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ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
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戦略的セグメンテーションの再考
突然ですが質問です。市場って何でしょうか。 そんなわかりきったことは考えたことがない?ですよね、普通。 ではもうひとつ。 ディズニーランドは市場でビジネスを行っていますか? それは何の市場ですか?どんな市場ですか?その市場では誰かと競っていますか? これもわかりきったこと? ディズニーランドは普通に言えばテーマパーク市場に属していると思われるでしょう。 ではテーマパーク市場って何でしょうか。テーマパークを集めたらテーマパーク市場? 市場におけるディズニーランドの競合は誰でしょうか?USJ?ハウステンボス? 競合ってどういう意味でしょうか。同じ事業を行っていたら競合でしょうか? おやおや?となってきませんか? ここで私が、テーマパーク市場なんて殆ど存在しない、と言うと、阿呆かと思われるかもしれません。確かに、日常的慣習的語用を鑑みれば、流石に言い過ぎ・誤り感はあります。けれども、市場というからには、ある財・サービスにおいて複数の供給者が需要者の獲得を巡り、価格や取引条件を交渉・競争している場、なのであって、供給者が一人しかいないのであれば、経済学的には独占市場と呼ぶのだろうけど、ビジネスで言う「市場」とはちょっと違いそうではありませんか? ではここで補助線を。 ある人がデートで悩んでいます。今度の休みはどこに行こうかな。日帰り旅行いいな。TDLの方が喜ぶかな。でもあの展示会も早く観に行きたいって言っていたな・・ 皆さん(とくに関東在住なら)も似たような経験はあるかと思います。 TDLは普段誰とどんな顧客獲得競争をしてそうでしょうか。あるいは補助線に沿って需要者側から言えば、普段人は何の目的でTDLと何かを比較・選択する(≒市場)のでしょうか。 どうも多くの場合はテーマパーク同士ではなさそうです。ということは、市場を先ほどの定義に則って考えるなら、強いて言えばディズニーランド市場はあると言えるかもだがテーマパーク市場なるものは、ほぼ幻想というか抽象設定に過ぎないのかもしれません。 更に問題意識を深めていきましょう。 市場セグメントと顧客セグメントは同じことでしょうか?別のことでしょうか? おそらく多くの人は、日ごろ特に意識はせずなんとなく市場セグメントも顧客セグメントも似たような意味で使っているかもしれません。 一方で、ここでハッとした人もいるかもしれません。市場とは何なのだろう、と。 顧客セグメントは人や人の特性によるセグメントであることは明らか、対して市場セグメントにおける「市場」は抽象的にして多義的に使われます。「市場」が指すものは商品の場合もあれば機能の場合もあれば顧客の場合もあれば目的の場合もあれば手段の場合もあれば・・・という具合です。つまり「市場」は定義次第、と言うと節操なく聞こえますが、まさに「定義次第」で「意味のある定義」の場合もあれば「意味のない定義」の場合もあるわけです。では「意味」とは。そう、「意味」には絶対的なものなどなく、目的やコンテクスト次第。ゆえに「テーマパーク市場」なる市場定義が多くの場合意味を持たないわけです。 「顧客」セグメントは主にマーケティングや商品・事業開発において有用な概念です。 対して、「市場」セグメントというのは実はとても戦略的な概念になりえます。 「市場」とはサプライサイドとデマンドサイドが「交差」する場です。 デマンドサイドには行動目的、ニーズや欲望、オケージョン、ベネフィットなどの切り口があり得ます。一方サプライサイドでは、どういうデマンド切り口を設定するかによって、それに対応し得るサプライが変わってきます。 補助線の例では、ある人がこんどのデートはTDLか日帰り旅行か展覧会か・・と悩んでいたのでした。そうすると例えば「一日レジャーデート」というデマンドに対して「TDL・日帰り旅行・展示会・・・」のサプライがある、という市場セグメンテーションの定義があり得るわけです。この「一日レジャーデート」というデマンドに対して「TDL」は他のサプライに対して競争力があるか・経済性が十分よいか、それによってTDLが「一日レジャーデート」をビジネスの場に選択すべきか否かが左右されます。Yesなら「一日レジャーデート」は戦略ターゲットのオプションになり得ます。Noなら他にビジネスの場とすべきデマンドを探さなければなりません。この一連の作業が「戦略的セグメンテーション」と呼ばれるものの核心になります。 戦略的セグメンテーションには論理性と創造性の両方の発揮が求められます。答えは一つではありません。様々なセグメンテーションがあり得ます。そして、既存事業の戦略指針見直しにおいても、新規事業機会検討においても、うまい戦略的セグメンテーションの切り口を見つけることが出来れば、ビジネスの変革・成功にぐっと近づくはずです。 (文責:金光 隆志)
消費のメカニクス 3.0
