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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
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モードとコードと消費と
随分と長い間コラムの更新を怠っていました。 心機一転、また徒然なるままに書いていこうかと思っている次第です。 再開第一弾は消費論。 過去にもいろいろと消費について論じてきましたが、チャットGPTやら生成AIがバブってきたいま、あらためて、人間が意味を考える意味を考えてみたい。ん? ということではじめましょう。さて。 大分前にはなりますが、【消費メカニクス3.0】という題で、コラムを書きました。 そこでは、消費行動は我々が思っているほどには自由な意思によるのではないこと、構造的に規定されていること、データサイエンスが人の意思を思いのまま操作しつつあることなどを論じました。 今回は【生成】に関わる話をできればと思います。そのために、まずは消費メカニクス3.0で述べた【構造】の話を、文化の理論の古典を下敷きに再確認しておきましょう。 人間の行動の殆どはコードに則っている、あるいはコード化されています。コードというと勿体ぶって聞こえますが、要は例えば社会慣習とか流行とか自分の中での習慣化とか。人間=コード・コード化する生き物、とさえ言えるかもしれません。 なんでか。よくわかりません。 この、よくわからないという時点ですでに、人間が意味を考える意味が垣間見えるのですが、さておき。 人の行動を統制するコードにはあからさまなものもあれば気づいていない・無意識に作用しているものもあります。また、一つの行動は様々なコードが複雑に絡み合い影響を及ぼした結果、としてあります 例えばあなたが誰かに一目ぼれしたとしましょう。それは運命と呼びたいかもしれません。絶対普遍だと思うかもしれません。だけど多分違う。 あなたが現代人なら、19世紀のコードではなく20世紀や21世紀のコードだし、日本で暮らしてきたならアフリカのコードではなく日本のコード、あるいは、生まれてこのかたどういう人と出会ってきたのか、どんな集団に属してきたのか、などからもコード化されている。 自分自身、なんでその人に一目ぼれしたのかわからなくても相当適度にコードや広義の社会学習の堆積から決定されている、だろうと思われます。 つまり、欲望はコード化されている、あるいはコードが欲望を喚起する。 消費のメカニクス3.0の議論は、この潜在するコードの複雑な影響をAIがパターン認識して中毒的・衝動的な反応(消費)が引き出されている、コードを侮るな、ということでした。 そうすると人間の欲望・消費はもはやAIの思うがまま、人間が介在する余地はない、のだろうか。ほとんどそうなのかもしれない。そうなっていくのかもしれない。 しかし、実はひとつ、絶対にAIが作り出せないものがあります。何か。 それは、コード自体です。 AIには既存のコードを解読できても新しいコードを生成することは絶対出来ない。なぜか。 コードは人間の社会活動、関係のネットワークによって生成されるからです。コードは社会・関係のネットワークの中にしか存在しません。もっといえばコードとは関係のネットワークそのもの、です。 日々の社会活動や関係のネットワークから新しいコードのSeedが沢山生まれています。あらゆる瞬間のあらゆる現場におけるあらゆる関係にSeedが宿る、というとロマンティックすぎるでしょうか。でもきっとそうなのです。そうしたSeedのほとんどはそのとき限りで泡のごとく消えていきます。しかし極々一部のSeedは、先ずは局所的に繰り返され・模倣されはじめる。ですがこれはまだコード以前、いわばモードの段階です。モードも殆どがすぐに消滅します。そして極々一部のモードだけ、改変されながらも局所から領域へと模倣が広がる。トレンド段階です。トレンド以降、模倣がより大域へと広がっていく。ファッション(流言・流行)の段階です。ファッション段階までくれば、一定程度、コードとして機能し始めたと言えるでしょう。 では、どんなものが新しいモードとなり新しいファッションへと発展していくのか。 それはわかりません。わからないから生成なのです。 既存コードの組み合わせや応用範疇で生み出せるファッションはあります。大半のトレンドやファッションはこれ。これらは生成ではなく再生産と呼ぶべきもの。再生産型トレンドやファッションはそのうちAIでも生み出せるようになるでしょう。いや、フェイクニュースの大拡散なんかを見ているとすでに起こっていること、なのかもしれません。 でも、既存コードを逸脱した行動・言動・モノ等が、関係の中でどう体験されるか、あるいはどんな新しい関係を生み出すのか、既存コードから読み解くことは出来ません。繰り返しますが、もし読み解けるなら、それは新しいコードを生み出してはいません。生成AIが作り出せるのは古いコードで読み解けるものだけ。つまり新しいコードは生成出来ないのです。 さて、長々書いてきた割には、だからなに?という感じの話になってきてしまいました。 ここからインプリケーションのある話に繋げていくには、さらに長々と論じるべきことがありそうです。 再開第一弾はとりとめのない話になってしまいましたが、リハビリということでご容赦を。 (文責:金光隆志)
消費のメカニクス 3.0
マーケティングにおいて大事なことは何か? 消費者の理解?新たな提供価値の構想?購買欲を刺激する仕掛け? 等など。 もちろんどれも大事。というより、それらを行うことがマーケティングですね。 なので、ここでの問いは、それらを行うにあたって、あるいはそれら以前に、大事なこと、です。 それは消費者理解・提供価値構想・購買欲刺激云々に通底する「構造」の認識、です。 もっと言うと、人の行動は構造に・あるいは構造的に規定されている、という認識を持つことが最重要です。 ひとは皆、一人ひとり個性が違い、個性に応じて主体的に意思決定している、と思っています。確かに、個人によって趣味嗜好には違いがあって、それによって意思決定は影響されています。しかし、その趣味嗜好の違い自体が、実はかなりの程度構造的に規定されているのだとしたら? ちなみに消費の構造的規定というと、一昔前(大昔ですが)に流行った議論、と思う方もいるかもしれません。まぁそうなのです。が、一周回ってデジタルの発展によって止揚した形で、その重要性が益々先鋭化してきた、という感じです。図式化して言えば、 「構造が大事」⇒「構造はダメ・個(別)性が大事」⇒「個(別)性だと思っていることの構造が大事」 みたいな。ちょっと単純化しすぎましたが、まぁイメージはそんな感じです。 どういうことか その1:人間=「ポピュレーション」。 人間の行動や欲求は、かなりの程度、デモグラフィックに代表される構造特性によって規定されています。構造特性(属性)には大別して、人口・疫学的属性、社会・文化的属性、経済的属性があります。性別・年齢帯・身長体重・既往症・遺伝子などが人口・疫学属性、家柄・家族構成・ジェンダー・地域・学校・世代・流行経験・幼少体験などが社会・文化属性、職業・役職・雇用形態・年収・世帯年収・資産などが経済属性、です。 その2:人間=人間という「生命種としてのアルゴリズム」。 以前のコラムで、生命=欲望、生命活動とは広義の欲望のFilled-Unfilledギャップを埋める活動≒エネルギー代謝の活動、という話をしました。そして、他の生物とは違い、人間の欲望は方向付けがない・尽きることがない・満たされきることがない、という話も。こんなにも沢山の商品があることがその査証でもあるのですが、それを裏返して言うと、どんな方向にであれFilled-Unfilledギャップを生成すればそれを埋める反応をする、ということです。ちなみに、人の欲望の殆どは人間だけが持つであろう自意識を経由し、その際に精神分析的な意味での他者の欲望の欲望に媒介されます。今どきの承認欲求もベタな例です。一方で人間は行動経済学や社会心理学が明らかにしている通りかなりシステマティックに判断や認知のエラーを起こします。それらの知見の多くが地域や人種によらずあてはまることは、人類種にほぼ共通の判断や認知アルゴリズムがあることを示唆しています。 さて、そんなマクロ属性や生命種特性なんかで現代の複雑な消費者や高度化した消費社会・商品経済を理解できるものか、と思う人は多いでしょう。私もそう思うというかそうであって欲しい。けれども、そうした思いとは裏腹に、現代のデータサイエンスや人間科学は、人の行動が統計的・生物学的・構造的に殆ど決まっている(あるいは決められ得る)ことを明らかにしてきています。もっと言えば、データサイエンスや人間科学の応用によって人の個性や理性は益々空っぽにされてしまった。されたというのは言い過ぎで、意図的にというより結果的にでしょう。いずれにせよ、人は立ち止まって考えるような面倒くさいことはしなくて済む代償として言わばポピュレーションとしての属性・人類という生物種に備わった特性に突き動かされるばかりの存在になってしまったということ。そして、世界の支配的プレーヤーは今や、このポピュレーション・人類という生物種のアルゴリズムや振る舞いの統計的傾向の操作によって莫大な利益を生み出しています。最も先鋭的にはGoogleやFacebookで、彼らのAIやアルゴリズムによって人は意のままに操作され得ます。彼らのAIはあなた以上にあなたをうまく操ることができるのです。 「人類という生命種のアルゴリズム」についてもっと深い議論をするには人間科学(の応用)最先端のコンバージェンスを理解する必要があり、ここではそのスペースも簡潔に語る力量もありませんが「ポピュレーション」のマーケティングについてはもう少しパラフレーズを続けましょう。 