こるであろう未来ではなく、起こし得る未来を構想せよ」「確定した未来などない、人間の意思・目的意識が世界を形成していく、未来は創られていくものだ」云々。 人間中心主義(というのも大げさだと思うが)、バックキャスティング、想定外未来、フューチャーセッション・・・などがこの手の議論の方法論的ヴァリアントだ。 論旨に異存はない。未来「構想」というからには、人が構想するのは当然である。 だが、「現状制約は一旦脇に置いて、ありたい未来・創りたい未来を議論し考えましょう」といった、未来構想ならぬ未来妄想。「自分主語で共感的な物語を紡ごう」「その物語を共感を通じて皆に広げていこう」といった共同主観的ナラティブなんとか。云々。こうなると最悪である。 断言しておこう。無駄骨である。 頭の体操的・発想法的研修ならいざ知らず、実践においてこんな議論から、覚悟ある未来への行動が生まれることはない。 なぜか。 現実のラディカルな理解なしに、クリティカルな問題意識は生まれない。 クリティカルな問題意識無しに、未来への覚悟・投機/投企は生まれない。 覚悟・投機/投企無しに、構想したナイーブな未来が実現することはない. ではどうするか。 本稿で詳述は出来ないが一つの方法は、現実をキュビズムのような手つきで解することだ。 現実の中にある、様々な兆候。微かな変調。異常の痕跡。それらをエクストリームに未来に向かって拡大・延長・展開してみること。するとどんな未来像が立ち現れるか。極端で非現実的なSF未来が浮かびあがるだろう。それでよい。その未来像から再び現在を振り返ったとき、クリティカルな問題意識が刺激されオルタナティブへの思考が発動する。 少しテクニカルな話をすると、エクストリームに拡大・延長・展開するとき、剥き出しの人間の欲望・社会の欲望を補助線にするとよい。そうして描かれた未来像は、非現実的であっても妙に生々しくリアリティがあるはずだ。 そして考える。 もし未来がこうなるのだとしたら、我々はどうなるのだろうか。 この未来において、我々にはどんな可能性が開かれるだろうか。 逆に、未来がこうならないためには、何が必要だろうか。 我々はどんなオルタナティブ未来を望むか。・・ この作業を繰り返してみる。繰り返した数だけオルタナティブ未来が浮かび上がる。 こうして考えたことがそのまま未来構想になるわけではない。 だが、そこから考えを地におろして、再び現実の諸条件、人々の欲望、自分達の欲望と照らして、オルタナティブ未来をよりリアルにイメージ出来るものへと慎重に画像修正する。 退屈な現状の延長でも、空疎なアイデアでもない、リアルでクールな未来構想へと近づいていることだろう。 未来構想が主観か客観かはどうでもいい。どっちでもいい。 大事なのはリアルのラディカルな理解からクリティカルな問題意識を駆動すること。 大袈裟に言えば、現実とは存在論的にも精神分析的にも、汲み尽くすことのできない生成可能性の潜在だ。 量子力学的な比喩も援用してパラグラフを続けよう。すべての未来がいまここにある。それらは確率論的に潜在している。次の瞬間確率1である状態へとあらゆる可能性の未来が集約される。と同時に再び可能性の潜在体として現前する。この現実≒確率論的未来潜在体に対して慣性の力は強力だが、その慣性に一瞬抗い僅かな変異をもたらす程度のエネルギーなら都合はつく。但し慣性圏を抜け出すには変異エネルギーを継続して供給しないといけない。その原理・原動力は欲望ポテンシャルである。 リアルこそ、優れてスリリングなSF小説ネタの宝庫であることを付言しておこう。 (文責:金光隆志)
専門性と創造性と教養と
専門性は創造性発揮の障害になる、と語られる。専門を突き詰めるほど視野狭窄に陥る、専門知識がバイアスになる、等など。 この傾向は半ば認めねばなるまい。専門性とは、ある認識のスキーマ(しかも多くの場合制度化されたスキーマ)において蓄積された知識と技術に精通・習熟し、それを縦横無尽・半ば無意識に操作できる状態を指す。つまりは無意識に、ある認識のスキーマで物事が見えてしまう状態になるわけだ。だから、そのスキーマの外でモノを見る・考えることに困難を伴う。かなり意識してスキーマの外で考えようと思っても、無意識の専門思考の方が勝って働く。だって無意識に働いてしまうのだから。 そこで昨今は、広い教養が必要、欧米では専門課程に入るまでに西洋的教養を徹底的に叩きこまれているが日本にはそれが欠けている、創造性の時代には専門性だけではなく広い教養が必要なのに、となっているわけだ。 教養が横断的知性の源になり得る、というのは正しいだろう。