マーケティングにおいて大事なことは何か? 消費者の理解?新たな提供価値の構想?購買欲を刺激する仕掛け? 等など。 もちろんどれも大事。というより、それらを行うことがマーケティングですね。 なので、ここでの問いは、それらを行うにあたって、あるいはそれら以前に、大事なこと、です。 それは消費者理解・提供価値構想・購買欲刺激云々に通底する「構造」の認識、です。 もっと言うと、人の行動は構造に・あるいは構造的に規定されている、という認識を持つことが最重要です。 ひとは皆、一人ひとり個性が違い、個性に応じて主体的に意思決定している、と思っています。確かに、個人によって趣味嗜好には違いがあって、それによって意思決定は影響されています。しかし、その趣味嗜好の違い自体が、実はかなりの程度構造的に規定されているのだとしたら? ちなみに消費の構造的規定というと、一昔前(大昔ですが)に流行った議論、と思う方もいるかもしれません。まぁそうなのです。が、一周回ってデジタルの発展によって止揚した形で、その重要性が益々先鋭化してきた、という感じです。図式化して言えば、 「構造が大事」⇒「構造はダメ・個(別)性が大事」⇒「個(別)性だと思っていることの構造が大事」 みたいな。ちょっと単純化しすぎましたが、まぁイメージはそんな感じです。 どういうことか その1:人間=「ポピュレーション」。 人間の行動や欲求は、かなりの程度、デモグラフィックに代表される構造特性によって規定されています。構造特性(属性)には大別して、人口・疫学的属性、社会・文化的属性、経済的属性があります。性別・年齢帯・身長体重・既往症・遺伝子などが人口・疫学属性、家柄・家族構成・ジェンダー・地域・学校・世代・流行経験・幼少体験などが社会・文化属性、職業・役職・雇用形態・年収・世帯年収・資産などが経済属性、です。 その2:人間=人間という「生命種としてのアルゴリズム」。 以前のコラムで、生命=欲望、生命活動とは広義の欲望のFilled-Unfilledギャップを埋める活動≒エネルギー代謝の活動、という話をしました。そして、他の生物とは違い、人間の欲望は方向付けがない・尽きることがない・満たされきることがない、という話も。こんなにも沢山の商品があることがその査証でもあるのですが、それを裏返して言うと、どんな方向にであれFilled-Unfilledギャップを生成すればそれを埋める反応をする、ということです。ちなみに、人の欲望の殆どは人間だけが持つであろう自意識を経由し、その際に精神分析的な意味での他者の欲望の欲望に媒介されます。今どきの承認欲求もベタな例です。一方で人間は行動経済学や社会心理学が明らかにしている通りかなりシステマティックに判断や認知のエラーを起こします。それらの知見の多くが地域や人種によらずあてはまることは、人類種にほぼ共通の判断や認知アルゴリズムがあることを示唆しています。 さて、そんなマクロ属性や生命種特性なんかで現代の複雑な消費者や高度化した消費社会・商品経済を理解できるものか、と思う人は多いでしょう。私もそう思うというかそうであって欲しい。けれども、そうした思いとは裏腹に、現代のデータサイエンスや人間科学は、人の行動が統計的・生物学的・構造的に殆ど決まっている(あるいは決められ得る)ことを明らかにしてきています。もっと言えば、データサイエンスや人間科学の応用によって人の個性や理性は益々空っぽにされてしまった。されたというのは言い過ぎで、意図的にというより結果的にでしょう。いずれにせよ、人は立ち止まって考えるような面倒くさいことはしなくて済む代償として言わばポピュレーションとしての属性・人類という生物種に備わった特性に突き動かされるばかりの存在になってしまったということ。そして、世界の支配的プレーヤーは今や、このポピュレーション・人類という生物種のアルゴリズムや振る舞いの統計的傾向の操作によって莫大な利益を生み出しています。最も先鋭的にはGoogleやFacebookで、彼らのAIやアルゴリズムによって人は意のままに操作され得ます。彼らのAIはあなた以上にあなたをうまく操ることができるのです。 「人類という生命種のアルゴリズム」についてもっと深い議論をするには人間科学(の応用)最先端のコンバージェンスを理解する必要があり、ここではそのスペースも簡潔に語る力量もありませんが「ポピュレーション」のマーケティングについてはもう少しパラフレーズを続けましょう。 デモグラに代表される構造属性の重要性・決定性は、日本における昨今のクリエイティブや事業構想・創造ブームの中で過小評価されています。もっと言うと殆ど無視されています。 曰く、 「差別化」や「イノベーション」のために「提供価値の革新」によって「今までにない市場」を創造することが重要、そのためには漫然と「市場の平均」を見ていてはだめで極論すれば「特定の1人」が本当に「ハマる」体験やサービスを設計することがカギ、云々。 一見もっともだし、実際「構造属性」による決定性を前提した上でなら論旨は悪くない。しかしこれを言う人・実践する人の殆どは真逆に構造属性をむしろ「見ない」ための方法だとさえ思っています。 それがいかに的外れな考えかは、世の中にある商品の消費構造を詳しく分析すればすぐわかります。ある製品カテゴリーにおいて、誰がどのようなタイプの製品を選ぶかは、その製品カテゴリーに応じて複数の構造属性を説明変数にとれば、ほぼ説明されます。これは、製品開発段階でどこまで構造属性を想定したかに関係なく、です。逆に言えばだからこそ沢山のアンメットがあるのです。 構造属性に規定される消費のメカニクスは意思決定(ニーズ・ウオンツやら検討方法やら)から行動プロセス(AIDMAやらVISASやら)全体に及びます。 「マーケティングR&D(マーケティングにおけるR&D活動)」によって構造属性による消費メカニクスの理解・知見はどんどん深まり高精度になっていきます。 ちなみにそこまで深い理解でなくても、構造属性について簡単な解説とエクササイズを行ったあとに、商材は何でも良いのですが例えば、 ・「高齢者向けの掃除機を構想してみてください」 ・「世帯年収600万円程度で共働き、幼児のいるファミリー世帯向け掃除機を構想してみてください」 と問うてみると、マーケティングのプロでなくとも(むしろプロじゃないほうが)たちどころに様々な切り口・アイデアが出てきます。 この程度なら構造属性なんて大げさに考えなくても出来そうだと思うかもしれません。浅いレベルなら実際そうです。 しかし例えば、 「【20代独身で外資系に務める年収800万円の男性、賃貸のデザイナーズマンションに住み、仕事のあとには勉強会などにも参加するなど意識高い、シンプルでナチュラルだが品質の良い清潔感のある服が好み、趣味はアウトドアだが自炊男子でもあり彼女がいてちょくちょく家に遊びに来るのでインドアの楽しみかたも嗜んでいる・・】人向け掃除機を構想してみてください」 という問いを、構造属性のエクササイズを行う前にやるとアイデアが出てこなくなるし出てきても珍答・迷答のオンパレードになります。 