デモグラに代表される構造属性の重要性・決定性は、日本における昨今のクリエイティブや事業構想・創造ブームの中で過小評価されています。もっと言うと殆ど無視されています。 曰く、 「差別化」や「イノベーション」のために「提供価値の革新」によって「今までにない市場」を創造することが重要、そのためには漫然と「市場の平均」を見ていてはだめで極論すれば「特定の1人」が本当に「ハマる」体験やサービスを設計することがカギ、云々。 一見もっともだし、実際「構造属性」による決定性を前提した上でなら論旨は悪くない。しかしこれを言う人・実践する人の殆どは真逆に構造属性をむしろ「見ない」ための方法だとさえ思っています。 それがいかに的外れな考えかは、世の中にある商品の消費構造を詳しく分析すればすぐわかります。ある製品カテゴリーにおいて、誰がどのようなタイプの製品を選ぶかは、その製品カテゴリーに応じて複数の構造属性を説明変数にとれば、ほぼ説明されます。これは、製品開発段階でどこまで構造属性を想定したかに関係なく、です。逆に言えばだからこそ沢山のアンメットがあるのです。 構造属性に規定される消費のメカニクスは意思決定(ニーズ・ウオンツやら検討方法やら)から行動プロセス(AIDMAやらVISASやら)全体に及びます。 「マーケティングR&D(マーケティングにおけるR&D活動)」によって構造属性による消費メカニクスの理解・知見はどんどん深まり高精度になっていきます。 ちなみにそこまで深い理解でなくても、構造属性について簡単な解説とエクササイズを行ったあとに、商材は何でも良いのですが例えば、 ・「高齢者向けの掃除機を構想してみてください」 ・「世帯年収600万円程度で共働き、幼児のいるファミリー世帯向け掃除機を構想してみてください」 と問うてみると、マーケティングのプロでなくとも(むしろプロじゃないほうが)たちどころに様々な切り口・アイデアが出てきます。 この程度なら構造属性なんて大げさに考えなくても出来そうだと思うかもしれません。浅いレベルなら実際そうです。 しかし例えば、 「【20代独身で外資系に務める年収800万円の男性、賃貸のデザイナーズマンションに住み、仕事のあとには勉強会などにも参加するなど意識高い、シンプルでナチュラルだが品質の良い清潔感のある服が好み、趣味はアウトドアだが自炊男子でもあり彼女がいてちょくちょく家に遊びに来るのでインドアの楽しみかたも嗜んでいる・・】人向け掃除機を構想してみてください」 という問いを、構造属性のエクササイズを行う前にやるとアイデアが出てこなくなるし出てきても珍答・迷答のオンパレードになります。 で、構造属性のエクササイズを行って再びチャレンジすると、あら不思議、すらすらとアイデアが出はじめます。 ペルソナ設定して参与観察してエクスペリエンスマップやマインドマップを描いて、とか、やるのはよいのですが、やり方です。 「特定の1人」を「一人ひとりの個性」と解すると大きく見誤ります。「特定の1人」はある「構造的特性」によって規定される「市場クラスター」の「代表サンプル」という視点が決定的に重要です。 くどいですが、人の行動は人が自覚している以上に構造属性に規定されています。そして恐らくはデータサイエンスが逆説的に益々その反応傾向を強化しています。人間=ポピュレーションと人間=アルゴリズムのコンバージェンスが起こりつつあると言ってもよいでしょう。 (文責:金光 隆志)
創造的な戦略の恩恵
創造的な戦略は立案も実践もはっきり言って難しい。仮に千社の戦略を並べたとして一つでも創造的な戦略と呼べるものが見つかるかどうか。だがもし成功すれば。そのリターンはとても大きい。 創造的な戦略とはどのようなものか。パラフレーズして考察しておこう。 創造性とは。人のパーセプションを変えること、人にとって想定外なこと。 戦略とは。自社に能う限り有利な状況を生み、出来れば競争優位実現に至る方策のこと。 つまり、創造的な戦略とは、 ① 競争相手にとって想定外、つまり競争相手を出し抜いて、 ② 有利な状況を作り、いつのまにか競争優位・障壁を築くこと だと解しておいて大過ないだろう。 さて、競争相手を出し抜く方向性は3つある。 その①:競争相手が気づいていない戦略ミスを突く その②:競争相手が気づいていない戦略チャンスをモノにする その③:競争相手が気付く前にゲームチェンジを起こす 言うは易しで、出し抜くだけでも簡単ではない、その上で競争優位を築くとなると難度は一気に上がる。ある打ち手がたまたま創造的戦略の条件を満たすことはあるが、意図的に方策を考えるとなると、戦略に関する相応以上の理論的理解と実践的経験が必要にはなるだろう。ここではその方法の概念だけでも供しておきたい。繰り返すが、難しい。 さて、相手が気づいていない戦略ミス・戦略チャンスは、大小問わなければ実は様々に存在している。殆ど全ての企業にあると言っても誇張ではない。典型的には戦略事業単位の無理解・誤解に起因し、その無理解・誤解は競争メカニズム及び経済性メカニズムの無理解・誤解に起因する。戦略事業単位とは、競争メカニズムや経済性メカニズムの異なる事業やセグメントの切り口単位のことであり、上述はトートロジーなのだが、トートロジーを承知で敢えて付言すれば、一つの事業領域において複数の戦略事業単位で事業展開している場合、相当な確率で、どれかの戦略事業単位において戦略ミスを犯している。殆どの企業が戦略事業単位を認識しそこねている(戦略事業単位を商品カテゴリーや事業カテゴリーと同じと見做し勘違いしている企業が大半)からだ。 いずれにせよ、戦略ミス・チャンスを突くためのポイントの一つは競争メカニズムや経済性メカニズムの正しい理解である。精緻さが重要なのではない。正しさが重要なのだ。通常は社内の事業管理単位、情報取得・利用範例、インテリジェンス、事業システム、管理会計システム等が戦略事業単位と整合していることはない(だからこそ敵も我が方も見損なうわけだ)。よって精緻な分析など望むべくもない状況だがその必要も実はない。精度ではなく正しさを検証できるレベルの戦略分析を実施することが重要で、戦略分析のためには戦略ミスや戦略チャンスに関する蓋然性の高い仮説と仮説検証に足りるモデル化が決定的に重要となる。モデルは出来る限り、部分的であっても定量化検証出来ることが基本だが先ずは定性モデル化からでもやらないよりはるかによい。その場合でもファクトに基づくことが大事である。 少し話が逸れた。戻そう。 「戦略事業単位の誤解」は「平均化のワナ」へと繋がる。「平均化のワナ」は気づかないうちに様々な形の歪み・ミスマッチや無視を生み出している。価格設定の歪み、資源配分の歪み、ビジネスモデルの歪みなど各種の歪みや、アンメットニーズの無視、置き去りユーザーの見逃し、市場構造変化の無視などである。これら歪みや無視を突く方策は悉く「競争相手を出し抜く」創造的な打ち手となる。 しかしそれだけでは戦略的な成功を収めるには道半ば(よりも手前)。競合が気づいて手を打ってくるまでに十分な時間を稼げて、かつ手を打とうと思った段階では既にこちらが新たに競争優位の条件を整えている、ということが必要になる。一般論としてはサプライサイドでミスを突く方が競争に気づかれにくい。例えば単純な例、資源配分をこっそり変える等の打ち手は相手からは見えにくい。一方デマンドサイド、特に新商品・新サービスの展開の場合には十分な注意を要する。イノベーションのジレンマのような状況を起こすケースで無い限り、殆どはすぐに模倣される。模倣されないためには同時にサプライサイドでの障壁(例えば開発や適用には時間のかかる独自の技術や異質技術が伴っている、サプライチェーン調整に手間がかかる・ハードルがある等など)があれば、模倣される前にこちらがスケールを獲得し複合的優位性へと発展させられる可能性は高まる。あるいは、デマンドサイドでも顧客ロックインやネットワーク効果のメカニズムが働き、かつ顧客のマルチホーミングに一定の障壁がある場合には先行者がある程度有利である。など。 いずれにせよ、相手のスキを突く創造的な打ち手を打つだけでは全く不十分で、競争優位のロジックと行動シナリオをしっかり詰めることが肝要である。 デジタル化の進展で、かつてに比べると企業が保有する情報は格段に増えている。データサイエンスの実施を含め、社内での分析の量も格段に増えている。それらはもちろん大事かつ収益をもたらしている。だが、それらはオペレーションレベルでの分析の発展であり成果なのだ。戦略検討とは次元が異なる。これほどデータが増えていても戦略分析を実施する際の困難・苦労は今も昔もそう大差がない。だが苦労する価値はある。 進化スピードが早い市場では競争優位の戦略は成立しない云々、全くの観念論・常識的イメージ論であって、見誤りだと断言出来る。実際デジタル事業・環境では逆に恐ろしいほど競争優位のロジック・メカニズムが純化したかたちで働いている。2番手以降には創造的な戦略で立ち向かう以外に残された手は殆ど無いとさえ言える。 デジタル領域では殆ど競争地位の変動が起こらない事実をさきの進化論者や適応論者はどう説明するだろう?事業創造のロジックと競争のロジックは峻別しなければならない。 事業創造にはもちろん価値があるし、どこか神秘的イメージもあって魅惑される。だが企業のボトムラインへの影響は競争、従って戦略が遥かに大きいことに刮目されたい。事業経営に関与する人たちにはこんなご時世・ムードが支配的だからこそ、リアリストの目を備えることを勧めたい。 (文責:金光 隆志)
事業創造とオプション創造