色々なことをつまみ食いしておくと、ある時ある事案で思いがけないフュージョンが起こらないとも限らない。 けれども、クイズ王的つまみ食いや、最近巷にあふれている「社会人の為の〇〇」みたいな本ばかり読んで幅広い教養を身に着けよう、なんて戦略は最悪。恐らくは茶飲み話にすら使い物にならないだろうな、と思う。 教養を「使い物になるか否か」という文脈で語るのも憚られはするけれど、使い物になる教養を身に着けようと思ったら、相応の訓練、その分野での認識のスキーマを最低限度は獲得し、多少の専門書も読める、くらいじゃないと。だって問題は認識のスキーマなのだから。色んな認識のスキーマでもって、一つのことがらを色んな切り口・眼鏡で見えるから創造性に繋がるわけで、「社会人の為の○○」読んだところでそんなもの身につきません。 よってもって「幅広い教養」を武器に創造性を発揮する、なんて戦略は、殆どの人に無理な相談なのです。 幅広い教養を否定しているのではない、むしろ教養を広め・深めていくことはとても楽しいことだし、人生を豊かにも、逞しくもしてくれる。だから若者たちには雑食でよいから色んなことに首を突っ込むことを推奨したい。先ずは入門からなんてチマチマせず、最初からプロ級の仕事や技にも触れていって欲しい。でもそれは奥深さの射程を測るため。一朝一夕に新たなスキーマを獲得できることはない。教養は長い年月をかけて少しづつ育んでいくもの。何かの手段としてではなく、それ自体を目的(と言って固すぎるなら趣味)として楽しみながら精神を滋養していくもの。さすればいつの日か、知のフュージョンが起こせるかもしれない。起こせないかもしれない。教養とはそういうものです。 では差し迫った今、創造性はどうやって発揮すればいいのか? 実は専門性にこそ、そのヒントがあるとしたら? 専門性とは、ある認識のスキーマへの習熟、無意識に働き得る認識スキーマのこと。分かり易くこれを色眼鏡と呼んでおこう。さて、仮にある分野でものすごく見通しが良くなる色眼鏡を手に入れているとしよう。それは、その分野の中だけでモノを考えるときにはバイアスのもとにもなり得るだろう。しかし。 その色眼鏡をかけて、他の分野のことを見て見たらどうなるだろうか?当然ながら他分野を見るための色眼鏡ではないから、他分野に最適な色眼鏡とは違った景色が見えるはず。 ということは、そうです。これってまさに創造的なモノの見方の出発点ではなかったか? 以前コラムで異質ソリューションの威力というのを紹介した。実はこの異質ソリューションに気づく・発見できる力の源泉・メカニズムの一つが、ある分野の専門性(色眼鏡)でもって他分野を見た時の思いがけない気づき、なのです。 創造性の勝利の戦略は明らかです。専門性を磨くこと。一つは仕事で。そして出来れば何か一つ、全然違う分野で趣味としてセミプロくらいの専門的教養、この二つで十分。 そして、その専門の認識スキーマ・色眼鏡・無意識の思考でもって、異分野を見てみる。その異分野でのモノの見方や技術の使い方からすれば非常識なことが見えるはず。非常識=不正解とは限らない。でもそれが正しいかどうかはどうでもいい。あなたに見えた異分野での非常識は、あなたの分野の色眼鏡で見えたモノなのだから、あなたの分野に適合・応用できる可能性は十分あるのです。 ここが重要なTake away。中途半端な「幅広い教養」なんぞであなたの分野内部を見たところで、多分何も新しいモノは見えない・気づきがない。一方、自身の深い専門性で他分野を見たときに、その他分野から自分野に応用できるような、新たなパターン認識が生まれ得る。これは優れて洗練されたアナロジー思考の一種だと言えるだろうが、これを話し出すとまた長くなるので、本コラムはこの辺にて。 (文責:金光隆志)
イノベーションとアート
イノベーションとアートは近親関係にある。 巷では、合理や論理では出てこない解、直観的・感性的な解を求めてアート的アプローチ、云々と言われているようだが、恐らく言っている当人が何のことだかわからず言っている。 消費について、論理ではなく快楽論者である私は、感性の判断を信じるものではあるが、この手の「アート」と「サイエンス」を対立に置いて論じる議論には与しない。 さておき、アートは悉くイノベーションである。 この点を了解するために、アートとは何かを簡単に考察しておこう。 乱暴に言って、アートとは、「日常」「普通」「常識」へのチャレンジ・超克作業である。 例えば。 日常何気なく見過ごしているモノや風景を「異化」「現前化」して新たな意味や今まで感じてこなかった感覚を呼び覚ます。