で、構造属性のエクササイズを行って再びチャレンジすると、あら不思議、すらすらとアイデアが出はじめます。 ペルソナ設定して参与観察してエクスペリエンスマップやマインドマップを描いて、とか、やるのはよいのですが、やり方です。 「特定の1人」を「一人ひとりの個性」と解すると大きく見誤ります。「特定の1人」はある「構造的特性」によって規定される「市場クラスター」の「代表サンプル」という視点が決定的に重要です。 くどいですが、人の行動は人が自覚している以上に構造属性に規定されています。そして恐らくはデータサイエンスが逆説的に益々その反応傾向を強化しています。人間=ポピュレーションと人間=アルゴリズムのコンバージェンスが起こりつつあると言ってもよいでしょう。 (文責:金光 隆志)
認識と欲望と真実と
通信と言えば固定電話、メディアと言えばテレビ・ラジオ・雑誌・新聞しかなかった時代。 今20代以下の人たちなら、えっマジ?どうやって生きてたの?、と思うかもしれない。 でも、生きやすかった面もあるんですよね。。という昔話をしたいわけではない。 インターネットはたしかに、とてつもなく便利。 知りたいことは検索すればすぐ見つかるし、興味関心を同じくする人とすぐ繋がれるし、何を買うか迷ったときにレビューで他の人の評価が見られるし。記事、本、写真、動画・映画、音楽・・何でもスマホで、ネット一つで完結できてしまうし。云々。 しかし、である。 インターネットは人を、人間=ホモ・サピエンスとして、進歩させているだろうか? 個人的な感想としては、どうにもダウトに思えてならないのです。 人間には悲しい性があるらしい。例えば。理性的に考えるには前頭前野の活性が必須だが、どんなに賢いつもりでも、何かを感知・判断する際にはどうやら前頭前野よりも扁桃体の方が優位にかつ瞬時に働くらしい。扁桃体は情動やら感情やら共感やら、まぁ乱暴に言えば好き嫌いの反応に大きく関わっている。で、扁桃体は海馬の近くにあって、記憶にも強い影響を与える、らしい。 その結果。頑固親父でなくとも、人は客観的な証拠をいくら突きつけられたところで自分の信じたことを簡単には変えられない、ことが、社会心理学の実験などで客観的に検証されている。簡単に変えられると信じている人はこの実験の証拠など信じないのだろうけど、そうならば逆説的に自分でこの説を証明したことになってしまう笑。まぁそれはともかく、脳神経科学を取り入れた検証によれば、その理由が上述の脳の特性に由来するらしい。簡単に言えば、自分に都合の良い・心地よい情報にしか脳・扁桃体は反応しない、というわけです。これは科学的な訓練を受けているか否かによらない、どころかむしろ、自分は客観的・数字に強いとか思っている人の方がバイアスがかかりやすい、らしい。 で、インターネット。インターネットには数多の情報が溢れている。自分の信念に近い情報やそれをサポートするような情報から、反する情報・反証データまで、何でもある。 その結果。例えば何か気になっていることがあるとしよう。ネットがあればすぐ調べられる。そこで、事前に自分の仮説や信念があった場合。自分に都合の悪い情報はスルーして、都合良い情報にたどり着くのは容易。そこから孫検索するとどんどん都合の良い情報が出てくる。しばらくすると検索エンジンはご丁寧に学習してくれて、おまえこういう情報が好きだろう、と関連情報やおすすめ情報を与えてくれる。やっぱりそうだよな、と思う。気持ちいい。かくして仮説や信念は棄却されることなく強化されて記憶される。わけです。 インターネットが多様性をもたらした、という面はたしかにあるでしょう。それは進歩と言えば進歩かもしれない。けれども多様性を「容認」するように働いてはくれない。ネットは自分の意を益々強くし、他の可能性や意見を排除するようにしか働いてはくれない。のかもしれない。 これは、AかBか、の二択のような状況では悲惨な結果を呼ぶんじゃないだろうか。A派とB派は互いに自分に都合の良い情報だけを信じて・手軽に集めて・認識を益々強化し、反目し合うしか道が無くなるんじゃないだろうか。それが現代のポスト・トゥルース・・とかいう政治的な話は置いておこう。 ともかくもネットは集団の多様性を生む契機になりつつも個々人で見ると多様どころか自己強化のメカニズムとして働きやすい、ということはおさえておきたい。 ところで人間にはもう一つ、悲しい性があるらしい。模倣(他者学習)の習性だ。模倣習性も社会心理学の実験で色々トンデモなことがわかっている。滅茶苦茶乱暴に単純化すると、あなたは、みんなが黒だと言ったらあなたも「本当に」黒だと思うようになる、らしいのだ。 客観的判断基準の無いものほどその傾向が強く、例えば音楽の好みなどはモロに影響を受けるし、驚くことに、何色だったかなどの客観性のある事柄でさえ、条件によっては間違った他者の意見を「本当に」自分でもそうだと信じてしまうらしい。ここにも扁桃体⇒海馬のメカニズムが働いているという研究もあるようだが、メカニズムはともかく模倣習性はほぼ検証によって確証されている。先程の自分の信念を変え難い習性と一見矛盾するようだが、解説は割愛するとして矛盾ではない。相補的に働くと見るのがよいだろう。なお、扁桃体は不安やストレスにも過敏に反応する。もっと言えば不安やストレスを嫌う。これが赤信号みんなで渡れば・・の心理・行動を生むようだ。 で、インターネット。インターネットはたしかに多様性(ニッチ)をもたらした一方で一極集中・なだれ的爆発的流行、炎上・・等などを日々生み出していることも承知の通り。自分で基準を持てない・もっていないものに対しては、他者のリコメン、大勢の意見を模倣する。少数派の不安を回避し多数派に乗っかる。攻撃されることを過剰に回避する、等など。要は、色んなものを見聞きし吟味した上で自分の趣味嗜好信念などを形成するのではなく、偶然の流行、皆が正しいという意見、皆が選んでいるものを選ぶ、という扁桃体優位の行動がどんどん強化・増殖している。