事業創造とは何か。 当たり前すぎて考える気にもならない?確かに。事業創造とは事業を創ること。では同義反復であって何ら新しい発見はない。しかし、この問いへの切り込み方・回答次第で事業創造の巧拙が決まるのだとしたら?ということで今回は事業創造とは何かの見立てを更新してみよう。 事業創造とはオプションの創造であり権利の創造である。 どういうことか。 一般的に、事業創造には不確実性が伴う。不確実性には2種類ある。何が起こるか想像もつかない・思いも寄らないことがあり得る、という意味の不確実性。そしてもう一つ、色んなことが派生的・連鎖的に起こり得るのだが、そのどれがどこまで起こるのかわからない、という意味の不確実性。事業創造においてこの2つの不確実性の意味は深く考える価値がある。なお本稿では詳述しないが、前者は弊社が提唱する適応変異(アダプション)の創造手法に、後者は生態系多様性の創造手法に関係するだろう。 さて、パラフレーズを続けよう。この不確実性の創造こそが事業創造なのだ、というと驚くだろうか驚かないだろうか。事業創造の常識的なイメージでは、ある狙った事業構想があり、そのリターンを想定し、それを実現していくことが事業創造であろう。日本の大企業の事業創造は殆どここで躓く。リターンを定量的に想定出来なかったり、想定してもそれこそ不確実であったりするわけで、ここで色んな対処のバリエーションが現れる。大別すると3つだろう。①不確実だからリーンに小さくスタートして検証しながら進めよう②革新的なアイデアを定量評価しようとすること自体間違っているし革新的であるかどうかが大事③わからないから様子を見よう。①②③のどれも、それ自体が間違っているわけではないが前提が間違っているとそのあとの論理も全部間違いとなる。前提とは繰り返すが、事業創造とは不確実性の創造であり、不確実性には2種類ある、ということ。 まだ何が言いたいかピンとこないだろう。ここで、不確実性を可能性と読み替えてみるとどうか。「可能性の創造こそが事業創造であり、可能性には2種類即ち想定外と想定連鎖の枝分かれの2種類がある。」どうだろう。ちょっと見え方が変わってきただろうか。ところでまたしても殆どの大企業の事業創造の取組みにおいて、可能性の連鎖の想定は全くといっていいほど行っていない。「こういう風になるだろう、でも不確実で、アップサイドこれくらい・ダウンサイドこれくらいの振れ幅」みたいなことをやっているケースはある。やらないより遥かによいが、ここで言っているのはそういうことではない。想定の実現可能性のことではない。所謂サイドエフェクトや、風が吹けば桶屋的な関係性の連鎖がもたらす可能性のユニバース(と宇宙の果て的な想定外の発見・出来事)のことだ。やってみればわかるが、サイドエフェクトは具体的なアクションやイベントを考えれば考えるほどどんどん広がり、それこそ想定外だった可能性に気づいていくことだろう。そして、事業創造とはこれら可能性のオプションの創造、起こし得る権利の創造、と考えるべき行為なのだ。 事業創造において常識的考え方で「これをやればこれくらいのリターンが期待できる」と算段しそれが十分魅力的なとき、十中八九はその見通しは誤っている。だから、さっき①②③どれも間違いと言ったが、こういう起案がされたとき、③の「よくわからないから様子見」という態度は皮肉にも実は合理的だとも言えるわけだ。念の為捕捉しておくと、スモールビジネスを立ち上げるのであれば、この限りではない。スモールで十分なら色々やりようはある。例えば特定のユーザーを想定し、そのユーザーを徹底的に満足させる商品やサービスを作れば、似たようなユーザー層には確実に波及し受容されていく。だがまぁそれ以上でもそれ以下でもない。 可能性の連鎖は今起こるわけではないし今の投資だけで起こせるものでもない。どこかで大きな分岐がある。だが可能性が低くても起こり得る・起こし得る未来。それがオプションである。そして事業創造の価値は殆どこのオプションの価値に依存する。オプション価値の小さい事業は控えめに言って魅力は高くない。また、ほぼ同義なのだが、事業創造において確度の高い未来の価値は小さい。さっきの繰り返しになるが、逆に言えばこれを大きいと見積もっているならその見立ては殆ど誤りだろうということだ。直感的に了解するなら本当に確度が高いのなら皆が同じところを狙うから価値は毀損される、と考えてみればよいだろう。 可能性連鎖のオプションをどう考案しどう評価するかとなると少々テクニカルな習熟を要する。評価についてはまだ限界もある。また、もう一つの可能性である想定外をどう「想定」するかも、可能性連鎖の想定を前提とするのでここでの説明には収まらない。だが、これだけは押さえておくと良い。オプション=権利を買う・押さえるという考えがないと、ロクな新規事業投資は行えない。オプションを買う気がないならはじめから新規事業など考えないほうがよいとさえ言える。思うに日米のここ20年の決定的な差はここにあるんじゃなかろうか。先ずは定性でも良いから可能性の連鎖を描ききってみるとよい。事業構想が当初想定とまるで違うものへと変貌することだろう。変貌しない事業案はボツにするのが懸命だ。とまで言うと言い過ぎか。でもそれくらいでないと大企業なんて変わらないですからね。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求⑤ -世界観アーキテクチャの中毒消費-
意味のイノベーション、人を動かす体験ストーリー、云々。 産業や生活がテクノロジーによって変革・更新されていき、テクノロジーこそが世界の問題を解決していくという物語・神話が全面化していく中で、大事なのは技術じゃない・問題解決じゃない、意味やストーリーこそ大事なのだという物語が語られる。 これを文系の最後の悪あがきと揶揄する向きもある。が、まあそうでもない。 実際、人が物語によって世界を意味づけし、それによって価値や行動や規範が規定されていることは、有史以来の人間社会成立(ホモ・サピエンスとしての)の条件なのだ。 現在は「テクノロジーが世界を変える・救う」という物語が支配的、というわけで残念ながら文系諸氏の悪あがきは見事に自らの言説に裏切られる、という憂き目を見るわけだが。 個々の商品において新しい意味やストーリーを考える(意味やストーリーから考える、も含む)ことは否定はしないが、それだけでは大して見返りはないだろう。特に、人を動かす「英雄譚」のストーリーモデル云々、とか、イノベーションやマーケティングのハウツー本で書かれているレベルのこと(ドラマティックな物語展開のパターンはこれ!みたいな)を考えても全くの無駄なのでやめておこう。日常・変化・困難・協力者(商品)・克服・成長・・とか、子供でも考えるような物語構造の一番単純な定石ではあるが、自分の消費を思い返せばいい。そんなもので心動かされて何かを買ったこと、あります?? まぁディスるだけじゃなく一応ちゃんと言っておくと、物語について商品やサービスへのマーケティング応用を考えたいのならば、筋の展開の構造のような「形態」「機能」や「シークエンス」よりも、人物や出来事の特性や気分・ある行動への動機・場の雰囲気・状況などを伝える「指標」や語りの「パースペクティブ」のことをしっかり考えてみたほうが示唆深い場合が圧倒的に多いだろう。 商品を使っているシーンやエクスペリエンスをプロット・表現し想起させる、云々というのも殆ど無駄。商品開発においてシーンやエクスペリエンスから発想することを否定しているのではない(大して肯定もしないが)。新規性の高い商品の使用説明としてちゃんと伝達することを否定しているのではない。そうではなく、ストーリーマーケティングやらコンテクストマーケティングやらと称して「エモい」エクスペリエンスストーリーを考えよう云々、がまぁ殆どの場合無駄だということ。マーケティングの段に至ってエモいエクスペリエンスを捻り出さなければいけない商品など、はなからエモい魅力はないと思った方がよい。 さて、アイロニーはこの辺にしておこう。やっぱり人々にとって意味のある生産的なことを言いたいですからね。ということで、意味のイノベーションや体験・ストーリーよりもはるかに強力なビジネスモデル原型を少しご紹介しておこう。 人をときめかせる、ワクワクさせる、これから(未知・未来)を期待させる、あこがれさせる等などの「世界観」をもとに、ビジネスアーキテクチャを形成・生成し、そのアーキテクチャをもとに、世界観のパーツや個々のストーリーとしての各種商品やサービスをマルチプラットフォーム・マルチビークルに次々と展開する。これである。 人々の欲望を駆動するのは、第一義的には、個々のストーリーではなく、「世界観」である。そして、「世界観」がベースにあると物語はいくらでもヴァリアントを生成可能なのだ。そして世界観アーキテクチャがハマれば必ず中毒消費に至る。 エンタテインメントの世界を想像すればわかりやすいだろう。ディズニーワールド、マーベルユニバース、ラノベジャンル、AKBフォーマット、K-POPフォーマット、ポケモン、直美・・。基盤となる世界観のもと様々な商品・ストーリーヴァリアントが展開されると同時に、それぞれのヴァリアントがさらに、派生商品/ヴァリアントを生成している。強引に単純化した例を示そう。「気品、美しさ、優しさ、行動力、勇敢、困難の克服、変身、魔法的力、愛の成就」といった特徴を備えるディズニープリンセス世界観。その世界観のもと、白雪姫、シンデレラ、アリエル、ベル、ジャスミン・・といった様々なストーリー/キャラクターヴァリアントが創られる。そして各ヴァリアントからはアニメ、実写、キャラ商品、テーマソング、テーマパークアトラクション・・といった派生商品/ヴァリアントが生まれる。