1-14 件 / 14 件中
ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
1-14 件 / 14 件中
消費のメカニクス 3.0
マーケティングにおいて大事なことは何か? 消費者の理解?新たな提供価値の構想?購買欲を刺激する仕掛け? 等など。 もちろんどれも大事。というより、それらを行うことがマーケティングですね。 なので、ここでの問いは、それらを行うにあたって、あるいはそれら以前に、大事なこと、です。 それは消費者理解・提供価値構想・購買欲刺激云々に通底する「構造」の認識、です。 もっと言うと、人の行動は構造に・あるいは構造的に規定されている、という認識を持つことが最重要です。 ひとは皆、一人ひとり個性が違い、個性に応じて主体的に意思決定している、と思っています。確かに、個人によって趣味嗜好には違いがあって、それによって意思決定は影響されています。しかし、その趣味嗜好の違い自体が、実はかなりの程度構造的に規定されているのだとしたら? ちなみに消費の構造的規定というと、一昔前(大昔ですが)に流行った議論、と思う方もいるかもしれません。まぁそうなのです。が、一周回ってデジタルの発展によって止揚した形で、その重要性が益々先鋭化してきた、という感じです。図式化して言えば、 「構造が大事」⇒「構造はダメ・個(別)性が大事」⇒「個(別)性だと思っていることの構造が大事」 みたいな。ちょっと単純化しすぎましたが、まぁイメージはそんな感じです。 どういうことか その1:人間=「ポピュレーション」。 人間の行動や欲求は、かなりの程度、デモグラフィックに代表される構造特性によって規定されています。構造特性(属性)には大別して、人口・疫学的属性、社会・文化的属性、経済的属性があります。性別・年齢帯・身長体重・既往症・遺伝子などが人口・疫学属性、家柄・家族構成・ジェンダー・地域・学校・世代・流行経験・幼少体験などが社会・文化属性、職業・役職・雇用形態・年収・世帯年収・資産などが経済属性、です。 その2:人間=人間という「生命種としてのアルゴリズム」。 以前のコラムで、生命=欲望、生命活動とは広義の欲望のFilled-Unfilledギャップを埋める活動≒エネルギー代謝の活動、という話をしました。そして、他の生物とは違い、人間の欲望は方向付けがない・尽きることがない・満たされきることがない、という話も。こんなにも沢山の商品があることがその査証でもあるのですが、それを裏返して言うと、どんな方向にであれFilled-Unfilledギャップを生成すればそれを埋める反応をする、ということです。ちなみに、人の欲望の殆どは人間だけが持つであろう自意識を経由し、その際に精神分析的な意味での他者の欲望の欲望に媒介されます。今どきの承認欲求もベタな例です。一方で人間は行動経済学や社会心理学が明らかにしている通りかなりシステマティックに判断や認知のエラーを起こします。それらの知見の多くが地域や人種によらずあてはまることは、人類種にほぼ共通の判断や認知アルゴリズムがあることを示唆しています。 さて、そんなマクロ属性や生命種特性なんかで現代の複雑な消費者や高度化した消費社会・商品経済を理解できるものか、と思う人は多いでしょう。私もそう思うというかそうであって欲しい。けれども、そうした思いとは裏腹に、現代のデータサイエンスや人間科学は、人の行動が統計的・生物学的・構造的に殆ど決まっている(あるいは決められ得る)ことを明らかにしてきています。もっと言えば、データサイエンスや人間科学の応用によって人の個性や理性は益々空っぽにされてしまった。されたというのは言い過ぎで、意図的にというより結果的にでしょう。いずれにせよ、人は立ち止まって考えるような面倒くさいことはしなくて済む代償として言わばポピュレーションとしての属性・人類という生物種に備わった特性に突き動かされるばかりの存在になってしまったということ。そして、世界の支配的プレーヤーは今や、このポピュレーション・人類という生物種のアルゴリズムや振る舞いの統計的傾向の操作によって莫大な利益を生み出しています。最も先鋭的にはGoogleやFacebookで、彼らのAIやアルゴリズムによって人は意のままに操作され得ます。彼らのAIはあなた以上にあなたをうまく操ることができるのです。 「人類という生命種のアルゴリズム」についてもっと深い議論をするには人間科学(の応用)最先端のコンバージェンスを理解する必要があり、ここではそのスペースも簡潔に語る力量もありませんが「ポピュレーション」のマーケティングについてはもう少しパラフレーズを続けましょう。 デモグラに代表される構造属性の重要性・決定性は、日本における昨今のクリエイティブや事業構想・創造ブームの中で過小評価されています。もっと言うと殆ど無視されています。 曰く、 「差別化」や「イノベーション」のために「提供価値の革新」によって「今までにない市場」を創造することが重要、そのためには漫然と「市場の平均」を見ていてはだめで極論すれば「特定の1人」が本当に「ハマる」体験やサービスを設計することがカギ、云々。 一見もっともだし、実際「構造属性」による決定性を前提した上でなら論旨は悪くない。しかしこれを言う人・実践する人の殆どは真逆に構造属性をむしろ「見ない」ための方法だとさえ思っています。 それがいかに的外れな考えかは、世の中にある商品の消費構造を詳しく分析すればすぐわかります。ある製品カテゴリーにおいて、誰がどのようなタイプの製品を選ぶかは、その製品カテゴリーに応じて複数の構造属性を説明変数にとれば、ほぼ説明されます。これは、製品開発段階でどこまで構造属性を想定したかに関係なく、です。逆に言えばだからこそ沢山のアンメットがあるのです。 構造属性に規定される消費のメカニクスは意思決定(ニーズ・ウオンツやら検討方法やら)から行動プロセス(AIDMAやらVISASやら)全体に及びます。 「マーケティングR&D(マーケティングにおけるR&D活動)」によって構造属性による消費メカニクスの理解・知見はどんどん深まり高精度になっていきます。 ちなみにそこまで深い理解でなくても、構造属性について簡単な解説とエクササイズを行ったあとに、商材は何でも良いのですが例えば、 ・「高齢者向けの掃除機を構想してみてください」 ・「世帯年収600万円程度で共働き、幼児のいるファミリー世帯向け掃除機を構想してみてください」 と問うてみると、マーケティングのプロでなくとも(むしろプロじゃないほうが)たちどころに様々な切り口・アイデアが出てきます。 この程度なら構造属性なんて大げさに考えなくても出来そうだと思うかもしれません。浅いレベルなら実際そうです。 しかし例えば、 「【20代独身で外資系に務める年収800万円の男性、賃貸のデザイナーズマンションに住み、仕事のあとには勉強会などにも参加するなど意識高い、シンプルでナチュラルだが品質の良い清潔感のある服が好み、趣味はアウトドアだが自炊男子でもあり彼女がいてちょくちょく家に遊びに来るのでインドアの楽しみかたも嗜んでいる・・】人向け掃除機を構想してみてください」 という問いを、構造属性のエクササイズを行う前にやるとアイデアが出てこなくなるし出てきても珍答・迷答のオンパレードになります。 