のではなかろうか。 インターネットの即時性と利便性は、一歩身を引いて前頭前野を働かせて冷静に考える・判断する、ということを、恐らくはとても困難にしている。人の悲しい性といったが、正確には人も動物であることの悲しい性。ネットが全面化した世界で人はもはやホモ・サピエンス=理性の・人、ではなくなっている、のかもしれない。高齢者でもない限り殆どの人は起きている時間の大半をネットとともに過ごし、何かと検索したり人のつぶやきや口コミを見たりして大して考えるまでもなく扁桃体が反応・判断を下し続けていることだろう。そしてネットで習慣化した思考や行動特性はネットを離れた(ネットから完全に離れたリアルなどもはやないのだが)リアル場面での思考や行動特性にまで影響を及ぼさずにはいないのだろう。 なるほどね、と。 人の弱みにつけ込むようで口にするのは憚られもするが、まぁここはビジネスのお話として。ネットで剥き出しになった人間の特性にはマーケティングや交渉術のヒントが満載ではないか! (文責:金光 隆志)
非合理の合理 マーケティング X
大事な仕事の納期が2週間後に迫っている。結構タイトだ。 でもこんなときに限って、絶対観たいアーティストの来日公演がある。この機会を逃したら、いつ日本で見られるか解らない。いやもしかすると二度と日本にこないかもしれない。公演行くか仕事するか。この状況で、公演にいかないで仕事を選ぶ人は2割程度。まぁそうでしょうね。 しかし。ここでもう一つ、前から絶対観たいと思っていた映画上映がちょうどこの公演の行われる週末まで、だと判明した。さてどうしよう。公演に行くか映画行くか仕事するか。 実験によれば、驚くことに、映画の選択肢を加えると4割の人が仕事を選ぶ、というのだ。 この結果、どう考えてもおかしい、ですよね。論理的には。 そう。人間はちっとも合理的じゃない。 なのに、日常の些細な会話、企業のマーケティング、更には国レベルの大きな施策まで、人が合理的であることを前提にした訴求に溢れている。結果は外すに決まっている。反省はしても考え方は変わらない。 なぜなのだろう? 当たり前?どうでもいい?というのは思考停止。これは考察に値する。 起源その一。モダニズム。 人は合理的であるべきだ、というモダンのパラダイムに未だ我々はどっぷり浸かっている。理性こそが至上で未開は啓蒙されなければならない、というのがモダン思潮。科学はモダン思潮とともに発展してきた。まぁそれはさておき、で、どうなったか。合理的である「べき」の「べき」がいつのまにか無くなって、合理的「である」と意識的にも無意識的にも教条・前提してしまった。啓蒙思想、ホモ・サピエンス(理性の人)の完全勝利。理性でもって無知や教条・迷信に光を当ててきた、文字通りEnlightmentの営みが、いつの間にか「人は理性的」というあらたな教条を生み出した。我々は想像以上に、その影響下にいる。 その二。野生の思考。 モダニズムと相反するようで共犯関係という、ちょっと込み入った論旨だが、端折っていうと、ノモス(人為)をピュシス(自然)の相似形で考えるという人類学的傾向の現れ。合理的思考は、人や社会以外の理解ではそこそこうまくいく。いってしまった。ということはピュシスは合理で出来ている。ならばノモスも合理で出来ている、という算段だ。人は普通こんな風に考えてない、という話をしているのではなく、人類学的傾向(人や社会の無意識の思考構造、的な)の帰結として、である。自然の理解を人間や人間社会の理解にあてはめる野生の思考がより根源的なところで働いて、合理主義的モダンを下支えしている。 起源その三。心理学的合理化。 人間は合理思考が苦手だから経験(ヒューリスティック)で考えるという論があるが、必ずしもそうではない。むしろ合理的に考えるのはぶっちゃけ簡単だし安心だ。合理的とは論理的に正解であること。トートロジーだが、論理は必然解を導く。簡単。で、必然解には抗えないしだから安心。だが人間について考えるとき、論理の大前提が間違っている。人間は合理的である、という前提の上に構築された論理は、偽の命題からスタートしているのだから結論も偽。合理的ではないと解っているのに合理的だと仮定して合理的結論に安心するのはまさに心理学的意味での合理化である。 さてしかし、合理を更に突き詰めつつある現代。最先端のサイエンスやテクノロジーによって、ピュシスはそう単純じゃないことがわかってきた。まぁ要するに複雑系ということだ。ということはノモスだって?そう。というわけで、ノモスもそう単純じゃない、というか人間的自然はノモス(人間社会の形成・秩序)で単純に合理的に割り切れるような存在ではない、どうやら人は「合理的人間」からは程遠い、ということも。 行動経済学や認知科学が、「人間って合理的じゃないのかも」という仮定・前提のもとに発展しつつある。その知見はまだまだ道半ばとはいえ、かなり色々なことが解ってきている。その知見を政策に活かそう(ナッジ)という動きもこの20年で少しづつ広がってきた。 では、企業のマーケティングではどうか。聞きかじりの知見で茶飲み話程度に確証バイアスだのアンカリングだの会話していることは耳にするが、そんなものは無害どころかかえって危険。徹底的に合理ロジックを推し進めるほうがまだ有益。実際、非合理な人間を丸ごと捕まえるのは難しいにせよ、現代の日進月歩データサイエンスなら結構肉薄は出来るのだ。 これからのマーケティングはR&Dの時代になるだろう。人間のリアルに迫る探求が、人文的、科学的、技術的に急速に進展していく時代において、それら人間探求へのR&Dの差がそのまま企業の差となっていくことは、それこそ簡単な合理的推論である。 人間の思考や行動は非合理に満ちている。そのことをメタレベルで合理的に認知し判断できる者が勝者になっていくだろう。 (文責:金光 隆志)
Z世代