これらの生成を支えるアーキテクチャは、映像から商品やパークまでの連鎖したコンテンツビークル・プラットフォーム(ディズニーエコシステムと呼ばれる)はもとより、社会が求める女性像のR&D(キャラクターの性質は時代とともに少しづつ変容させている)、世界中の文化や物語IPのリサーチ、ニューロサイエンスに基づくシーンと情動のパターンDB、最先端のCG・VFXテクノロジープラットフォーム、新たな体験を生む五感を中心とした先端テクノロジー・サイエンスのリサーチネットワーク、ハリウッド内はもとよりグローバルに広がる映像制作ネットワーク・・といったSECT(Science Technology Culture Edit/Produce)インフラストラクチャから構成される・・云々。 ところで「世界観」消費のミソは、世界観そのものを直接消費することは出来ない、ということだ。世界観を楽しむ・熱狂する・共感する・同化する・納得する・感受するには、世界観のパーツ・化身・シミュレーションたる個々の商品・キャラクター・物語を消費するしかない。だが、それは決して世界観そのものではない。だから、世界観と同化するには、次々に出てくる商品やストーリーを世界観の一部・影・鏡像・シミュレーションとして次々に消費するしかないのだ。かくして「世界観」に快情動を感じた人は、反復を求めてずっとその世界観の化身・仮身を追い求めることとなる。 そして、世界観に惹きつけられた消費者自らを、個々の商品や物語生成に巻き込む、創作に参加させることで、世界観アーキテクチャのモデルは一つの完成形に至るだろう。世界観に同化したいというナルシスの欲望が擬似的に満たされる状態。完全に同化できてしまってはいけない、ときには「本物」の豪速球で突き放さなければいけない、のだがまぁその話は置いておこう。ともかく。ここまでくれば完全にハマった状態である。実際に創作に参加させるにせよ参加した気にさせるにせよ、そこに莫大なマネタイズの機会が発生するだろう。エンタメで言えば、二次創作の隆盛で一次創作の消費を拡大するのか二次創作自体から収益を得るか、みたいな話ではある。それだけじゃない、それだけだと浅いが、まぁこれも置いておこう。 さて、エンタテインメントの喩えはわかるが、他の実用商品でも同じことが言えるのか? もちろんYes。ジョブズが率いたころのAppleに陶酔しCreativeを信奉した人々、GoogleのMoon shotに憧れ・共感しハッカソンなどに参加する人々、IKEAのLOHAS的・北欧的感性へのDIY的商品体験による同化、昨今の中国D2Cユニコーンにおけるコアファンの熱狂的参加、米国DNVBにおける理念や世界観への共感、等など。すべて「世界観」による欲望の駆動と、欲望を個々の消費やコミュニケーションで解消するための「アーキテクチャ」がある。アーキテクチャの全体が世界観の表現でもあり、個々の商品やコミュニケーションが物語のヴァリアントとして世界観を部分表象し、世界観への憧れ・興奮・共感・同化・・を部分的に昇華・消化させる。 世界観は人々を瞬間的・無意識的・情動的に惹きつける。だが世界観自体「これが世界観です」というふうには目に見えない、言語化しようにもいわく言い難い。だから強力なのだ。では世界観やアーキテクチャはどうやって作ればいいか。簡単に補助線を付しておこう。 欲望の原理的理解、現代のマクロな世相や言説の背後にある集団的欲望や不安及びその源泉の理解、個人や集団の欲望を駆動する世界観の原型となる各種文化の様式・パターンやそこで作用するコードのカタログ・現代の脱聖化した各種消費文化の背後にある歴史的系譜の考察、世界観構築・表現や個別商品・物語生成に援用可能な技術プラットフォーム・サイエンスの考察、コアファン生成のコミュニケーションモデル設計、メディア・ビークルプラットフォームミックス設計、これらを統合するSECT連携/スタジオ型ビジネスモデル、である。世界観を代理表象するための物語素・神話素や指標に相当する要素・パーツをデータベース化しアーキテクチャに仕込んだり、それら要素の最適組み合わせをイメージ生成・テクスト生成するデータサイエンスやニューロサイエンステクノロジーを折り込むことが出来れば更に強力な世界観アーキテクチャ型ビジネスモデルを創ることができるだろう。 世界観アーキテクチャの消費は目新しいものでは無い。にもかかわらず、エンタテインメント業界の先端を除けば殆どの人はそれをビジネスモデルとして了解していない。文系の悪あがきの可能性の中心はここにこそあるのだが、エンタテインメント業界以外のビジネス現場がいかに人間や文化を原理的本質的に理解することを怠っているかの査証、とまで言うと言い過ぎだろうか。ところで実は世界観アーキテクチャの中毒消費はデジタルと相性がよい。デジタル化が全面化し、With/After covid-19の生活様式がいよいよ不可逆となっていく気配の中、世界観アーキテクチャの勝者は世界の勝者となっていくだろう。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求④ -欲望のメカニズム-
さて、脳の働きや情動・欲望に関する常識を一旦捨てたところで次の議論に進もう。 ここで、情動と感情について少し整理をしておこう。ややこしいが、情動と感情は異なる心概念である。大きな論旨を見失わないために前回までは明確に分けずに「情動」と呼んでいたことを了解願いたい。 さて情動。情動は感情よりも生得的根源的なもので、主には「快/不快」と「覚醒/鎮静」の組み合わせによる4つの気分・モードをとる。情動は内受容プロセスを通じて形成される。内受容プロセスとは、血流とかホルモンとか臓器とか自分の身体内の状態変化を脳が感受することである。内受容で生じた情動は、その原因が外部刺激による体内反応なのかどうかによらず、外部刺激への反応として表象され意識される。空腹のとき怒りっぽくなるのも実はこういうこと。空腹で不快なのに脳はその不快原因を無意識に外に求める。無意識のうちに外部に攻撃的になる。これを我々は怒りと名付けている。 感情の正体・ルーツがこれだ。実は感情は自分で作っているのだ。主には文化的な学習を通じて感情反応も形成されている。人間は生まれて以来幼児のときから常時、ほぼ無意識・自動的に分節と分類の認知・統計的学習を働かせ、世界を意味付けている。意味づけは能動と受動の複雑なインタラクションの集積である。例えば。赤ちゃんが泣いている。母は「お腹が空いたのね」と言って乳を授ける。泣き止む。これ、実は意味づけ作用である。赤ちゃんが泣いている理由なんて周りにも本人にもわからない。だが母は勝手に「お腹がすいた」と意味づける。泣き止んだのはスキンシップの効果であって空腹とは関係ないかもしれない。でも「やっぱりお腹すいてたのね」と意味づけされる。あるいは「おむつが気持ち悪いのね」と言っておむつ交換されるかもしれない。スキンシップ効果で泣き止んだとする。でも「気持ち悪かったのね」と意味づけされる。こうして何も意味のないところから社会的に形成された意味を与えられつつ、自ら主観的に自分なりに意味分節を形成していく。云々。ちょっと横道にそれてしまった。さて、怒り・喜び・悲しみなどの感情も意味づけの一つである。意味づけとは、とても恣意的で文化依存の現象。つまりは感情も普遍的なものというより恣意的で文化的なものだということになる。ちょっとにわかには納得し難いだろうが、国によって感情語の粒度や境界、あるいはどういうときにどういう感情と言うかに大きな差・違いがあることを思い起こせばある程度は了解できるだろう。 さて、ここからさらにややこしい話になる。情動反応・状態は、意味づけ作用を通じて様々な場面や状況に結び付けられる。情動→シーン→意味・感情をセットとしてパターン学習していく。これは殆ど無意識・自動的に常時脳が行っていること。あらゆる瞬間において一生続く膨大な学習である。脳はこうして膨大な無意識学習を通じて・同時に、予測・シュミレートの能力と経験値を上げていく。すると今度は逆に、シーンから意味へ、意味から内受容へ、内受容から情動へと、つまり外部刺激から情動を生み出すような働きが生まれてくるのだ。 抽象論だとわかりにくいだろうから、前回の女性の写真を見せる実験にあてはめて考えてみよう。この例において、外部刺激は「女性の写真」と「自分の(偽りの)心音」である。さて、「ある女性の写真」で「(偽りの)心音が高なった」。これを脳は無意識に解釈する。例えば「好き」という「意味」に無意識に意味づけする。この「好き」という意味付けが、体内の反応を引き起こす。セロトニンやドーパミンやオキシトシンといった幸せホルモンを分泌したり、恐らくは本当に少し心拍数も上がったりしただろう。そしてこの変化を「内受容」して、「快×覚醒」といった情動モードに瞬間的に移行する。そしてこの「快×覚醒」情動をこんどは逆に意味解釈する。「幸せ・心地よい」のは「この女性の写真を見た」からだと。こうして、自分はこの写真の女性に好意を抱いたのだと、脳は勝手に学習する。かくして、この写真(の女性)が欲しい、という欲望が生まれる。 シーン⇒意味⇒情動⇒意味(強化)⇒感情、外部刺激受容⇔内受容⇒情動⇒・・という複雑・非線形な相互作用が働いている。 これが、現在もっともホットな、欲望の原理・メカニズム仮説である。かつての常識が新たな知見で覆されたように、今後この仮説だって更新されていくだろう。けれども、今もっとも頼りになる仮説には違いないだろう。 やや強引になるが、要約しておこう。 生まれてから現在までの無意識な学習を通じて、無意識に作動する刺激・意味・内受容・情動・・予測・シミュレートを形成している。 これは直線的に作用するだけでなく、むしろ非線形に相互作用する。「内受容」による「情動」を外部刺激に「意味づけ」する回路としても作用する。 即ち、快・不快情動や覚醒・鎮静モードは「内受容」プロセスで形成され、その意味づけは過去学習を参照に外部刺激や状況などから無意識に形成される。 ここに「欲望生産」=ビジネス、の大いなるヒントがあるのではないだろうか。 (文責:金光隆志)
欲望の探求③ -脳に関する常識は非常識!?-