マルセル・デュシャンの「toilet」、Chim↑Pomの渋谷の大ネズミで作ったピカチュウ、谷川俊太郎のいるかの詩、云々。ファインアートにおける「異化」ではシリアスなメッセージ性を持ったものが多いが、それが脱聖化されてポップになると、奇譚倶楽部の「コップのフチ子」「定礎」のような商品、あるいはピコ太郎の「パイナポーアポーペン」になる。 例えば、 作者や作品の唯一性、アウラ、それらを制度的に保証する評論、文壇、美術館といったものの虚構性を暴き出すアプロプリエーションやシユミレーショニズム。これらは言わば非日常や特別ということを「異化」しつつ、逆説的に現代の日常を「現前化」している。ある種の広告表現やハウスミュージックなど、サンプリングやリミックス手法を駆使して作られた作品の、全く空疎だが無意識のうちにハマるドラッグ性を思い起こせばよい。 例えば。 規範や常識・良識と言われているものを「侵犯」「逸脱」し、抑圧されたエロス・タナトスの欲望を垣間見せる作品。マルキド・サド、クロソウスキー、XX等々。それが脱聖化されポップになれば、アヴァンギャルドなアンダーグラウンドカルチャーになる。言うまでもなく消費シーンに現れるアヴァンギャルドは訓化されたアヴァンギャルドだ。 例えば。 「日常」や「普通」を端的に超克した美・快。イデアや神の領域を目指すもの。この系統は制度化・時代の制約を免れがたくはあるが、王立アカデミー系の芸術群、政治性を排して端的に色彩や形態の美を追求したアメリカ版モダニズム、パスティーシュを駆使したトランスアバンギャルド等々。私たちの審美的感覚はこれらのコードを介して内面化されているからして、美意識に訴える商品デザインはこれらのパスティーシュ、パスティーシュの連鎖として現れる。 さて。これらは悉く、「日常」「普通」を打ち破るもの。すなわちイノベーションである。 アートをイノベーションに応用するとすれば、このパースペクティブにおいてであろう。 そしてこれは、半ば方法論化が可能、つまり強力なイノベーション手法になり得るのだ。 方法論化されたアートなどアートたり得ない?そりゃそうです。ビジネスの話なので。 (文責:金光隆志)
価格とコストと創造性と
コストと値付けに関する深い議論をトンと聞かなくなった。特に新事業や新サービスでは殆ど聞かないのだ。 基本的にはマークアップ方式で、作るのにだいたいいくらかかるからこれだけマージン乗せて、というような感じであろうか。 ターゲット価格を定めて、それを満たすべく仕様・デザイン・部品・工程などをギリギリと詰めて考えるというのはどうやら時代遅れか的外れになったかの様相だ。 売れるかどうかも解らない段階でスペックをいじっても仕方ない、先ずは市場にβ版を投入して反応を見ながらリーンに改良を加えていくべきだ、云々。正論である。 イノベーションの段階ではそんなことは考えない、いや考えるべきではない、それは事業が大きくなってきてマスユーザーを対象にする段で改めてしっかり考えるべきことだ。云々。これも正論である。 イノベーションやスタートアップの教科書には大概その手のことが書いてあるだろう。 でもそのことでかえってクリエイティビティが下がっているかもしれないとしたら? 実際創造性の教科書には逆のことが書いてある。 制約を加えた方がかえって創造性は高まるのだと。 市場の商品価値体系を元にシビアに要求価格を設定してみよう。直接競合がいなくても、いやいない時こそ。するとたちどころにトレードオフが発生するはずだ。この機能を入れたい・でも入れると他を削らなければいけない、とか、デザインはこうしたいけどそうすると生産効率が大幅に落ちる、とか。 このAかBかの選択をシビアに詰めるだけでも随分と商品やサービスが洗練されるだろう。そして最も創造性が発揮されるのが、AもBも両方外せないときに浮かび上がる第三の道Cが考案されるときだ。AもBも満たされる場合もあればAもBも棄却する場合もあるがいずれにせよ第三の道である。 かつて、売上急落に直面したアパレル企業で、毎週このAかBか、いやCだ、の議論をして52週MDプロセスを刷新し、売り上げを急回復させた企業にお目にかかったことがある。 市場の要求価格水準に絶対に妥協しないことで、売れる確率が上がっただけでなく、思いがけないクリエイティブな解決策でむしろデザイン性もよくなってヒットする商品も誕生していた。 既存事業と新事業ではワケが違う、と考える向きもあろう。実際全てが同じではない。しかし、ビジネスである以上価格とコストが最終審級の双璧であり、価格とコストに向き合うことで創造思考も戦略思考も一段と覚醒するこは覚えておいてよいだろう。 (文責:金光隆志)