世代論には全く興味が無かった。 年寄りが若者をけなす方便、くらいにしか思っていなかったし、世代と言っているものはせいぜい、年代特性に時代性をかけ合わせた程度の差異、くらいにしか思っていなかった。 あるいは、世代というのは大雑把・あるいはステレオタイプすぎて、結局は各人の差異の方が大きい・重要なのだ、と考えてきた。 今も基本的認識に変わりはない。でも、Z世代と呼ばれる今の若者、彼らは本当に違うのかもしれない、そんな期待を抱いている。 Z世代の特徴として語られるものを列挙してみよう。 ウェルネス意識、フィットネス意識が高い、テクノロジーへのリテラシーが高いと同時に、あるいはそうであるがゆえに自然や生命の驚異・エコシステムの深遠さにも直感がある、バランスのとれた利他意識、エシカル消費意識、自分で判断する、世界を変える意識がある、民主社会主義的傾向が高い、等など。 こう挙げていくと、随分と立派で、彼らが未来を担っていけば世界は絶対によくなっていくに違いない、と思ってしまう。 考えてみると、ベビーブーマー世代もZ世代と似たような青春時代の思潮だったのではないか。彼らベビーブーマーは革命や反戦に立ち上がり、失望し、後にエコノミックアニマルよろしく企業戦士へと変貌していった。彼らのおかげで今日の繁栄があるのだが、一方で彼らの幻滅と小市民的価値観・転向がその後の世代の奇妙な“老成“基調を決めていったのではないか。だからこそ世代論に意味がない、戦後的価値観のヴァリアントに過ぎないと見えていたのかもしれない。 Z世代はどうなのだろう。上手く言えないが、彼らのほうがベビーブーマー世代よりもしなやかでしたたかな気がする。つまりはうまくやりそうな気がする。あるいは、熱と冷、希望と諦念、大きな物語と私的個人へのひきこもり、すなわち正と反、その葛藤を歴史的に止揚して登場したのがZ世代、と見るのは頭でっかちヘーゲリアンの雑な受け売りだろうか。 そうかもしれない。しかし、だとしても、訳知り顔で彼らを諭そうとする愚とは無縁でありたい。彼らと真剣に向き合える大人でいたい。一つ確実なのは、彼らは降って湧いたエイリアンではない。我々や我々の行為の累積が生み出したのだ。 企業も同様ではないか。働き手としても生活者・消費者としても、Z世代と真剣に向き合うことで未来が切り拓かれていく。そんな気がしている。 (文責:金光隆志)
習慣化のパラドクス
商品やサービスの利用をいかに継続・習慣化するか。昔からある議論だが、DX議論・サブスクモデルの流行、脳神経科学の発達などを背景に、イノベーション界隈のトピックとして再燃しているようだ。 習慣と言えば、商品購入などとは全く別の、啓蒙的な文脈で、「○個の習慣」やら「習慣術」やら「天才の習慣」やら、要は「善い習慣とは何か」を知りそれを「いかに習慣化するか」といった類のHow to本も最近やたら見かける。これはちょっとアイロニカルで面白い現象。考えてみよう。あなたの日々の生活の何割くらいが習慣でできているだろうか?殆どの人が意識しているか無意識かはともかく7、8割は習慣化した行動で日々を生きているはずだ。ことほど左様に、習慣とは根深く、ちょっとやそっとでは変わらんということだろう。啓蒙書の類は、それをやめて「よりよい習慣」に変えよう、と言っているに違いない。だがそれが出来ないから皆悩んでいる、悩んでいるから啓蒙書にすがる、でも出来なくてまた悩む、その繰り返しが、この啓蒙書の類の隆盛を支えているのではないだろうか。私なら、新たな「善い習慣化」などを勧めるより、徹底的に気が散るような「注意散漫ライフのススメ」をしたいところだが、そんな本を出したところで売れないだろうからやめておく。しかし、日常習慣の惰性を打ち破り、あなたを未知の世界との連結・切断を繰り返す「スルドイ」人に変えてくれるのは、注意散漫力をおいて他にない、と大見得を切っておこう。 脱線してしまった。商品・サービス購入・利用の習慣化に話を戻そう。 習慣化にはパラドクスがある。この点をよく了解し、商品・サービス政策を吟味することが習慣を形成する鍵であろう。どういうことか。 全ての習慣には習慣に先立つ「始まり」がある。ではどうやって始まるのか。もちろん興味関心、好奇心、欲望、などが「始まり」を駆動するわけだ。より今風に言えば、予期せぬもの・新しいものを期待する脳の報酬系が作用するのだが、ここに第一のちょっとしたパラドクスがある。端から関心のないことには脳は自動的・能動的にはピクリとも反応してくれないのだ。もともと関心があることにしか能動的には反応しない。しかし、関心があることはある程度知っている。その予測どおりだと思うと好奇心や欲望は駆動されない。つまり。もともと関心があるが、自分が知っていることと違う・あるいはそれ以上の何かがあるのでは、と思ってはじめて、脳は強くそれを知りたいと思うわけだ。ややこしいが押さえておこう。 さて、知っている以上の何か、を期待したとき脳は欲望し能動的に反応する。しかし一方で、脳はすぐさま、それ以上ってこれくらいかな、という期待水準も形成する。そして、実際の経験がこの予測を超えた時に、報酬系ニューロンが再び発火するのだ。脳は報酬系の活性化を受けて、それをまた欲望する。ここで、もしも十分活性化が起こらなければ、次はない。要はトライアルして終わり。つまり。関心があることで今まで以上の何か、それが最初の購買を駆動し、その何かの事前期待値を更に超える利用経験でリピート。ややこしいが押さえておこう。 さて、ここからが第2のパラドクスである。報酬系活性を受けて、2度3度と利用を重ねたとしよう。期待値はどうなっていくだろう?当然実際と予測の差は無くなっていく。しからばもう報酬系は活性化されないのでは?そのとおり。活性化されなければ、脳の報酬を求めて他の商品を試すのでは?そのとおり。関心が続いているのであれば。そう。ここにパラドクスがある。習慣化の始まりには「高関与」の期待形成が鍵となる。しかし、習慣化するには、「高関与」から「低関与」への移行が必要となるのだ。つまり関心が薄れること。合わせて、他に色々な商品が出ても「まあこの程度だろうな」という経験に先立つ予定調和的期待(のなさ)も形成されている必要がある。