さて前回。快・不快ポテンシャルを情報として認知させる、ここにビジネスの全てがある、と言った。ここから一気に欲望のビジネス・マーケティング最前線へと進みたいところだが、その納得には、前提として、欲望や情動、心などに関する様々な常識、古い理論を棄却しておかないといけない。また日常的経験・感覚と実際に脳や身体で起こっていることは違うということを了解しておかないといけない。 ということで、しばらくの迂回をご容赦願いたい。 最新の脳・神経科学は、心と身体と脳の関係や働き方、構造などについて、かつての脳科学や心理学の常識を次々に覆しつつある。 例えば、古い常識・理論の典型の一つに、刺激―反応理論がある。それによれば、脳は外界からの刺激を感覚情報として受け取り、連れて脳内で情動反応(例えば嬉しい、悲しい、怒りなど)を引き起こし、その結果、情動に応じた身体反応(例えば表情が強ばるとか心拍数が上がるとか)が引き起こされる。どのような情動にどんな身体反応が起こるかは決まっており、従って逆に何らかのマーカー測定から情動反応が特定できる、という。現在主流の脳科学マーケティングの大前提でもある、と言っていいだろう。 ところが、この刺激―反応理論は、ほとんど間違っていることが膨大なメタ分析の結果わかっている。簡単に言うと、情動に特有(1対1対応)の身体反応など存在しない。さらに、研究によって、情動の正体も明らかになってきている。情動自体、刺激に対する受動的反応ではなく脳が予測・シュミレートし構成しているもの。予測には脳のオートマティックな学習プロセスが関わっている。ちなみに、脳から予測を奪うと感覚刺激は意味を失い文字通りノイズの洪水と化す。自閉症、経験盲、LSD体験はまさにその状態である。 脳の層構造理論や特定部位・特定ニューロンが特定の機能を担っているという理論も、殆ど誤りであることがわかっている。簡単に言えば例えば、情動は大脳辺縁系がもっぱら担っているのでもなければ情動だけに係るニューロンなども存在しない。運動機能に係るニューロンが情動作用にも関わっているし、作用や機能はハイパーアラーキーかつ多重フィードバックループが影響し合い都度形成されるニューラルネットワーキングによる。部位やニューロンによる役割分担のモデルからは程遠い。 心身二元論(脳身二元論)的な考え方も修正しておいた方がよいだろう。脳には「内受容」と言うプロセス・メカニズムがある。脳は、体外刺激だけでなく、体内器官、組織、免疫系、血中ホルモン等から発せられる感覚情報をも受容・表象する。ループ構造でもある。例えば乱暴に言うと、驚くから心拍数があがるのではない。心拍数が上がるから驚きと予測・シュミレートするのだ。 「内受容」プロセスは心の働きに係る重要なカギの一つ。ここから様々な驚きの帰結も導かれる。例えば。裁判における昼前の審理と午後の審理で同種の審理でも罪状認定が優位に違うという研究がある。では昼前と午後で何が違うか。例えば空腹である。空腹は「内受容」を通じて「不快」の気分・モードを誘発する。「不快」は空腹によって無意識に起こっている。だが無意識であるがゆえに脳はそれを外部情報と結びつけ、この審理で「不快」なのだと予測・シュミレートする。すると、あらゆる外部情報を「不快」と無意識に結びつけだす。弁護人の言葉、被告の態度・・例えば被告が黙していると「反省がない、不快だ!」などと。。あるいはもっとトリッキーで愉快な例を挙げよう。被験者に「色彩・形状視覚テスト」と伝える。集中のためにヘッドホンをつけてもらう。ヘッドホンからはあなたの心音が聞こえるが気にするな、と伝える。実験開始。次々に女性の写真を見せていく。ある女性のところで急に心拍が早くなった。まぁとにかく実験はその後も継続。そして実験終了後に、テストに協力してくれたお礼として、女性の写真からどれでも好きなものを一枚もって帰ってと伝える。8割以上の被験者が急に心拍数が上がった女性の写真を持って帰る。1ヶ月後追跡調査で気持ちに変わりがないか聞いてもやはり殆どが同じ女性の写真を選ぶ。やはり女性の好みについては心も身体も嘘をつけないらしい。。 のではない!!なんと先に聞かせた心音は本人のものではなく、急な心拍数上昇音もランダムだったのだ!信じられない話だろう。だが吊り橋効果だって同じメカニズム、といえば少しは合点がいくだろうか。 さて、最新の脳・神経科学の成果や実験心理学による実証などの話は続ければきりがない。 今日の最大のTake away。ことほど然様に、最新の脳・神経科学に通じているのでもないかぎり、今持っている脳の働きや情動・欲望に関する常識は、一旦全部捨てたほうがよさそうである。 (文責:金光隆志)
欲望の探求② -欲望って何?-
以前、「欲望の探求」というコラムで、欲望がどのように生まれるか、初期的な考察とパターン了解を行った。商品・サービスやマーケティングを考える補助線になるだろう。だが、そもそも欲望とは何か?実は案外得体のしれないものではないか。 そこで今回から、欲望そのものを考察してみよう。 さて、欲望とは何だろうか? 食欲、性欲、睡眠欲、金欲、権力欲、知識欲・・欲望にはキリが無い。もっと言えば「欲」をつければ何でも欲望になる。これは半ばレトリックだが、あながち間違いでもない。しかし「欲」を書き連ねただけでは欲望の正体にはたどり着きそうにない。では欲望とは? 欲望とは生命そのものである。とひとまず定義しておこう。これはレトリックではない。 いや、表現は全てレトリックなのだから、そう言うとちょっと言い過ぎなのだが、まぁ喩え話の類ではないと理解してほしい。ではどういうことか? 例えば。あなたはお腹が空くだろう。そしてお腹が空くと同時に何か食べたいと思うはず。 お腹が空くという感覚と何かを食べたいという感覚は相同。 そしてここで「空腹を満たそうとする」ことを「欲望」と呼ぶことに異論は殆どないだろう。 さてでは。もしあなたが、何らかの障害で空腹を感じない、したがって何かを食べようとしないなら、どうなるか。死にますね。 つまり。大分あいだを端折って言うと、Filled/Unfilledポテンシャルを情報として感知し、そのギャップを埋めようとエネルギー代謝を行うこと。これが欲望≒生命ということだ。意識の有無は関係ない。この定義によれば植物だって欲望する。でも鉱物には欲望はない。 繰り返す。欲望≒生命とは、Filled/Unfilledポテンシャルを情報として感知し、そのギャップを埋めようとエネルギー代謝を行うこと、だ。これを運動因と言ってもよいかもしれない。 内的ポテンシャルを動因として運動するものが生命だ。運動が止まれば生命ではなくなる。 こんな疑問があるかもしれない。例えば本を読みたいというのは欲望だが生命と言えるのか、と。言える。生命でなければ本を読みたいなどと思わないのだから。 あるいは逆に、欲望のない生命があるのではないかと思うかもしれない。インチキに聞こえるかもしれないが、上記欲望≒生命の定義からして、それは無い。 ところで、 Filled/Unfilledポテンシャルを情報として感知する、とはどのようにして可能か。 これも大分あいだを端折って言うと、脳・神経科学の現代の知見・研究を踏まえれば動物にとってそれは快/不快ポテンシャルとして感知するもの、と言って概ねよいだろう。間を端折り過ぎだが詳述はまたの機会に譲る。 さて。こんなことを考えて何の意味があるのか。まぁ色々あるのだけれど、これはビジネスコラムなのだから、もちろんビジネスにとって意味がある。 欲望が消費を駆動するからだ。大上段にエネルギー代謝とは消費であり従って消費とは生命なのだと往年の経済人類学よろしく大見得切ってみるのもありだが、ここでは狭義の消費の話としよう。 消費があってはじめてビジネスが成立する。ならは、ビジネスをこう定義してもよいだろう。 Filled/Unfilled、即ち快/不快ポテンシャルを情報として感知させ、それを埋めようというエネルギー代謝を促すこと。これがビジネスの最もラディカルな定義、と一先ず言っておこう。 さてさて。では快/不快ポテンシャルを情報として感知させる、とはどういうことか。 ここにビジネスの全てがある、と言っても過言ではない。次回以降で考察を深めていこう。 (文責:金光隆志)
非合理の合理 マーケティング X
大事な仕事の納期が2週間後に迫っている。結構タイトだ。 でもこんなときに限って、絶対観たいアーティストの来日公演がある。この機会を逃したら、いつ日本で見られるか解らない。いやもしかすると二度と日本にこないかもしれない。公演行くか仕事するか。この状況で、公演にいかないで仕事を選ぶ人は2割程度。まぁそうでしょうね。 しかし。ここでもう一つ、前から絶対観たいと思っていた映画上映がちょうどこの公演の行われる週末まで、だと判明した。さてどうしよう。公演に行くか映画行くか仕事するか。 実験によれば、驚くことに、映画の選択肢を加えると4割の人が仕事を選ぶ、というのだ。 この結果、どう考えてもおかしい、ですよね。論理的には。 そう。人間はちっとも合理的じゃない。 なのに、日常の些細な会話、企業のマーケティング、更には国レベルの大きな施策まで、人が合理的であることを前提にした訴求に溢れている。結果は外すに決まっている。反省はしても考え方は変わらない。 なぜなのだろう? 当たり前?どうでもいい?というのは思考停止。これは考察に値する。 起源その一。モダニズム。 人は合理的であるべきだ、というモダンのパラダイムに未だ我々はどっぷり浸かっている。理性こそが至上で未開は啓蒙されなければならない、というのがモダン思潮。科学はモダン思潮とともに発展してきた。まぁそれはさておき、で、どうなったか。合理的である「べき」の「べき」がいつのまにか無くなって、合理的「である」と意識的にも無意識的にも教条・前提してしまった。啓蒙思想、ホモ・サピエンス(理性の人)の完全勝利。