で、構造属性のエクササイズを行って再びチャレンジすると、あら不思議、すらすらとアイデアが出はじめます。 ペルソナ設定して参与観察してエクスペリエンスマップやマインドマップを描いて、とか、やるのはよいのですが、やり方です。 「特定の1人」を「一人ひとりの個性」と解すると大きく見誤ります。「特定の1人」はある「構造的特性」によって規定される「市場クラスター」の「代表サンプル」という視点が決定的に重要です。 くどいですが、人の行動は人が自覚している以上に構造属性に規定されています。そして恐らくはデータサイエンスが逆説的に益々その反応傾向を強化しています。人間=ポピュレーションと人間=アルゴリズムのコンバージェンスが起こりつつあると言ってもよいでしょう。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求⑥ -「美」と「夢」と-
前回、「世界観」アーキテクチャという強力なビジネスモデルのコンセプトを概説した。 詳しくは前回を参照頂くとして、その要点を簡単に振り返っておく。 「世界観」は強力な「快」欲望駆動エンジン。「意味やストーリー」の比ではない。「世界観」消費のミソは、世界観自体を直接消費することはできないということ。世界観による魅了は従って、世界観の化身・仮身たる個々商品・ストーリーのヴァリアントを追い求め続ける構造を生む。大きなビジネスチャンスとなる。このチャンスは世界観・商品ヴァリアント生成のアーキテクチャとしてSECT連携/スタジオ型モデルを構築することで実現可能となる。 さて、ここまで理解したとしても、恐らく残るだろう疑問・興味。「世界観」って何? 「世界観」は、これが世界観です、と言葉で説明するのは本当に困難なのだが、強いてもう少しパラフレーズを行うことにしよう。 原理的な理解のために、やや概念的抽象的に論じることをお許し頂きたい。決して机上論ではない。原理とは観察的現実からのパターンの抽象である。 「世界観」とは何か。 それは論理的構造ではない。構成概念ですらない。感覚的官能(の対象)である。 「美」×「夢」に近い、とひとまず言っておく。益々ハテナ、だろうか。 3大価値の「真」・「善」・「美」にそれぞれ対応するのが「知性」・「理性」・「感性」である、という補助線を引けば、感覚的官能である「世界観」とは「感性」による感応の「美」に近いもの、ということがある程度了解されよう。 では「美」とはなにか。 それを考える前提として、美はどのように感受されるかを理解しておこう。 美とはまずもって、感性によって感受され「快」情動を誘発する対象、である。 感性による感受は知性や理性を介さない、言わば直接の認識作用である。言語化困難・説明不能の所以だ。 逆に言おう。知性や理性を介在させないで直接感受される、ということは、「美」には有無を言わせないで人を惹き付ける力がある、ということである。「美」による「快」がずっと続いて欲しい、もっと強く感じたいという「More」の欲望を駆動する。強力で中毒性がある所以だ。 ところで知性や理性が介在しないとどうなるか。当然それに対応する、真や善の判断が行われない、ということになる。そう、美の感受は真か善かを問わない、つまりは禍々しいものや悪にさえ、いや寧ろそういうものにこそ、侵犯やタナトスの欲望をかきたてる「美」を感じてしまうこともあるのだ。という話はビジネス論としてはちょっと刺激が強すぎるのでここで止めておこう。しかし覚えておくとよいのは、感性による「美」感受の前では批判的思考は停止し、ただただ惹きつけられるのだということ。そして驚くべきことに、醜、悪、悲・痛・死・・といった、それ自体を見るとマイナスと思えるものが、大きく美へと転じたり、負のものが至高なるものや純然たる美と結合して更に強い新たな美を感受させる、といったことがいとも簡単に起こってしまうのだ。タレントの直美がインスタの女王となり、今やある種「美」女としてカリスマ的存在になっている現象を思い起こすとよいだろう。ピンとこない人には、10年前のお笑いタレント直美と今の直美を、本人の変化と同時に社会受容の背景・変化を分析・考察してみることを勧める。まじめに言っている。「世界観」を構成する「美」とその働きについて、それこそ感覚的に正体を捉える一助となるだろう。 論旨が冗長になった。要点を少しまとめておこう。 「美」は感性が感受し「快」情動を誘引する対象である。 感性による感受は知性や理性を介さない、即ち自己反省が働かない、従って、 その1。美の追求行動は、盲目的なほどに強度と勢いを増していく。 その2。美は、真や善を超越して、直接的に、逃れ難く人を惹き付ける。 その3。負なものが大きく美へと転じたり、負と正が複合して新たな美の感覚を生み出す。 さて、このように美の働き方・感受の仕方を理解すれば、美とは何か、朧気ながら見えてくるのではないか。至高、高貴、明晰、簡潔、均整、華麗、豪奢・・といった西洋的「美」、自然・わび・さび・幽玄・あはれ・・といった日本的「美」など常識的正統的に美しいとされるものは勿論美と感受されるものの一部だが、全部ではない。例えば儚さ、悲壮、壮絶、魔力、侵犯、死・・といったものもそれ自体、あるいは他の美へのメタフォリックな表象結合によって反転して美と感受され得るのだ。 ところで、美は真・善の判断をすっとばして直接的に感性によって感受されると説明した。話がややこしくなるので留保してきたが、これは真・善の観念が美の判断に無関係ということではない。真なるもの・善なるものの通念(大げさにいうと共同幻想)が、崇高の観念を呼び覚まし、心酔させることで、感性的「美」の感受を引き起こすのはよくあることだ。中世における宗教芸術とその政治性を思い起こせば合点いくであろうか。現代で言えばテクノロジーやクリエイティブの称賛・信仰から、テクノロジー自体に感性的に心酔する「美」意識が生じているし、ポリコレやエシカルがそれ自体で感性的に「美」意識を生んでいる。要はこれらに対しては無批判・無警戒に「快」を感じる心性が広がっているということだ。 ところで、冒頭で「美」×「夢」といった。詳述の余裕はないが、「世界観」形成において「美」と「夢」は共犯する。「夢」とは眠ったときに見る夢に加え、現実ではないという意味で幻想の隠喩であり、現実化困難な妄想・理想の隠喩である。妄想は膨らみ理想は希求し追い求めずにいられない。だがそれは幻想ゆえに現実には成就・満たし難い、しかしだからこそ、欲望し、夢見ることで代理昇華する。ヴァーチャルに満たすことを望むと言い換えても良い。ラノベやアニメで異世界転生モノや中でもチートものが人気があったり、ゲーム内のヴァーチャルライブ等に何万人もの人が集まったり、VRにはまったり、というのは現実では満たされない(つまり非リアジュウ状態)自分の幻想・理想(の姿)をヴァーチャルに満たす・代理表象する心理であろう。そして現実の生活には時間的空間的制約・限界があるのに対して、ヴァーチャルの幻想には時間的空間的制約はない。