盲目な恋愛のごとく「高関与」で他には目もくれずLoveな状態、というのが暫く続くことはあろう。永遠に続く愛もあるだろう。だが大抵は盲目Loveからは落ち着いてくる。その時、恋愛には「高関与」だが今の相手にだけ飽きたら?当然浮気の虫がうずくだろう。つまりカテゴリー自体への「高関与」状態が続いているうちは「習慣化」は難しいのである。 ややこしいだろうか。だが、インプリケーションは単純である。 その①「高関与」のうちは、「期待値を超える期待」を形成し続けることが肝要である。 製品にちょっとした変化を加える、サービスをちょっと変える、などなど。これを怠れば瞬く間にあなたの製品は飽きられるだろう。だが、 その②できるだけ早くカテゴリー「低関与」へと移行させ、その前にシェアで決着をつけておけば習慣化の勝者となれる。「期待値を超える期待」ゲームは徐々に収束・終焉に向かう。競合製品も含めて「まあこんなもの」という「期待値どおりの期待」へと変わっていく。その潮目に目を光らせ、徐々にマーケット刺激を減らしていく。最早「期待値を超える期待」は競合にも付け入るすきを与えるから、邪魔になる。というよりも「低関与」化した市場では、少々目先を変えたクリエイティブ程度では市場は動かないと思った方がよいだろう。「低関与」を再び「高関与」にするのは、王道の大きなアンメットを解消する技術イノベーションまたは以前に論じた異質イノベーション、くらいのインパクトが求められるであろう。 「低関与」化は習慣化の必要条件、というより、「低関与」=「習慣化」である。 なお、「低関与」化にはリスクもある。低関与→どうでもいい→大差ないから何でもいい、の契機を孕んでいることだ。要するにコモディティ化。ブランド選考よりも買いやすさや価格選考などが支配的になっていく。これに備えてどうスイッチ障壁を築いておくか、が論点となり得るが、習慣化とは既に別の論点である。 (文責:金光隆志)
ブランド論(3)
ブランドとは記号現象である、という話を白鳥麗子を例えに展開した。 記号は、記号表現と記号内容からなる。ブランドで言えば、ブランド名やロゴが記号表現であり、記号内容とは、どんなブランドかという概念である。モノ自体ではない。しかしこれだと分かりにくいだろうから白鳥麗子に例えたわけだ。 さて、ブランドで大事なのは、どんなブランドでありたいか、である。個性をありのままで、というのが一番シンプルだし、それで上手くいくならそれにこしたことはない。だが商売においては人気が大事である。ここで、話を分かりやすくするため再び白鳥麗子に登場願おう。 白鳥麗子が選挙に立候補したとする。何が大事か。知名度である。どれだけ選挙民に知られているかと票数は高く相関するであろう。選挙民からすると、候補者の違いなんて殆どわからない。違いがわからなければ、知ってる人・ポピュラーな人に投票する確率が高い。 即ち。 低関与商品の場合には知名度が、記号内容よりも記号表現(が普及していること)が大事。 では、白鳥麗子がAKB総選挙に出馬した場合はどうだろうか。この場合、知ってるだけでは投票してもらえないだろう。投票するかどうかは、あなたが白鳥麗子を好きかどうか、によって決まる。では好きかどうかは何によって決まるか。見た目?パフォーマンス?キャラクター?ファンサービス?あるいは見た目とキャラのギャップ萌え?などなど。 白鳥麗子の「作り方」次第では、大衆人気を得られる場合もあるだろうし、一部のコアファンに熱烈に支持される場合もあろう。 即ち。 高関与商品の場合には知名度よりも、つまり記号表現よりも、記号内容を“好き”が重要。 記号内容については、裏切りが無いことも大切だ。美人だと思っていたのに素顔を見たら・・とか、誠実な人と思っていたらゴミを分別せずに捨てていた・・とか。台無しである。 ブランド論でいう一貫性とはこのことである。「こんな風に認知してもらいたい」という意図を持ってブランドの内容を作っていくこともあるだろう。ニーズ調査に始まりニーズ合わせて云々。だがあまりに作ったキャラで振る舞っているとボロが出やすいのでご用心を。 さて、人気商売にはもう少し捻れたカラクリもある。 みんなが好きだから好きになる、といったバンドワゴン効果、逆に「人より先に私は知ってる」「白鳥麗子を支持する私ってイケてる」といったスノッブ効果、などなど、他者にどう見られたいかが選択基準になる場合もある。記号内容それ自体(コンスタティブな意味)ではなく記号内容を選ぶ行為(パフォーマティブな意味)が意味を持つ。 パフォーマティブな意味を発揮するブランドは一般論として強いと言えるだろう。だが、コンスタティブな意味を抜きにパフォーマティブな意味生成を狙うのは難しい。実は優劣に客観的指標がない趣味判断領域においては、ネットワーク効果によってコンスタティブな意味判断をすっとばしたパフォーマティブな意味生成が起こり得るのだが、これは狭義のブランドマネジメント論を超える論点である。 (文責:金光隆志)
ブランド論(2)
前回コラムで、どんなブランド論も一面的・独善的であらざるを得ない、と指摘した。 そのことを承知した上で、あえてブランド原論のようなものを少し試みてみよう。 これもまた、一面・独善に過ぎないのだが、それでも、ブランドについて深く考えるきっかけになれば、と願う次第だ。 さて、ブランドとは何だろうか? ブランドとは現象である。現象?何の?記号の。 つまりブランドとは、記号現象である、というのが一先ずの定義である。 記号現象というからには、記号表現と記号内容があるはずだが。 ブランドにおける記号表現とは何か。分かりやすいもので言えば企業名や商品名、ロゴなどである。 では記号内容は? 実は、これこそが、ブランドといっても色々、であることの要因であり正体なのだ。 といっても難しい話をしているのではない。 例えば。あなたという人間がいる。あなたには名前があるだろう。 仮に白鳥麗子さんだとしよう。では白鳥麗子さんとはどんな人? もちろん「あなた」なのだが、ここでの問いは、では「あなた」とはどんな人?である。 