理性でもって無知や教条・迷信に光を当ててきた、文字通りEnlightmentの営みが、いつの間にか「人は理性的」というあらたな教条を生み出した。我々は想像以上に、その影響下にいる。 その二。野生の思考。 モダニズムと相反するようで共犯関係という、ちょっと込み入った論旨だが、端折っていうと、ノモス(人為)をピュシス(自然)の相似形で考えるという人類学的傾向の現れ。合理的思考は、人や社会以外の理解ではそこそこうまくいく。いってしまった。ということはピュシスは合理で出来ている。ならばノモスも合理で出来ている、という算段だ。人は普通こんな風に考えてない、という話をしているのではなく、人類学的傾向(人や社会の無意識の思考構造、的な)の帰結として、である。自然の理解を人間や人間社会の理解にあてはめる野生の思考がより根源的なところで働いて、合理主義的モダンを下支えしている。 起源その三。心理学的合理化。 人間は合理思考が苦手だから経験(ヒューリスティック)で考えるという論があるが、必ずしもそうではない。むしろ合理的に考えるのはぶっちゃけ簡単だし安心だ。合理的とは論理的に正解であること。トートロジーだが、論理は必然解を導く。簡単。で、必然解には抗えないしだから安心。だが人間について考えるとき、論理の大前提が間違っている。人間は合理的である、という前提の上に構築された論理は、偽の命題からスタートしているのだから結論も偽。合理的ではないと解っているのに合理的だと仮定して合理的結論に安心するのはまさに心理学的意味での合理化である。 さてしかし、合理を更に突き詰めつつある現代。最先端のサイエンスやテクノロジーによって、ピュシスはそう単純じゃないことがわかってきた。まぁ要するに複雑系ということだ。ということはノモスだって?そう。というわけで、ノモスもそう単純じゃない、というか人間的自然はノモス(人間社会の形成・秩序)で単純に合理的に割り切れるような存在ではない、どうやら人は「合理的人間」からは程遠い、ということも。 行動経済学や認知科学が、「人間って合理的じゃないのかも」という仮定・前提のもとに発展しつつある。その知見はまだまだ道半ばとはいえ、かなり色々なことが解ってきている。その知見を政策に活かそう(ナッジ)という動きもこの20年で少しづつ広がってきた。 では、企業のマーケティングではどうか。聞きかじりの知見で茶飲み話程度に確証バイアスだのアンカリングだの会話していることは耳にするが、そんなものは無害どころかかえって危険。徹底的に合理ロジックを推し進めるほうがまだ有益。実際、非合理な人間を丸ごと捕まえるのは難しいにせよ、現代の日進月歩データサイエンスなら結構肉薄は出来るのだ。 これからのマーケティングはR&Dの時代になるだろう。人間のリアルに迫る探求が、人文的、科学的、技術的に急速に進展していく時代において、それら人間探求へのR&Dの差がそのまま企業の差となっていくことは、それこそ簡単な合理的推論である。 人間の思考や行動は非合理に満ちている。そのことをメタレベルで合理的に認知し判断できる者が勝者になっていくだろう。 (文責:金光 隆志)
ひとのとき -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(終)
企業はこれから益々、社会的な課題に取り組み、社会的責任を果たす方向へと進んでいく。間違いのないことだろう。 日本では未だESGやSDGsをメセナの延長くらいに認識している企業も多い。だが、欧米企業は遠の昔に事業活動においてESGを意識し、SDGsへの取り組みを強化してきている。ESG格付け機関によるスコアが、ESG銘柄として企業価値を直接・間接に左右するなど、株主/資本にとっても、もはやESGは無視できないどころか、企業がSDGsに積極的に取り組むことが株主のメリットに繋がる重要なアジェンダとなってきている。 SDGsに取り組むことが企業価値にプラスに働くなら、善意でも悪意でもなく、資本はSDGsに取り組むESG銘柄に集まるだろう。尤も、これは自己言及的な構造でもある。欧米の有力機関投資家の多くは国連環境計画の金融イニシアティブPRIに署名している。PRIに署名した金融機関はPRIの基準を満たすために、企業にESGへの取り組みを要請し、ESG取り組みが水準以上の企業に投資をする必要がある。当然ESG銘柄に資金が集まる。株価があがる、まぁからくりはどうでもいい。有力企業にはSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブがある、ということだ。 企業がSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブはもう一つある。これも欧米では顕著だが、Z世代を中心としたエシカル消費・ポリコレコンシューマーの増大である。人や社会や環境に対し責任を果たしている企業の商品を選択する、という、消費行動を通じて、よりよい世界を実現しようというのがエシカル消費。このような考え方をする消費者が増えれば増えるほど、企業はSDGsに取り組むことが必須となっていく。 現段階では、ESGと資本効率(ROE)のバランス・両立、などという議論も未だなされる(日本で顕著)が、本質的ではない。もしエシカル消費が十分広範に浸透すれば、SDGsとROEはより連動性を高めていくことになるだろう。新指標として提唱されているROESG(ROEとESGスコアの合成でバランス・両立を測る)等、ROE(資本)とESG(社会責任)のトレードオフをインプリシットに前提しているような議論は、いずれ終焉するだろう。はっきりいって、世界の先端から見れば既に周回遅れの議論である。 さてここまでは、外からのプレッシャーへの反応で企業が変わっていくというストーリーを語ったが、最後にもうワンピースある。それは、企業自身の内からの変化である。消費者とは誰のことか?言うまでもなくその多くは企業の従業員でもある。消費者・生活者としてエシカル意識のある人間が、会社の従業員という立場ではアンチエシカルに考える・行動する、というのは中々難しい。企業は内からも、エシカルに考える人々(消費者→従業員)によって運営されていくようになる。 ここにきて、重要なことが明らかになったであろう。生活者がエシカルになることと企業がエシカルになることは、ほぼ同時進行なはずなのだ。当たり前だが、企業の性格を決めるのは最終的には人である。とりわけお客様である生活者である。企業は生活者の要求に応えて初めて存在できる。一方で生活者とは企業の従業員でもある。全てが連動していく。 ところで私の見立てでは、いまちょっと面白いというか、おかしなことが起きている。 振り返れば、SDGsにおいて、現在一番意識が先行しているのがESG投資を推進する金融(資本)であり、それに応える形で企業がSDGsに取り組み、一方消費者はと言えば、Z世代を中心にエシカル消費意識が高まりつつあるとはいえ、まだまだエゴが強い、という構造だ。市民のエゴな欲望が強いからこそ、国家もエゴイスティックでナショナリスティックになるのだろう。 まるで逆立ちではないか。社会的行動を積極的に取ろうと思う企業は生活者に社会的行動を啓蒙しなければならない、わけだ。このねじれが、ROEとSDGsのバランス・両立といった議論をあたかも本質に見せてしまう。だが今はそれでよいのではないか。企業と消費者、どちらが先行しようと、いずれ相互にもっと影響し合う関係になっていくだろう。 そしてこれまでの論理で明らかな通り、エシカル消費が広く生活者に浸透した暁には企業は当然エシカルになっており、即ち社会全体がエシカルになっているはずだ。楽観的に過ぎるだろうか。だがここにトレードオフはありえない。エシカルと懐具合のトレードオフに悩むことは起こり得るだろう。あるいは行き過ぎたエシカル/ポリコレが逆に問題となることもあるだろう。だがそうやって、正―反―合の運動をくりかえしながら、ポストエシカル消費の世界は形成されていく。 日本でも進んだ企業では、30年先の社会をエクストリームな形で想定し、そうだとしたら今何をすべきか、という思考でSDGsへの取り組みを駆動している。自らなにかを仕掛けるだけでなく、自社の事業資産やケイパビリティを開放して、市民や活動家に社会問題解決に役立ててもらうことは出来ないか、考えている企業もある。「ひとのとき」では、企業と消費者と活動家が一緒になって、あるいは企業同士が組織の垣根を超えて一緒に、SDGsの実現に取り組んでいく社会基盤、プラットフォームを創ろうと構想している。 社会資本、シェア、ギフト、おすそ分け、・・これらのオルタナティブ経済議論は重要だし興味深いものだが、一面では、市民運動よりはるかに先に企業の実践・挑戦が始まっているともいえる。対峙ではなく共創の思考と行動。時代を先へと導いてくれるだろう。 (文責:金光隆志)
資本とエシックス -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(4)