つまり永続である。ヴァーチャルにはずっと引き篭もっていられるのだ。「美」の「快」が生み出す「いつまでも・もっともっと」の欲望とヴァーチャルの永続性が見事にシナジーする。前回コラムで「世界観」消費はデジタルと相性が良いといった所以はこれである。 即ち「美」×「夢」=「世界観」とは、感性により感受される美の「快」情動をいつまでもどこまでも追い求めたいという夢に接続・ヴァーチャルに表象し、知性や理性による自己反省の及ばないところで欲望を駆動し続ける装置、と暫定的ではあるが定義しておこう。 本稿における「美」とはエステティックのことであり、エステティックの対象はアートよりも広域・領域横断的なものである。精神的あるいは社会的領域全般に及ぶ。「世界観」構想には欲望の原理的理解や社会・文化の分析・作用コードの考察等が有効である点、理解されたい。それらを蓄積した上で行う構想が、何の蓄積もないところで「個人の主観から」構想したものと、まるで次元の違う世界観に繋がるだろうことは察しがつくだろう。イーロンマスクのSpace X等を引用して「個人の妄想からすべてがはじまる」等、笑止である。ちなみにSpace Xについて言えば、2000年前後にシリコンバレーで数多設立された宇宙開発ベンチャーの一つであり既に20年近い開発の歴史とNASAに対する事業実績がある。「個人の主観的で大胆な妄想」によってではなく、優秀な科学者技術者を集積し、「宇宙開発上の技術課題に対する解決力の優位性」で成長してきた。火星植民構想は一見大胆なようで彼らオリジナルというより宇宙開発・特にNASAが超長期のオルタナティブ可能性として探査してきているものであるし、商売のリアルを言えばその手前に惑星探査関連での多大なビジネスチャンスが見えている。その延長(というか遥か手前)に話題性のある一つの取り組みとして宇宙旅行もある。これも断じて妄想などではないのだが、例えば同じことをJAXAが言ったりやるのと、イーロンマスクというシリコンバレーのカリスマ(がつくったSpace X)が言ったりやるのとでは全然惹き付ける力・ワクワク感が違う。さらには、同じイーロン・マスクが言うにせよ「宇宙旅行」とうのと例えば「地震予知100%の実現」というのとでは妄想レベルでは後者の方が格段に妄想だが、前者のほうが圧倒的にロマンを感じさせる。「え、宇宙旅行?なにそれそんなことできるの、イーロン・マスクすごーい!」というのが、知性・理性が停止し感性によって感受・駆動された「美」の「快」情動であり、それを冷静に、宇宙開発の歴史的進化をひもとき、「そういうことか」と理解納得するのが知性・理性の働きである。 まぁそういうことなのだが、”イノベーション発想法”文脈で個人主観・妄想を提唱するのと本稿で論じた「世界観」の構想は、控えめに言って目的や趣旨の異なる議論であり両者に特段の関係は無い、しかしながら知性や理性を停止した安直な雰囲気論理にはそれこそ人の「快」情動を駆動して判断を停止させるキケンがあることは付言しておく。 (文責:金光隆志)
ひとのとき -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(終)
企業はこれから益々、社会的な課題に取り組み、社会的責任を果たす方向へと進んでいく。間違いのないことだろう。 日本では未だESGやSDGsをメセナの延長くらいに認識している企業も多い。だが、欧米企業は遠の昔に事業活動においてESGを意識し、SDGsへの取り組みを強化してきている。ESG格付け機関によるスコアが、ESG銘柄として企業価値を直接・間接に左右するなど、株主/資本にとっても、もはやESGは無視できないどころか、企業がSDGsに積極的に取り組むことが株主のメリットに繋がる重要なアジェンダとなってきている。 SDGsに取り組むことが企業価値にプラスに働くなら、善意でも悪意でもなく、資本はSDGsに取り組むESG銘柄に集まるだろう。尤も、これは自己言及的な構造でもある。欧米の有力機関投資家の多くは国連環境計画の金融イニシアティブPRIに署名している。PRIに署名した金融機関はPRIの基準を満たすために、企業にESGへの取り組みを要請し、ESG取り組みが水準以上の企業に投資をする必要がある。当然ESG銘柄に資金が集まる。株価があがる、まぁからくりはどうでもいい。有力企業にはSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブがある、ということだ。 企業がSDGsに取り組むプレッシャーとインセンティブはもう一つある。これも欧米では顕著だが、Z世代を中心としたエシカル消費・ポリコレコンシューマーの増大である。人や社会や環境に対し責任を果たしている企業の商品を選択する、という、消費行動を通じて、よりよい世界を実現しようというのがエシカル消費。このような考え方をする消費者が増えれば増えるほど、企業はSDGsに取り組むことが必須となっていく。 現段階では、ESGと資本効率(ROE)のバランス・両立、などという議論も未だなされる(日本で顕著)が、本質的ではない。もしエシカル消費が十分広範に浸透すれば、SDGsとROEはより連動性を高めていくことになるだろう。新指標として提唱されているROESG(ROEとESGスコアの合成でバランス・両立を測る)等、ROE(資本)とESG(社会責任)のトレードオフをインプリシットに前提しているような議論は、いずれ終焉するだろう。はっきりいって、世界の先端から見れば既に周回遅れの議論である。 さてここまでは、外からのプレッシャーへの反応で企業が変わっていくというストーリーを語ったが、最後にもうワンピースある。それは、企業自身の内からの変化である。消費者とは誰のことか?言うまでもなくその多くは企業の従業員でもある。消費者・生活者としてエシカル意識のある人間が、会社の従業員という立場ではアンチエシカルに考える・行動する、というのは中々難しい。企業は内からも、エシカルに考える人々(消費者→従業員)によって運営されていくようになる。 ここにきて、重要なことが明らかになったであろう。生活者がエシカルになることと企業がエシカルになることは、ほぼ同時進行なはずなのだ。当たり前だが、企業の性格を決めるのは最終的には人である。とりわけお客様である生活者である。企業は生活者の要求に応えて初めて存在できる。一方で生活者とは企業の従業員でもある。全てが連動していく。 ところで私の見立てでは、いまちょっと面白いというか、おかしなことが起きている。 振り返れば、SDGsにおいて、現在一番意識が先行しているのがESG投資を推進する金融(資本)であり、それに応える形で企業がSDGsに取り組み、一方消費者はと言えば、Z世代を中心にエシカル消費意識が高まりつつあるとはいえ、まだまだエゴが強い、という構造だ。市民のエゴな欲望が強いからこそ、国家もエゴイスティックでナショナリスティックになるのだろう。 まるで逆立ちではないか。社会的行動を積極的に取ろうと思う企業は生活者に社会的行動を啓蒙しなければならない、わけだ。このねじれが、ROEとSDGsのバランス・両立といった議論をあたかも本質に見せてしまう。