恐らく「あなた」には色んな面があるに違いない。 容姿面から見た「あなた」、性格面から見た「あなた」、行動面から見た「あなた」・・ どの面であなたを見るかによって違うあなたが見える。その総体が「白鳥麗子」であろう。 ところで、あなたが付き合う相手によっても「あなた」がどう見えているか違うかもしれない。 「あなた自身」が人にどう見られたいか、によって、「あなた」の振る舞いは違っているはずだ。 それを相手によって変えていたら、相手から見た「あなた」の印象が相手によって違ってくるのは当然だ。 あるいは、「どう見られるかなんて気にしてない、私はわたしの好きなようにする」人なのかもしれない。 この場合、逆説的に、他人から見たあなたの印象は一貫して似かよったものになってくる可能性がある。 はたまた、「白鳥麗子」という名前自体、何かイメージを喚起する命名かもしれない。 白鳥麗子は、白鳥のように白く、静かに、しなやかに佇まう、麗しい人、云々。ステレオタイプというか字義通りに言えばそんなイメージか。 きっと親御さんは、どんな人になってほしい、という思いをもって命名したことであろう。 だが実際の白鳥麗子は、色黒でおしゃべりで闊達、スポーツ万能で色気より食い気、な人かもしれない。さすればそのギャップに驚く人も多いだろう。 あるいはもしかすると白鳥麗子は、地元では知らない人のいない美人のバリバリヤンキーだったかもしれない。 白鳥麗子は、名前を聞くだけでビビられると同時に、女子たちの憧れの対象でもあったかもしれない。 恐らく白鳥麗子には取り巻きがいたことだろう。 そして取り巻きたちは、取り巻きであることを誇示し、あるいは自分もちょっと白鳥麗子気取りだったかもしれない。。。。 云々。 さて。今、「白鳥麗子」というあなたについて考えてみたこと。 実はここに、ブランド現象のエッセンス、従ってブランドマネジメントの要諦・ヒントがほぼ全て現れているのだ、 というと悪ふざけが過ぎると思われるだろうか。 そう思う人は「白鳥麗子」をあるアパレルのブランド名だと思って、今一度読み返してみてほしい。 次回はこの「白鳥麗子」を手がかりに、ブランド現象をパターンとして了解することを試みよう。 (文責:金光隆志)
ブランド論(1)
ブランドについて今更語ることが残されているであろうか。 実際、ブランドについては数多の論が語り尽くされてきたであろう。 曰く、ブランドとはメッセージである 曰く、ブランドとは信用である 曰く、ブランドとは体験である 云々。 あるいは、 曰く、ブランドとは認知である 曰く、ブランドとはマーケティングである 曰く、ブランドとはビジネスシステムの総体である 云々。 さて、ではブランドの究極の定義とは何なのか? おそらくそんなものは存在しないであろう。 人が「ブランド」というとき、その人が何を指しているつもりなのか、人それぞれ・場合によりけりである。そこに「決まり」は無い。 従って「ブランド」が何を意味するのか、受け手の解釈は、属人的に、あるいは文脈依存的に、あるいは社会通念を参照に、様々に行われているだろう。 いくつか、意味が違いそうな「ブランド」の使われ方を見てみよう。 ・これはブランド品だ(ファッションや宝飾品などにおいて) ・これはブランド品だ(スーパーの食品において) ・これからはブランドビジネスを展開したい(新規事業企画において) ・ブランドを構築して認知を広めたい(既存商品マーケティングにおいて) ・等など どれも極く日常的に見聞きする光景だと思うが。 どうだろう。「ブランド」が何を指しているのか、それぞれで違いがある・ありそうではないか。 では例えば、世の中にある「ブランド価値評価」とやらは、一体何を図っているのだろう? あるいは「ブランド・マネジメント」とやらは、一体何をマネジメントしているのだろう? 「ブランド」の意味(機能と言ってもよいが)が一意的ではない中で、一つの価値基準、一つの方法論が普遍であろうはずがない。 いかなるブランド論も一面的・独善的であらざるを得ないのだ。 ブランドのことを考えるなら、先ずこの点に自覚的であることが肝要である。 (文責:金光隆志)
マーケティングの今と昔
どんな商品にも固有の特徴がある。その固有の特徴を求める人がいる。その人に焦点を定めて効率的・効果的にその商品の特徴を伝えて購買欲を喚起する。これが今も昔も変わらないマーケティングの考え方の基本パラダイムだ。 固有の特徴を差別化と呼んだりユニークセールスポイントと呼んだり、あるいは需要サイドでニーズやアンメットニーズと呼んだりJobと呼んだり提供価値と呼んだり。手を変え品を変え新しいマーケティングの理論や方法論が現れるが、パラダイムは同じである。 あるいは、近年で言えば、市場の不確実性を背景に、予測的・決定論的戦略やマーケティングは最早不可能である、という認識に立ち、如何に需要を創造するか、既存の市場前提を破壊するか、そのクリエイティビティやインサイトこそ重要だということで、今までの発想では通用しない・イノベーション発想が必要だといった言もなされる。だが、如何に従来と違うものを創ろうが、需要は創造するのもだと言おうが、これからはストーリー消費だ何だと言おうが、マーケティングの考え方の基本パラダイムは何ら変わっていない。 それらは新しくも古くもない、今も昔も変わらない、マーケティング基本パラダイム上の2つの立場・考え方の時代に応じて変奏されるヴァリアントである。 一方で消費や欲求のメカニズムは、近年の研究でどんどん新しいことが解ってきている。昔からなんとなく解っていることにEvidenceをつけただけの研究も多いが、それらでさえも既存マーケティングを再考するには十分有益だ。例えば人は自分が思っているほど主体的に欲望の対象を決めているわけではない。恋愛のつり橋効果は俗論としてよく知られていると思う。恐怖による胸の高鳴りを恋愛感情と勘違いするというわけだが、ことはもっとラジカルなのだ。視聴覚実験だと称して、沢山の女性の写真を被験者の男性に見せる。同時に自分の心音(実は本物ではない)を聞かせる。