さて、経済発展のためには、お金持ちは必要、浪費は美徳、という論を展開してきた。 ここまでの議論をフォローしてきた方には、この論理の手強さはある程度伝わっているのではないか。と同時に、やはりどこか違和感が残っているかもしれない。 そうだとしたら、違和感の正体を、それぞれに突き詰めて考えてみることをオススメする。 そんなことをして何になるのだ、などと言う人は端からこんなエッセイを読んでいないだろうから、何故、はおいておこう。批判思考のちょっとした訓練になるサイドエフェクトは請け合いましょう。 私の場合、違和感は、カネだけが全て、ということのようだ。 思うに資本の決定的な弱点。それは、資本が収益率にしか興味がないこと。 薬を例に考えてみよう。罹患すると大変な苦痛の末に確実に死に至る病があるとする。通念として、この病を治療できる意義は大きいと感じるのではないか。しかしもしこの病が年間にせいぜい1000人しかかからないとしたら、製薬会社は莫大な研究開発費を投じてこの薬を作ろうと思うだろうか。多分、同じ開発費で、死なないけど毎年100万人がかかる病気の治療薬が作れるなら、そちらを優先するだろう。などなど。 つまり、資本にはエシックスはないのである。エシックスなんかより収益率の高い投資機会を求めてさまよい群がるのが、資本の行動原理。悪意も善意もない。そういう生き物。 あるいは、資本の収益最大化行動は、功利主義的立場からは実はそこそこ全体善を実現しているのだというのかもしれない。だが、カネの量最大化=全体善というのは雑に過ぎる。この論を揺さぶるのはすこぶる簡単。例えば、電車の中で足の悪い高齢者に席を譲るのは善いことだろう。この行為にカネは絡まない。むしろ絡んだ瞬間それを善と呼ぶことに躊躇いを感じるはず。以上。 さて、資本が、エシックス欠如という根本的弱点を抱えているのだとすると、それはきっと乗り越えられなければならないはずだ。 ということで、ようやく経済・ビジネス議論のフロントラインにたどり着いたようだ。昨今のSDGs議論、CSV経営、エシカル消費、レスポンシブルコンシューマー、等など。意識的であれ無意識にであれ、資本の側の自己防衛としてであれ労働者/消費者側の生活者としての覚醒・蜂起としてであれ、高度に発達した資本が抱える矛盾の前景化によって、人々がエシックスに向き合い始めた証、といって言い過ぎなら兆候なのではなかろうか。 ところで先程、資本のエシックス欠如、の趣旨をわかりやすく示すために薬を例に語ったが、グローバル製薬企業の名誉のために付言すると、彼らは21世紀から徐々に、患者数の少ない難治性疾患の治療薬開発にも一定の力を入れてきている。その成果は今出つつある。 製薬企業に限らず、IBM、GE、ユニリーバ、Nestle、J&J、Google・・・グローバル企業では、21世紀以降、社会的な問題解決を企業の事業アジェンダとして取り組む動きが広がり、この10年で実際に成果を上げてきている。2000年の国連ミレニアム宣言/ミレニアム開発目標(MDG’s)を境に、といっていいだろう。 ごく最近SDGsを意識し始めた日本企業とは20年近い差がある。この差は絶望的なほど大きいのだと言わざるを得ない。それでも、前に進まないよりは遥かによい。 ということで、そろそろポスト・エシックスを考える準備が揃ってきた。 (文責:金光隆志)
お金はやっぱり浪費とお金持ちがお好き!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備・補助線としての試論(3)-
前回、前々回の話を、マクロな視点から、更に論理展開してみよう。 本質をえぐり出すため、生産財投資や税や政府セクターや、話が見えにくくなることは乱暴なまでに省略し、議論の単純化を行っている点、ご了承願いたい。 さて。 経済の発展とは、究極的には、未来への信頼・信用なはずである。 どういうことか。 市場経済×資本経済における生産と消費には絶対的な矛盾がある。 労働契約で支払われた賃金以上の商品価値を生産しても、賃金以上の消費は出来ない。ということは、一つの経済系の中に閉じている限りは、利潤なんて生まれない。売れない商品の在庫が残って終わり。なのだ。 解決策は「閉じない」以外にはありえない。つまり「外」から買ってくれる人の存在だ。資本は常に「外」を必要とする、ということを了解しておくとよい。 で、これ実は、前々回のたとえ話で言った「なぜかお金を持っている人」のことである。 何故かお金を持っている人とは例えば、なぜか過去からの蓄積がある貴族的な人。あるいは例えば日本人が作ったものを買ってくれる外国人。とか。 でもこれら「空間的な外」には当然限界がある。貴族は過去の蓄積を食い尽くしたらアウト。外国人消費を取り込むとは要するに経済圏をどんどん海外まで広げて「内」に取り込んでいくことだが、取り込み尽くして地球規模での「内」なる経済圏が完成したら終わり。もはやその外からの消費は無い。 そこで、究極の解決策「時間的な外」である。つまり未来の消費の先取り。経済が発展することを前提に、先に支払う。例えば、生産性が上がっていくことを前提に賃金を高くする。そうすると今の消費力があがる。あるいは、人口が増える。そうすると消費力があがる。 さて、時間的な外にだっていずれ限界はあるはずだが「発展する」と信じて金融が資金を提供する限りは、限界は見かけ上は先送りされ続ける。お金を刷り続けることになる。すると最初はインフレが起こる。でも一定範囲のインフレなら、過去の借金棒引き効果があるから、ある程度は辻褄が合っていく。インフレ経済下では投資をしろ、と言われる所以だ。インフレでしばらくは消費も刺激されるから、投資によるさらなる生産力の拡大は、借金棒引き効果とも相まって見返りのあるものとなるだろう。 さて、だが、ここでもし、「欲しいものもう別にないわ」、となったら何が起こるか。「買えるものがない」のじゃなくて、「買いたいものがない」状態。これが実は人類が歴史上初めて迎えつつある現代の先進国市場の姿、なのかもしれない。だから、まだ何がこれから起こるのか、よくわからない。 わからないけど、一つのシナリオは今の日本が見せているかもしれない。 買わなきゃ経済は縮んでいきます。急に縮んだら失業者が増えます。だから緩やかに縮むように、所得が調整されます。デフレです。デフレだと心理的にも財布の紐は少し固くなっていく。買ってほしいから商品の価格も下がってくるでしょう。でもさして欲しくないとそんなにも買わない。するとデフレがさらに進行する。デフレスパイラル。 日本の実態は更に複雑で、人口減少と急速な高齢化という問題も抱えている。労働力が足りないから外国人労働者を大量に受け入れている。でも単純労働が殆どだから大した消費力の向上には繋がらない。肝心の日本人の消費マインドは一向に上がらない。若者だけじゃない。高齢者なんてホントにそんなに今更欲しい物なんかない。かくして金利をマイナスにしてもデフレは止まらない。 こうなると、もう未来への信頼・信用を取り戻せるのか、なかなか難しそうだ。 究極的にはやっぱり前回や前々回の話の通り、余分なものでも買ってくれる金持ちと、不要だけど欲望を刺激する商品を作れる人、この人達が経済を活性化させて、結果、世の中を進化させる医療やら情報テクノロジーやらにも投資のお金が回せる世の中にしていく、というのを無理にでも目指すしか、ないのかそうではないのか。 (文責:金光隆志)
富豪は悪徳? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(2)-
前回は浪費と金持ちを礼賛してみた。 そこで、今回は、逆に富豪を地底に叩き落とすことを試みよう。 富豪って相当恥ずかしいことだと思う。と先ずは言ってみよう。 そもそもなんで富豪が生まれるのか。ちょっと考えてみるとおかしいと思いませんか? 思わないなら、イノベーションには向かない。常識や慣習を全く疑えないのだから。 だが、深く考えた結果、おかしくないと言えるなら話は別だ。 さて、なんで富豪が生まれるのか。簡単なこと。 略奪か、お金でお金を生んでいるか。根本的にはこの2つだ。 (アントルプルナー論はややこしくなるのでちょっと脇におく) 先回りして言っておくと、市場経済と資本経済は全く別、独立したものです。 モノやサービスの価値が取引で決まるのが市場経済。お金がお金を生むのが資本経済。 資本経済を否定したからといって市場経済の否定にはなりません。 しかして、資本は巧みにこの2つを駆使して、ボロ儲けするわけだ。 市場経済で略奪し、資本経済によって、略奪したお金でお金を生んでいる。 なお、お金がお金を生むプロセスは、単純な利子という形もあれば、溜まったお金が一度再び商品に形を変えて再び増えたお金に、というパターンも有る点留意されたい。 これが真実なら、富豪になるって相当恥ずかしいことじゃないですか? さて、資本は、略奪なんて無いというだろう。確かに。現行法的には何ら略奪はない。 雇用者との労働契約と、事業における売上(商品売買契約)。この2つはそれぞれ独立した、別々の意思・同意によって行われている。売上と賃金に差(益)があっても不正ではない。どちらも市場経済を前提とした独立した本人の意思・契約なのだから、そこに差益があっても略奪は無い。 確かに。 しかしおかしくないか?皆で働いて作った商品の収益は皆のものじゃない? 利益が余ったのなら労働者で分配するのが筋じゃない? いざというときのために貯めておく。いいだろう。 事業を大きくするのに必要な投資にとっておく。いいだろう。 でも、あくまで労働者が働いて作った収益。だから契約がどうあれ労働者のもの。違う? うーん。前回の浪費と金持ち礼賛と比べると、論理としてちょっと、いや大分弱いですね。 これ以上論を展開したところで道義論か、人間や人間社会の本質とかを持ち出すイデオロギー論に帰着してしまう。 そもそも労働契約や資本利潤が嫌なら自分たちでギルド的に商売やれば、って話だし。 それを別に禁止していないのだから。勝手にやればいい。やってないだけのこと。やってないのはやれないから。 これは資本主義とかギルドとか関係ない、職人ギルドでも、力ないうちは親方のもとで丁稚奉公で修行するのだから。いや、資本が生産手段を独占しているからして云々・・、いちいち異論に反論していたらキリないのでここらで止める。 いや、一つだけ言っておこう。この議論の延長に出てくるであろう弱者、マイノリティ、他者へのまなざし・・というのはとても大事だ。だが安易不用意にそんな話をもちだしたら、それこそ”社会的承認”云々とやらの目くらましで、本質的論点から目を逸らされてしまうのです。まずはマテリアルな論理を徹底しなければならない。 さて。