だが今はそれでよいのではないか。企業と消費者、どちらが先行しようと、いずれ相互にもっと影響し合う関係になっていくだろう。 そしてこれまでの論理で明らかな通り、エシカル消費が広く生活者に浸透した暁には企業は当然エシカルになっており、即ち社会全体がエシカルになっているはずだ。楽観的に過ぎるだろうか。だがここにトレードオフはありえない。エシカルと懐具合のトレードオフに悩むことは起こり得るだろう。あるいは行き過ぎたエシカル/ポリコレが逆に問題となることもあるだろう。だがそうやって、正―反―合の運動をくりかえしながら、ポストエシカル消費の世界は形成されていく。 日本でも進んだ企業では、30年先の社会をエクストリームな形で想定し、そうだとしたら今何をすべきか、という思考でSDGsへの取り組みを駆動している。自らなにかを仕掛けるだけでなく、自社の事業資産やケイパビリティを開放して、市民や活動家に社会問題解決に役立ててもらうことは出来ないか、考えている企業もある。「ひとのとき」では、企業と消費者と活動家が一緒になって、あるいは企業同士が組織の垣根を超えて一緒に、SDGsの実現に取り組んでいく社会基盤、プラットフォームを創ろうと構想している。 社会資本、シェア、ギフト、おすそ分け、・・これらのオルタナティブ経済議論は重要だし興味深いものだが、一面では、市民運動よりはるかに先に企業の実践・挑戦が始まっているともいえる。対峙ではなく共創の思考と行動。時代を先へと導いてくれるだろう。 (文責:金光隆志)
お金はやっぱり浪費とお金持ちがお好き!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備・補助線としての試論(3)-
前回、前々回の話を、マクロな視点から、更に論理展開してみよう。 本質をえぐり出すため、生産財投資や税や政府セクターや、話が見えにくくなることは乱暴なまでに省略し、議論の単純化を行っている点、ご了承願いたい。 さて。 経済の発展とは、究極的には、未来への信頼・信用なはずである。 どういうことか。 市場経済×資本経済における生産と消費には絶対的な矛盾がある。 労働契約で支払われた賃金以上の商品価値を生産しても、賃金以上の消費は出来ない。ということは、一つの経済系の中に閉じている限りは、利潤なんて生まれない。売れない商品の在庫が残って終わり。なのだ。 解決策は「閉じない」以外にはありえない。つまり「外」から買ってくれる人の存在だ。資本は常に「外」を必要とする、ということを了解しておくとよい。 で、これ実は、前々回のたとえ話で言った「なぜかお金を持っている人」のことである。 何故かお金を持っている人とは例えば、なぜか過去からの蓄積がある貴族的な人。あるいは例えば日本人が作ったものを買ってくれる外国人。とか。 でもこれら「空間的な外」には当然限界がある。貴族は過去の蓄積を食い尽くしたらアウト。外国人消費を取り込むとは要するに経済圏をどんどん海外まで広げて「内」に取り込んでいくことだが、取り込み尽くして地球規模での「内」なる経済圏が完成したら終わり。もはやその外からの消費は無い。 そこで、究極の解決策「時間的な外」である。つまり未来の消費の先取り。経済が発展することを前提に、先に支払う。例えば、生産性が上がっていくことを前提に賃金を高くする。そうすると今の消費力があがる。あるいは、人口が増える。そうすると消費力があがる。 さて、時間的な外にだっていずれ限界はあるはずだが「発展する」と信じて金融が資金を提供する限りは、限界は見かけ上は先送りされ続ける。お金を刷り続けることになる。すると最初はインフレが起こる。でも一定範囲のインフレなら、過去の借金棒引き効果があるから、ある程度は辻褄が合っていく。インフレ経済下では投資をしろ、と言われる所以だ。インフレでしばらくは消費も刺激されるから、投資によるさらなる生産力の拡大は、借金棒引き効果とも相まって見返りのあるものとなるだろう。 さて、だが、ここでもし、「欲しいものもう別にないわ」、となったら何が起こるか。「買えるものがない」のじゃなくて、「買いたいものがない」状態。これが実は人類が歴史上初めて迎えつつある現代の先進国市場の姿、なのかもしれない。だから、まだ何がこれから起こるのか、よくわからない。 わからないけど、一つのシナリオは今の日本が見せているかもしれない。 買わなきゃ経済は縮んでいきます。急に縮んだら失業者が増えます。だから緩やかに縮むように、所得が調整されます。デフレです。デフレだと心理的にも財布の紐は少し固くなっていく。買ってほしいから商品の価格も下がってくるでしょう。でもさして欲しくないとそんなにも買わない。するとデフレがさらに進行する。デフレスパイラル。 日本の実態は更に複雑で、人口減少と急速な高齢化という問題も抱えている。労働力が足りないから外国人労働者を大量に受け入れている。でも単純労働が殆どだから大した消費力の向上には繋がらない。肝心の日本人の消費マインドは一向に上がらない。若者だけじゃない。高齢者なんてホントにそんなに今更欲しい物なんかない。かくして金利をマイナスにしてもデフレは止まらない。 こうなると、もう未来への信頼・信用を取り戻せるのか、なかなか難しそうだ。 究極的にはやっぱり前回や前々回の話の通り、余分なものでも買ってくれる金持ちと、不要だけど欲望を刺激する商品を作れる人、この人達が経済を活性化させて、結果、世の中を進化させる医療やら情報テクノロジーやらにも投資のお金が回せる世の中にしていく、というのを無理にでも目指すしか、ないのかそうではないのか。 (文責:金光隆志)
資本とエシックス -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(4)
さて、経済発展のためには、お金持ちは必要、浪費は美徳、という論を展開してきた。 ここまでの議論をフォローしてきた方には、この論理の手強さはある程度伝わっているのではないか。と同時に、やはりどこか違和感が残っているかもしれない。 そうだとしたら、違和感の正体を、それぞれに突き詰めて考えてみることをオススメする。 そんなことをして何になるのだ、などと言う人は端からこんなエッセイを読んでいないだろうから、何故、はおいておこう。批判思考のちょっとした訓練になるサイドエフェクトは請け合いましょう。 私の場合、違和感は、カネだけが全て、ということのようだ。 思うに資本の決定的な弱点。それは、資本が収益率にしか興味がないこと。 薬を例に考えてみよう。罹患すると大変な苦痛の末に確実に死に至る病があるとする。通念として、この病を治療できる意義は大きいと感じるのではないか。しかしもしこの病が年間にせいぜい1000人しかかからないとしたら、製薬会社は莫大な研究開発費を投じてこの薬を作ろうと思うだろうか。多分、同じ開発費で、死なないけど毎年100万人がかかる病気の治療薬が作れるなら、そちらを優先するだろう。などなど。 つまり、資本にはエシックスはないのである。エシックスなんかより収益率の高い投資機会を求めてさまよい群がるのが、資本の行動原理。