で、ある写真の時に偽の心音の高鳴りを聞かせる。何の実験だったかもよくわからないまま実験は終わる。そして終了後、謝礼に好きな写真を持って帰ってよいというと、高確率で偽りの心音の高鳴りを聞いた時の女性の写真を持って帰るのだ。1か月後追跡調査をしても印象は殆ど変わっていない。そんなばかなと思うが、人は異性の好みのような殆ど本能と思われることさえ認識によって本当に変わってしまうわけだ。こんなものは序の口、人が何かにハマるメカニズムや習慣化のメカニズムなどが認知科学や心理学によって明かされつつある。この一歩先には従来より遥かに巧妙なマーケティングの可能性が控えている。そして実際先進グローバル企業は人間理解の先端を自らも基礎研究しつつ、先端知見をマーケティングに活かすことに挑戦している。 翻って殆どの日本企業は基礎研究や基礎理論には興味が無い。従来通りを踏襲するか、分かり易く普及版化した10年前の知見を新理論として周回遅れで急にもてはやすか。これではフロンティアは開拓出来ない。欧米はおろか非西欧圏のリーディング企業にも気付けば先を越されているだろう。日本と世界のクリティカルな差は資本力でも資源でも構想力でも創造力でもない。このまま世界との差は広がり続けるのだろうか。 (文責:金光隆志)
Jobについて
手段(ソリューション)ではなく目的(Job)に答えることが商品・サービスの役割である。 この言が既に、自明の真実のようでいて、消費の神秘を全く捉えない、浅い思考だ。 だが、今はその論点は保留する。この論自体の内部に、矛盾・嘘・単純化が孕んでいることを、それこそ単純な思考実験で明らかにしてみよう。 例えば。 何故掃除(手段)をするのか、部屋をきれいにしたい(目的)から。ではなぜきれいにしたい(手段)のか。その1:気持ちいいいから。その2:誰かに見られた時恥ずかしくないように。その3:汚いと不衛生だから。その4・・・。 と、手段と目的の連鎖が延々続くと同時に、それは拡散・発散していく。つまりこの論理に解無しなのだ。最初に設定した手段自体が目的となって表れてしまう事態も起こる。何よりナンセンスに陥るのがオチである。不衛生を何故解消(手段)したいか。病気になりたくないから。なぜ病気になりたくないか。病気はつらいから?仕事できないから?してみると、掃除するのは仕事つづけられるように?でも仕事を続けるための手段は掃除以外にもあるよね・・・云々。誰もがアホかと思うだろうが、それがこの理論の行末だ。 便宜的に、一つのJob(目的)を想定し、その解決策(手段)を複数化して、見えていなかった新たな商品・サービスのヒントを得る、という行為自体、否定はしない。だが、百歩ゆずって合理的人間観を推し進める退行的で観念的な考え方でしかない。 繰り返すが合理的目的、用語に従うならJobに全く意味が無い訳ではない。意味があるとしたら、些末な、とってつけた後付けこじつけのJob解釈に汲々とするのではなく、未だ解決されていない大きなJobに焦点を合わせる、ということだろう。未解決だけど仕方ないと無意識に諦められているような大きなJob。Jobというとかえってわかりにくいかもしれない。要は大きなアンメットニーズや妥協である。革新的商品・サービスの殆どがこれにかかわっている。ヘンテコリンなJobを探すくらいなら真正面から王道の課題に取り組んだ方がずっといい。 ところでこれって解り切った話である。逆に、大きなアンメットニーズや妥協を除くと、消費においてはJob「以外」のことが決定的に重要なのだ。 (文責:金光隆志)
需要浸透の構造・パターン
商品の特徴をターゲット需要者に対して効率的・効果的に伝達・訴求する。そのアレンジメントとして何らかの話題性を付加したり消費ストーリーを付加したり、といったことがマーケティングの基本パターンである。 では、そのようにマーケティングを組んだとして、商品はどのように市場に浸透していくのだろうか。もっと言えば、どんな浸透パターンを狙うのか。 この問いに答えられないで組まれたマーケティングはひいき目に言って片手落ち、もっと言えば結果は市場という神のみぞ知る、ということになる。既存商品リニューアル等でいつも通りのパターンを踏襲すればある程度結果は予測できるという場合ならそれでも良い。 だが、新規性の高い商品、新事業においてはどうか。 需要の市場浸透は、仔細には様々あれども、構造的に見れば、凡そ3つのパターンに集約される。そのことに自覚的になれば、マーケティングに新たな次元を導入することが可能になる。3つのパターンとは簡単に言えば、①個人の主体的選択の集積、②スケールフリーネットワーク効果の駆動、③ランダムネットワーク・その結果として自己組織化臨界形成、である。市場浸透構造という視点を持つと、結果論だが例えば、同じヒット映画と言っても「シンゴジラ」は①、「カメラを止めるな!」は②、「アナ雪」は③のパターンが主導的であっただろう云々と推測ができるであろう。 ネットワーク効果、というと、「インフルエンサーマーケティングとかその類か」と考える向きもあろう。確かにインフルエンサーマーケティングはスケールフリーネットワーク効果の駆動と親和性が高い。だが、インフルエンサーマーケティングに限らずどんなマーケティング手段であっても、どの市場浸透パターンも発生し得る。言い換えれば、浸透パターンの狙いの定めがないマーケティングからは、偶然の結果しか生まれようがない。 例えばユーチューバーを使ったマーケティング企画があがったとしよう。これはそもそも根本的に外している可能性さえ高い。ユーチューバーなんて中高生しか見ていない。そこは目をつぶるとしてもどんな浸透効果を期待しているかに自覚的だろうか。従来マスメディアにおける認知獲得の代替・補完、程度のことしか考えられていないなら考え直した方がよいだろう。 浸透構造・パターンに自覚的に狙いを定めても結果を完全に支配・コントロールすることは出来ない。だがマネジメントは可能になる。新規性の高い商品・事業であればあるほどこの差は大きいであろう。 (文責:金光隆志)