だからこそ。略奪の不道徳性に訴えた革命が、所詮ルサンチマンを根拠にした革命であり、ルサンチマンとはエゴなのだから、そのエゴを大規模に集約してしまった以上、強烈な力でそれを押さえ込まなければならなかったわけであり、結局暴力と圧政と独裁と権力しか産まなかったわけではなかろうか。 共産主義革命って、資本経済を直接的に否定したんじゃない。労働と商品の市場経済を否定した。だから計画経済に行ってしまった。のではないかな。 生産と消費の矛盾及びお金でお金を生む信用経済≒資本経済の破綻の必然性(というか可能性)を語りながら、初期の疎外・搾取論だけ(は言い過ぎだけど)を根拠に勝手に後進資本主義国で革命して失敗されてしまい、その責をなんとなく着せられたマルクスってちょっと気の毒。 前回にも少し考察したが、お金持ちの否定とは市場経済の否定にほぼ等しい。市場経済の否定は私有財産(自分の労働力という商品も含め)の否定にほぼ等しい。逆に言えば、私有財産があれば市場は必ず生まれるだろう。市場が生まれれば必ずお金持ちが生まれるだろう。そしていずれ大きな資本(ストック)が生まれ、大きな投資が生まれるだろう。大きな投資は更に大きなベネフィットと利益を生むだろう。 例えば、多くの人が薬の開発は否定しないだろう。これには大規模投資がいる。この大規模投資をまかなえるのはお金持ちであり資本だ。 共有資本や社会資本を語る人は論理が逆立ちしている。共有資本や社会資本は市場経済の外に位置する。だが、大きな資本は市場経済からしか生まれない。 あるいは、大きな共有資本や大きな社会資本こそ、怪物的な権力による大きな略奪からしか生まれないだろうと言ったほうがより正確か。 はてさて。ルサンチマンではない私有財産の否定/アウフヘーベンの道ってありやなしや。 (文責:金光隆志)
習慣化のパラドクス
商品やサービスの利用をいかに継続・習慣化するか。昔からある議論だが、DX議論・サブスクモデルの流行、脳神経科学の発達などを背景に、イノベーション界隈のトピックとして再燃しているようだ。 習慣と言えば、商品購入などとは全く別の、啓蒙的な文脈で、「○個の習慣」やら「習慣術」やら「天才の習慣」やら、要は「善い習慣とは何か」を知りそれを「いかに習慣化するか」といった類のHow to本も最近やたら見かける。これはちょっとアイロニカルで面白い現象。考えてみよう。あなたの日々の生活の何割くらいが習慣でできているだろうか?殆どの人が意識しているか無意識かはともかく7、8割は習慣化した行動で日々を生きているはずだ。ことほど左様に、習慣とは根深く、ちょっとやそっとでは変わらんということだろう。啓蒙書の類は、それをやめて「よりよい習慣」に変えよう、と言っているに違いない。だがそれが出来ないから皆悩んでいる、悩んでいるから啓蒙書にすがる、でも出来なくてまた悩む、その繰り返しが、この啓蒙書の類の隆盛を支えているのではないだろうか。私なら、新たな「善い習慣化」などを勧めるより、徹底的に気が散るような「注意散漫ライフのススメ」をしたいところだが、そんな本を出したところで売れないだろうからやめておく。しかし、日常習慣の惰性を打ち破り、あなたを未知の世界との連結・切断を繰り返す「スルドイ」人に変えてくれるのは、注意散漫力をおいて他にない、と大見得を切っておこう。 脱線してしまった。商品・サービス購入・利用の習慣化に話を戻そう。 習慣化にはパラドクスがある。この点をよく了解し、商品・サービス政策を吟味することが習慣を形成する鍵であろう。どういうことか。 全ての習慣には習慣に先立つ「始まり」がある。ではどうやって始まるのか。もちろん興味関心、好奇心、欲望、などが「始まり」を駆動するわけだ。より今風に言えば、予期せぬもの・新しいものを期待する脳の報酬系が作用するのだが、ここに第一のちょっとしたパラドクスがある。端から関心のないことには脳は自動的・能動的にはピクリとも反応してくれないのだ。もともと関心があることにしか能動的には反応しない。しかし、関心があることはある程度知っている。その予測どおりだと思うと好奇心や欲望は駆動されない。つまり。もともと関心があるが、自分が知っていることと違う・あるいはそれ以上の何かがあるのでは、と思ってはじめて、脳は強くそれを知りたいと思うわけだ。ややこしいが押さえておこう。 さて、知っている以上の何か、を期待したとき脳は欲望し能動的に反応する。しかし一方で、脳はすぐさま、それ以上ってこれくらいかな、という期待水準も形成する。そして、実際の経験がこの予測を超えた時に、報酬系ニューロンが再び発火するのだ。脳は報酬系の活性化を受けて、それをまた欲望する。ここで、もしも十分活性化が起こらなければ、次はない。要はトライアルして終わり。つまり。関心があることで今まで以上の何か、それが最初の購買を駆動し、その何かの事前期待値を更に超える利用経験でリピート。ややこしいが押さえておこう。 さて、ここからが第2のパラドクスである。報酬系活性を受けて、2度3度と利用を重ねたとしよう。期待値はどうなっていくだろう?当然実際と予測の差は無くなっていく。しからばもう報酬系は活性化されないのでは?そのとおり。活性化されなければ、脳の報酬を求めて他の商品を試すのでは?そのとおり。関心が続いているのであれば。そう。ここにパラドクスがある。習慣化の始まりには「高関与」の期待形成が鍵となる。しかし、習慣化するには、「高関与」から「低関与」への移行が必要となるのだ。つまり関心が薄れること。合わせて、他に色々な商品が出ても「まあこの程度だろうな」という経験に先立つ予定調和的期待(のなさ)も形成されている必要がある。盲目な恋愛のごとく「高関与」で他には目もくれずLoveな状態、というのが暫く続くことはあろう。永遠に続く愛もあるだろう。だが大抵は盲目Loveからは落ち着いてくる。その時、恋愛には「高関与」だが今の相手にだけ飽きたら?当然浮気の虫がうずくだろう。つまりカテゴリー自体への「高関与」状態が続いているうちは「習慣化」は難しいのである。 ややこしいだろうか。だが、インプリケーションは単純である。 その①「高関与」のうちは、「期待値を超える期待」を形成し続けることが肝要である。 製品にちょっとした変化を加える、サービスをちょっと変える、などなど。これを怠れば瞬く間にあなたの製品は飽きられるだろう。だが、 その②できるだけ早くカテゴリー「低関与」へと移行させ、その前にシェアで決着をつけておけば習慣化の勝者となれる。「期待値を超える期待」ゲームは徐々に収束・終焉に向かう。競合製品も含めて「まあこんなもの」という「期待値どおりの期待」へと変わっていく。その潮目に目を光らせ、徐々にマーケット刺激を減らしていく。最早「期待値を超える期待」は競合にも付け入るすきを与えるから、邪魔になる。というよりも「低関与」化した市場では、少々目先を変えたクリエイティブ程度では市場は動かないと思った方がよいだろう。「低関与」を再び「高関与」にするのは、王道の大きなアンメットを解消する技術イノベーションまたは以前に論じた異質イノベーション、くらいのインパクトが求められるであろう。 「低関与」化は習慣化の必要条件、というより、「低関与」=「習慣化」である。 なお、「低関与」化にはリスクもある。低関与→どうでもいい→大差ないから何でもいい、の契機を孕んでいることだ。要するにコモディティ化。ブランド選考よりも買いやすさや価格選考などが支配的になっていく。これに備えてどうスイッチ障壁を築いておくか、が論点となり得るが、習慣化とは既に別の論点である。 (文責:金光隆志)
消費の生産
モノやサービスを生産して販売するのが企業。それは半分正しい。そして半分も足りない。 いや、もしかすると半分以下かもしれない。 つまりモノやサービスを生産して販売するだけでは企業活動として片手落ち。企業は消費、もっと言えば欲望を生産する主体でもあるのだ。 何を当たり前なことを?そうだろうか。 モノやサービスを必要(≒ニーズ)な人(≒ターゲット)に的確に知らせ(認知)買ってもらう(購買)、その為に注意や興味を引く装飾・修飾・レトリックも使う。多くの企業がマーケティングをそのように考えているのではないか。 殆ど主従が逆である。「ある」と「ない」も逆である。 もともと「ある」ニーズを掘り起こす、のではない。もともと「ない」注意や興味(≒欲望)を創り出し、そこに自社の商品やサービスをあてこむ・合わせる、その為にニーズだターゲットだといったレトリックも使う。 過激に聞こえるかもしれない。だが、それこそがアメリカが創ったビジネスフォーマット、アメリカ覇権の源泉と言っても過言ではないだろう。 大半の商品・サービスにとって、欲望は最初からあるのではない。欲望は作りだされなければならない。商品やサービスを作っただけではそれ自体は欲望中立的、と心得よう。 欲望は、社会・文化・心理・意識によって形成される。よって、それらを援用して形成すること。その為に刺激(シグナル)を構成すること。五感作用・認知作用・意味作用の法則・コードを援用すること。 欲望の形成はメディア特性にも大きく依存する。ソーシャル化したデジタルメディア環境では、欲望がより刺激ー反応的に、同時に模倣ー集団的に、一方で統合を欠いた分散ー部分的に、流動的になってきている。プラットフォーマーだけが勝ち続けられることと無縁ではない。 プロダクトアウトではなくマーケットプルのことを言っているのだろう、と思うかもしれない。全く違う。プロダクトアウトもマーケットプルも欲望についての考え方という点ではどちらも同じ穴の狢であることに敏感であって欲しい。 欲望は創られるものである。殆どの商品に対して、欲望は作られる前には存在しない。 欲望生産のビジネスシステムを洗練させること。欲望生産を軸に企業活動を再編すること。 あなたの企業・ビジネスを根底から変えることになるだろう。 (文責:金光隆志)