悪意も善意もない。そういう生き物。 あるいは、資本の収益最大化行動は、功利主義的立場からは実はそこそこ全体善を実現しているのだというのかもしれない。だが、カネの量最大化=全体善というのは雑に過ぎる。この論を揺さぶるのはすこぶる簡単。例えば、電車の中で足の悪い高齢者に席を譲るのは善いことだろう。この行為にカネは絡まない。むしろ絡んだ瞬間それを善と呼ぶことに躊躇いを感じるはず。以上。 さて、資本が、エシックス欠如という根本的弱点を抱えているのだとすると、それはきっと乗り越えられなければならないはずだ。 ということで、ようやく経済・ビジネス議論のフロントラインにたどり着いたようだ。昨今のSDGs議論、CSV経営、エシカル消費、レスポンシブルコンシューマー、等など。意識的であれ無意識にであれ、資本の側の自己防衛としてであれ労働者/消費者側の生活者としての覚醒・蜂起としてであれ、高度に発達した資本が抱える矛盾の前景化によって、人々がエシックスに向き合い始めた証、といって言い過ぎなら兆候なのではなかろうか。 ところで先程、資本のエシックス欠如、の趣旨をわかりやすく示すために薬を例に語ったが、グローバル製薬企業の名誉のために付言すると、彼らは21世紀から徐々に、患者数の少ない難治性疾患の治療薬開発にも一定の力を入れてきている。その成果は今出つつある。 製薬企業に限らず、IBM、GE、ユニリーバ、Nestle、J&J、Google・・・グローバル企業では、21世紀以降、社会的な問題解決を企業の事業アジェンダとして取り組む動きが広がり、この10年で実際に成果を上げてきている。2000年の国連ミレニアム宣言/ミレニアム開発目標(MDG’s)を境に、といっていいだろう。 ごく最近SDGsを意識し始めた日本企業とは20年近い差がある。この差は絶望的なほど大きいのだと言わざるを得ない。それでも、前に進まないよりは遥かによい。 ということで、そろそろポスト・エシックスを考える準備が揃ってきた。 (文責:金光隆志)
富豪は悪徳? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(2)-
前回は浪費と金持ちを礼賛してみた。 そこで、今回は、逆に富豪を地底に叩き落とすことを試みよう。 富豪って相当恥ずかしいことだと思う。と先ずは言ってみよう。 そもそもなんで富豪が生まれるのか。ちょっと考えてみるとおかしいと思いませんか? 思わないなら、イノベーションには向かない。常識や慣習を全く疑えないのだから。 だが、深く考えた結果、おかしくないと言えるなら話は別だ。 さて、なんで富豪が生まれるのか。簡単なこと。 略奪か、お金でお金を生んでいるか。根本的にはこの2つだ。 (アントルプルナー論はややこしくなるのでちょっと脇におく) 先回りして言っておくと、市場経済と資本経済は全く別、独立したものです。 モノやサービスの価値が取引で決まるのが市場経済。お金がお金を生むのが資本経済。 資本経済を否定したからといって市場経済の否定にはなりません。 しかして、資本は巧みにこの2つを駆使して、ボロ儲けするわけだ。 市場経済で略奪し、資本経済によって、略奪したお金でお金を生んでいる。 なお、お金がお金を生むプロセスは、単純な利子という形もあれば、溜まったお金が一度再び商品に形を変えて再び増えたお金に、というパターンも有る点留意されたい。 これが真実なら、富豪になるって相当恥ずかしいことじゃないですか? さて、資本は、略奪なんて無いというだろう。確かに。現行法的には何ら略奪はない。 雇用者との労働契約と、事業における売上(商品売買契約)。この2つはそれぞれ独立した、別々の意思・同意によって行われている。売上と賃金に差(益)があっても不正ではない。どちらも市場経済を前提とした独立した本人の意思・契約なのだから、そこに差益があっても略奪は無い。 確かに。 しかしおかしくないか?皆で働いて作った商品の収益は皆のものじゃない? 利益が余ったのなら労働者で分配するのが筋じゃない? いざというときのために貯めておく。いいだろう。 事業を大きくするのに必要な投資にとっておく。いいだろう。 でも、あくまで労働者が働いて作った収益。だから契約がどうあれ労働者のもの。違う? うーん。前回の浪費と金持ち礼賛と比べると、論理としてちょっと、いや大分弱いですね。 これ以上論を展開したところで道義論か、人間や人間社会の本質とかを持ち出すイデオロギー論に帰着してしまう。 そもそも労働契約や資本利潤が嫌なら自分たちでギルド的に商売やれば、って話だし。 それを別に禁止していないのだから。勝手にやればいい。やってないだけのこと。やってないのはやれないから。 これは資本主義とかギルドとか関係ない、職人ギルドでも、力ないうちは親方のもとで丁稚奉公で修行するのだから。いや、資本が生産手段を独占しているからして云々・・、いちいち異論に反論していたらキリないのでここらで止める。 いや、一つだけ言っておこう。この議論の延長に出てくるであろう弱者、マイノリティ、他者へのまなざし・・というのはとても大事だ。だが安易不用意にそんな話をもちだしたら、それこそ”社会的承認”云々とやらの目くらましで、本質的論点から目を逸らされてしまうのです。まずはマテリアルな論理を徹底しなければならない。 さて。だからこそ。略奪の不道徳性に訴えた革命が、所詮ルサンチマンを根拠にした革命であり、ルサンチマンとはエゴなのだから、そのエゴを大規模に集約してしまった以上、強烈な力でそれを押さえ込まなければならなかったわけであり、結局暴力と圧政と独裁と権力しか産まなかったわけではなかろうか。 共産主義革命って、資本経済を直接的に否定したんじゃない。労働と商品の市場経済を否定した。だから計画経済に行ってしまった。のではないかな。 生産と消費の矛盾及びお金でお金を生む信用経済≒資本経済の破綻の必然性(というか可能性)を語りながら、初期の疎外・搾取論だけ(は言い過ぎだけど)を根拠に勝手に後進資本主義国で革命して失敗されてしまい、その責をなんとなく着せられたマルクスってちょっと気の毒。 前回にも少し考察したが、お金持ちの否定とは市場経済の否定にほぼ等しい。市場経済の否定は私有財産(自分の労働力という商品も含め)の否定にほぼ等しい。逆に言えば、私有財産があれば市場は必ず生まれるだろう。市場が生まれれば必ずお金持ちが生まれるだろう。そしていずれ大きな資本(ストック)が生まれ、大きな投資が生まれるだろう。大きな投資は更に大きなベネフィットと利益を生むだろう。 例えば、多くの人が薬の開発は否定しないだろう。これには大規模投資がいる。この大規模投資をまかなえるのはお金持ちであり資本だ。 共有資本や社会資本を語る人は論理が逆立ちしている。共有資本や社会資本は市場経済の外に位置する。だが、大きな資本は市場経済からしか生まれない。 あるいは、大きな共有資本や大きな社会資本こそ、怪物的な権力による大きな略奪からしか生まれないだろうと言ったほうがより正確か。 はてさて。ルサンチマンではない私有財産の否定/アウフヘーベンの道ってありやなしや。 (文責:金光隆志)
浪費は美徳!?金持ちは必要!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備/補助線としての試論(1)-
今日は少し変な考察をしてみましょう。 一般に浪費は悪徳とされる。節約・倹約は美徳とされる。本当だろうか? そこで、ひとつ簡単な考察をしてみましょう。 ここに5人の生産者がいます。それぞれ米、野菜、精肉、服、宝石を作っています。 みんなお金は大してもっていません。すると何が起こるか。想像されるのは、宝石売れないだろうな、ということ。売れないとどうなるか。宝石屋さん飢えて死んでしまいます・・ さて、ここに一人お金持ちがいたとしましょう。この人は何も生産していませんが何故か沢山お金を持っている。お金があれば、大して必要ないものでも買ってくれます。宝石を沢山買ってくれたとしましょう。すると宝石屋さんにもお金が入ります。必要なものが買えます。 この話どう思いますか。宝石なんて必要ないものを作った人が悪い?死ぬのは自業自得? では宝石ではなく、椅子・机を作っていたけど、皆一応間に合ってるから無駄使いする余裕も無いし買ってくれなかったのだとしたら?やっぱり自業自得? 人に必要とされるものを作れない人が悪い? でもそんなにみんな、必要なものありますか?そして必要なものなら誰でも何でも作れますか? 多分殆どの人は、あってもなくてもどっちでもいいものしか作れないんじゃない?もう少し言って、必要なものだけしか経済で回らない世の中になったら殆どの人、死んでしまうんじゃないの?マンガはもとより、絵とか要らない、結婚式のきれいなドレスとかいらない、化粧なんて不要、スポーツなんて体力の無駄、学者なんてくそくらえ・・とか言ってたら、経済回らないし、無理にそれで回したとしても世の中つまらないし。 もの凄く乱暴に言って不景気とはこういうこと。皆が何らかの理由で節約・倹約すると景気は悪くなります。何等かと言ったけど、節約・倹約の理由は基本的には将来不安。食べるに困らないと思ったらみんな無駄なもの買いますから。欲望過剰は人間の本性。という話は論点がずれるのでこれ以上は言わない。 戻そう。だから。未来永劫食べるに困らないと思う人が、じゃんじゃん浪費してくれたら、庶民にもお金が回ってきて、少し贅沢出来る人も出て、大して必要ないものも売れるようになって、そういうのもを作る人にもお金が回って、経済全体が活性化するはずなのです。 人類生態系におけるキーストーンとなる少数のお金持ち。 大して必要なくても人の欲望を掻き立てる商品を作れる人たち。 これらの人が肥大化した人類の経済活性化のカギを握っているのではなかろうか。足るを知ったら現代経済も社会も終わる。浪費は美徳。金持ちは必要。 異論・反論・反感・・あるかと。しかしこの話を論理的に論破するのはかなり難しいと思う。 せいぜい統計的にトリクルダウン仮説を棄却する、程度のことしか出来ず、更に言えば、だから累進課税を大きく、程度のことしか言えない・言わないのだとすれば、何ら論破になっていない。 「金持ちが思ったほど富を使ってくれないからその人達から強制的に巻き上げて皆に配りましょう」と言うのは、上記論理の劣化ヴァリアントに過ぎないのだ。格差拡大が問題、など論外。貧困は問題だが格差は問題じゃない。メッシにビッグマネーが集まるからといって、Jリーガーが不公平だ、と言ったところで痛いだけ。メッシとJリーガーを企業家と労働者に置き換えても同じこと。資本と労働の分配率云々も同じこと。ビル・ゲイツが大富豪でMS社員が貧困なら流石に問題かもしれないが格差は問題か? 恐らく私有財産を否定しないかぎり、浪費と金持ちを否定は出来ないだろう、と思う。 否定できないから累進課税で強制的に制約しようというのは暴力的だ、ということには敏感でありたい。 だいぶ話がずれてきた。余談ついでに衝撃的な?事実をひとつ。 かのカールマルクス大先生も実は借金しまくりの大変な浪費家だったのさ!! (文責:金光隆志)
消費の生産
モノやサービスを生産して販売するのが企業。それは半分正しい。そして半分も足りない。 いや、もしかすると半分以下かもしれない。 つまりモノやサービスを生産して販売するだけでは企業活動として片手落ち。企業は消費、もっと言えば欲望を生産する主体でもあるのだ。 何を当たり前なことを?そうだろうか。 モノやサービスを必要(≒ニーズ)な人(≒ターゲット)に的確に知らせ(認知)買ってもらう(購買)、その為に注意や興味を引く装飾・修飾・レトリックも使う。多くの企業がマーケティングをそのように考えているのではないか。 殆ど主従が逆である。「ある」と「ない」も逆である。 もともと「ある」ニーズを掘り起こす、のではない。もともと「ない」注意や興味(≒欲望)を創り出し、そこに自社の商品やサービスをあてこむ・合わせる、その為にニーズだターゲットだといったレトリックも使う。 過激に聞こえるかもしれない。だが、それこそがアメリカが創ったビジネスフォーマット、アメリカ覇権の源泉と言っても過言ではないだろう。 大半の商品・サービスにとって、欲望は最初からあるのではない。欲望は作りだされなければならない。商品やサービスを作っただけではそれ自体は欲望中立的、と心得よう。 欲望は、社会・文化・心理・意識によって形成される。よって、それらを援用して形成すること。その為に刺激(シグナル)を構成すること。五感作用・認知作用・意味作用の法則・コードを援用すること。 欲望の形成はメディア特性にも大きく依存する。ソーシャル化したデジタルメディア環境では、欲望がより刺激ー反応的に、同時に模倣ー集団的に、一方で統合を欠いた分散ー部分的に、流動的になってきている。プラットフォーマーだけが勝ち続けられることと無縁ではない。 プロダクトアウトではなくマーケットプルのことを言っているのだろう、と思うかもしれない。全く違う。プロダクトアウトもマーケットプルも欲望についての考え方という点ではどちらも同じ穴の狢であることに敏感であって欲しい。 欲望は創られるものである。殆どの商品に対して、欲望は作られる前には存在しない。 欲望生産のビジネスシステムを洗練させること。欲望生産を軸に企業活動を再編すること。 あなたの企業・ビジネスを根底から変えることになるだろう。 (文責:金光隆志)
欲望の探求
あなたが何を欲するか。脳科学やビッグデータによって丸裸にされる日が来る? あなた自身よりもテクノロジーの方が遥かに正確に言い当てる、そんな現実/近未来が語られる。けれども、ことはそう簡単ではない。 欲望は何によって決まるのか。とても複雑だけどあえて少しパターン了解を試みよう。 その①生体的特性。例えば何故甘いものが好きか。甘味が脳内麻薬物質のβエンドルフィン産生を活性化させるからです。その中毒性たるやコカインなど麻薬の比ではないらしい。 その②学習的特性。例えば何故苦いものが好きになるのか。実はよく解っていない。生理的、社会的、状況的学習が絡み合い複雑なメカニズム。 しかし繰り返し経験する中で好きになったりやみつき(中毒)になったりすることは確か。 その③心理負荷軽減特性。例えばなぜ「おススメ」に従ってしまうのか。もちろんビッグデータやAIで、あなたが好みそうなものを提示されているというのはある。だが複雑・曖昧な状況はストレスホルモンを分泌させ、単純化はそれをリリースするというそれこそ単純なメカニズムも働いている。色々試着させられたらついどれか買ってしまう、等の背後にも働いているメカニズム。 その④社会コード。例えば何故LVのバッグが欲しいのか。乱暴に言えばLV持てば優越感を感じられるから。優越感はドーパミン等脳内麻薬物質放出のトリガーになります。ではなぜLV持つと優越感に浸れるか。そのように文化・社会によってコード化されているから。 その⑤模倣的特性。例えば何故ハロウィン仮装はかくも一般的になったか。私は2010年頃から仮装イベントに参戦しているが当時街中では変人を見る目で見られたものだ。ところが年々数が増え、いまや東京ならそこらじゅうどこでもみんな仮装している。もちろん仮装には④の裏返しとして日常性(コード)侵犯という欲望を駆動するメカニズムはあるのだが、この流行自体に必然性はない。多くの流行現象にはメカニズムはあるが必然性は無い。模倣が模倣がよんでネットワーク効果が働いた結果だろう。 その⑥作業的必要性。紙を切るのにハサミが欲しい、とかその手の話 などなど。まぁ人の欲望を丸裸にするなんてのは、とてつもなく大変なことだろうと思う。脳科学やデジタル、ビッグデータ云々だけでは無理。社会の学との相互通貫も求められる。とてつもない難事だ。 だけれども、断片的にでもこれらの知見を貯め続けると。事業創造も商品開発もマーケティングも、随分と面白くなってくるのじゃないだろうか。 そのような取り組みを仕組み化するのがクロスパートが開発し提唱しているSECT連携体制である。自分達で言うのもなんだが、これはスゴイです。3年も続ければ他の企業とは次元の違うイノベーション基盤と体質を手に入れていることでしょう。 (文責:金光隆志)
イノベーションとアート
イノベーションとアートは近親関係にある。 巷では、合理や論理では出てこない解、直観的・感性的な解を求めてアート的アプローチ、云々と言われているようだが、恐らく言っている当人が何のことだかわからず言っている。 消費について、論理ではなく快楽論者である私は、感性の判断を信じるものではあるが、この手の「アート」と「サイエンス」を対立に置いて論じる議論には与しない。 さておき、アートは悉くイノベーションである。 この点を了解するために、アートとは何かを簡単に考察しておこう。 乱暴に言って、アートとは、「日常」「普通」「常識」へのチャレンジ・超克作業である。 例えば。 日常何気なく見過ごしているモノや風景を「異化」「現前化」して新たな意味や今まで感じてこなかった感覚を呼び覚ます。マルセル・デュシャンの「toilet」、Chim↑Pomの渋谷の大ネズミで作ったピカチュウ、谷川俊太郎のいるかの詩、云々。ファインアートにおける「異化」ではシリアスなメッセージ性を持ったものが多いが、それが脱聖化されてポップになると、奇譚倶楽部の「コップのフチ子」「定礎」のような商品、あるいはピコ太郎の「パイナポーアポーペン」になる。 例えば、 作者や作品の唯一性、アウラ、それらを制度的に保証する評論、文壇、美術館といったものの虚構性を暴き出すアプロプリエーションやシユミレーショニズム。これらは言わば非日常や特別ということを「異化」しつつ、逆説的に現代の日常を「現前化」している。ある種の広告表現やハウスミュージックなど、サンプリングやリミックス手法を駆使して作られた作品の、全く空疎だが無意識のうちにハマるドラッグ性を思い起こせばよい。 例えば。 規範や常識・良識と言われているものを「侵犯」「逸脱」し、抑圧されたエロス・タナトスの欲望を垣間見せる作品。マルキド・サド、クロソウスキー、XX等々。それが脱聖化されポップになれば、アヴァンギャルドなアンダーグラウンドカルチャーになる。言うまでもなく消費シーンに現れるアヴァンギャルドは訓化されたアヴァンギャルドだ。 例えば。 「日常」や「普通」を端的に超克した美・快。イデアや神の領域を目指すもの。この系統は制度化・時代の制約を免れがたくはあるが、王立アカデミー系の芸術群、政治性を排して端的に色彩や形態の美を追求したアメリカ版モダニズム、パスティーシュを駆使したトランスアバンギャルド等々。私たちの審美的感覚はこれらのコードを介して内面化されているからして、美意識に訴える商品デザインはこれらのパスティーシュ、パスティーシュの連鎖として現れる。 さて。これらは悉く、「日常」「普通」を打ち破るもの。すなわちイノベーションである。 アートをイノベーションに応用するとすれば、このパースペクティブにおいてであろう。 そしてこれは、半ば方法論化が可能、つまり強力なイノベーション手法になり得るのだ。 方法論化されたアートなどアートたり得ない?そりゃそうです。ビジネスの話なので。 (文責:金光隆志)
消費の本質?あるいは商品について
私たちは無数のモノ・コトに取り巻かれている。その殆どすべてが商品であることに驚かねばならない。私たちの生は商品漬けであり商品にaddictされている。 では何故商品を次々に買うのか。 例えば。 便利だから?ではなぜ便利を求めるの? 楽をしたいから?ではなぜ楽をしたいの? あるいは。楽をしたいんじゃない、時間を節約したいから? では時間を節約してどうするの?他にもっと有意義なことに時間を回したいから? では具体的にはどんな有意義なことに?・・ つまり。便利とは、どうでもいい・無駄なこと・嫌なこと、なのに精神的・肉体的・物理的に負荷が大きいこと、について、その負荷を軽減して気持ちよくなれること。 例えば。 好き(Love)だから?ではなぜ好きなものを求めるの? 気持ちよくなるから?ではなぜ気持ちよくなりたいの? なぜって、気持ち悪いより気持ちいい方が良くない?・・ つまり。好きとは、どうでもいい・無駄なことだが、気持ちよくなれること。 例えば。 自慢できるから?ではなぜ自慢できるものを求めるの? 人より優位に立ちたいから?ではなぜ優位に立ちたいの? なぜって、劣位より優位の方が気持ちよくない?・・ つまり。自慢とはどうでもいい・無駄なことだが、気持ちよくなれること。 以下、延々続けることも出来るが、無駄なうえに気持ちよくもないのでここらでやめる。 要は。 商品を買う合理的な理由なんて表層で、錯綜していて、矛盾があって、突き詰めるとよくわからないんだけど、とにかく気持ちいいことを求めて商品を買うし、商品を買うこと自体が気持ちいい行為なのだ。 だとすると。 人が気持ちよくなること、それは何かを追及するのが概ね商品開発ってのではなかろうか。気持ちいいって何?どんなこと、どんなとき、どんなものに気持ちいいと感じるの?それは何故? これは実に奥が深い。人は気持ち悪いもの(グロ)をあえて求めることもあるやに見える。でもそれだって、連鎖を辿れば最後は「気持ちいい」に結びついているに違いない。 「気持ちいい」は微細にも、いや微細にこそ宿り得る。どんな商品であっても一つの商品に色々な「気持ちいい」を付加し得る。五感や身体の生理的「気持ちいいい」、意味や認知の精神的「気持ちいい」、関係やコミュニケーションの社会的「気持ちいい」、それぞれに沢山の「気持ちいいい」があり得る。 さて、あなた(の商品)は気持ちいいをどこまで深く探求し、多面的に実現できているだろうか? (文責:金光隆志)
フルクサスの戦略
ワンピース、自分が何かくわえることで、少しでも世界を変えることが出来たら。 まかり間違って、自分が商品を生み出すことが出来たら。 消費者を巻き込んだモノづくりは一つの潮流といってよい。自分でデザインできる服、といったパターンはプリミティブだがその典型である。あるいは消費者に商品アイデア等を議論してもらう共創プラットフォームの取り組みも2010年代から徐々に広がってきた。 だが消費者が「消費者」という相でモノづくりに参加するのは今に始まったことではない。 今注目すべきは「生活者」の相で、大げさに言えば「市民」の相で、人々がモノやサービスサプライにアクティブに参加し始めたことだろう。コミケ、デザフェス、フリマ、といったP2P市場、ハッカソン、クラウドファンディング、あるいは生活者が参加して初めてサービスが完結・実現するという意味ではSNSもその範例と言えるかもしれない。そしてこの潮流の目下のフロントラインと言えば政府が関与しない仮想通貨/独自通貨を市民が創出し流通させる動きであろう。 消費を最終目的としない、といってもよい。かといって生産者でもない。言わば社会とのコミュニケーション。大仰に構えた社会貢献ではない。かといって利己目的だけでもない。言わば承認欲求とも結びついたお裾分け、ギフト、共有。 これをフルクサスと結びつけるのは曲解が過ぎるだろう。しかし、Authorized Contentsを鑑賞・消費するのではなく、それらにあからさまにNonを突き付けるのでもなく、フラットに、自然に、しなやかに、ゆるやかに、ごく身近な人から地球の裏側の見知らぬ人まで、小さな連帯と離散を繰り返し、財、サービス、文化、アイデアをやり取りして世界に変曲をもたらす。矛盾だらけで問題だらけで穴だらけで不細工だけど広がることを止めない運動体。 企業にとってこれはチャンスか脅威か、といったエレメントで、この状況を見るのは恐らく誤りだろう。少なくとも大きな違和感を覚える。 一つ空想をしてみよう。この運動に本気でコミットする企業。さりとて従来の事業の生産様式をやめるわけではない。両方にコミットする。矛盾は利益率の低下となって現れるかもしれない。その時、資本は集まらなくなるのだろうか。資本の性質は変容しないだろうか。資本は一様か。端的に言って生活者はこの企業にどんな形で参加していくのだろうか。その行きつく先。バッドエンドもハッピーエンドも両方空想できるだろう。だが、例え似非だと罵られようが、ハッピーエンドを空想する程度にはポジティブでありたい。
競争の論理⇔価値の論理
小さくてもいいから競合の誰もいないオンリーワン市場を創れ・狙え。 否定するつもりはないけれど、人を惑わす随分と無責任な言い方だ。 これを真に受けて、市場性が殆ど無いモノを出してしまったり、愚にもつかないオンリーワンなものをだしてしまったり。あるいはオンリーワンが思いつかず身動きとれなくなってしまったり。 基本的な論理を押さえておこう。商品とは相対的価値体系である。価値体系に組み込まれない商品など存在しない。そして価値体系とは競合関係である。つまり商品として市場に投入された時点で競合関係に組み込まれるのだ。 価値とは差異である。即ち競合とは差異である。量的差異(価格、性能)質的差異(デザイン、材質等)、色々な差異のベクトルがあるが、差異のポテンシャルが大きいほど個性が際立つ。競合があっての個性であることを忘れてはならない。商品経済の基本中の基本だ。 商品なりサービスなりを出す際には必ず競合を想定しなければならない。例え発想の段階で競合を想定しなかったとしてもだ。その想定は、潜在的であってもユーザーにとっての実際的競合=価値体系でなければならない。あなたが勝手に価値体系を作ってそれを認知させる、という高等テクニックもあり得るが、先ずはユーザーに沿って想像すべきだ。言うまでもなく競合は同種商品や同一カテゴリーとは限らない。 そして問う。十分な差異ポテンシャルがあるか。その差異ポテンシャルはダイナミックに持続可能か。どのようにして持続出来るか。 ダイナミックな持続可能性とは進化を織り込むこと。競合は進化する。自分も進化する。価値体系全体も進化する。持続可能性とはそのゲームの論理の詰将棋である。 ナイーブに巷の事業創造論だのデザイン思考だのに飛びついて見失ってはいけない。 商品経済は徹底してマテリアルな価値体系であり競争関係である。 (文責:金光隆志)
価格とコストと創造性と
コストと値付けに関する深い議論をトンと聞かなくなった。特に新事業や新サービスでは殆ど聞かないのだ。 基本的にはマークアップ方式で、作るのにだいたいいくらかかるからこれだけマージン乗せて、というような感じであろうか。 ターゲット価格を定めて、それを満たすべく仕様・デザイン・部品・工程などをギリギリと詰めて考えるというのはどうやら時代遅れか的外れになったかの様相だ。 売れるかどうかも解らない段階でスペックをいじっても仕方ない、先ずは市場にβ版を投入して反応を見ながらリーンに改良を加えていくべきだ、云々。正論である。 イノベーションの段階ではそんなことは考えない、いや考えるべきではない、それは事業が大きくなってきてマスユーザーを対象にする段で改めてしっかり考えるべきことだ。云々。これも正論である。 イノベーションやスタートアップの教科書には大概その手のことが書いてあるだろう。 でもそのことでかえってクリエイティビティが下がっているかもしれないとしたら? 実際創造性の教科書には逆のことが書いてある。 制約を加えた方がかえって創造性は高まるのだと。 市場の商品価値体系を元にシビアに要求価格を設定してみよう。直接競合がいなくても、いやいない時こそ。するとたちどころにトレードオフが発生するはずだ。この機能を入れたい・でも入れると他を削らなければいけない、とか、デザインはこうしたいけどそうすると生産効率が大幅に落ちる、とか。 このAかBかの選択をシビアに詰めるだけでも随分と商品やサービスが洗練されるだろう。そして最も創造性が発揮されるのが、AもBも両方外せないときに浮かび上がる第三の道Cが考案されるときだ。AもBも満たされる場合もあればAもBも棄却する場合もあるがいずれにせよ第三の道である。 かつて、売上急落に直面したアパレル企業で、毎週このAかBか、いやCだ、の議論をして52週MDプロセスを刷新し、売り上げを急回復させた企業にお目にかかったことがある。 市場の要求価格水準に絶対に妥協しないことで、売れる確率が上がっただけでなく、思いがけないクリエイティブな解決策でむしろデザイン性もよくなってヒットする商品も誕生していた。 既存事業と新事業ではワケが違う、と考える向きもあろう。実際全てが同じではない。しかし、ビジネスである以上価格とコストが最終審級の双璧であり、価格とコストに向き合うことで創造思考も戦略思考も一段と覚醒するこは覚えておいてよいだろう。 (文責:金光隆志)