シニアの圧倒的な累積経験と英明果敢な精鋭若手の創造力で、クロスパートならではの事業革新ソリューションをご提供してまいります。
成長を続ける企業にとって普遍的かつ不可欠な経営アジェンダを中心に、様々な業種・ステージのクライアントをご支援させて頂いております。
戦略立案
クロスパートでは奇を衒った戦略ではなく着実に収益・成長性を向上する戦略を重視しています。
定性的な議論に終始するのではなく可能な限り定量的な議論が出来ることを心がけています。
事業創造
クロスパートでは様々なイノベーション方法論や発想ツールを独自開発しています。
緻密な戦略ロジック・累積経験と多彩な発想切り口・ツールでedgeな事業構想が実現します。
探査・研究
典型的な業界スタディから雲をつかむようなテーマの考察まで、幅広いテーマで高水準のスタディを行うことが出来ます。
“こういうテーマはクロスパートにしか頼めない”と言われることもしばしばです。
組織改革
組織課題の解決には圧倒的に累積経験がモノを言います。
クロスパートでは経験豊富なシニアが仮説を出し丹念にファクトで検証進化させることで、様々な組織課題において具体的・実践的な改革支援が可能となっています。
人材育成
有益なスキル研修は世に数多ありますが、「頭の使い方・考え方」を鍛えるのは難しく、社内用に独自に開発した研修を、ご要望により他のコンサルティング会社やクライアントにも提供させて頂いております。
探査・研究
典型的な業界スタディから雲をつかむようなテーマの考察まで、幅広いテーマで高水準のスタディを行うことが出来ます。
“こういうテーマはクロスパートにしか頼めない”と言われることもしばしばです。
組織改革
組織課題の解決には圧倒的に累積経験がモノを言います。
クロスパートでは経験豊富なシニアが仮説を出し丹念にファクトで検証進化させることで、様々な組織課題において具体的・実践的な改革支援が可能となっています。
人材育成
有益なスキル研修は世に数多ありますが、「頭の使い方・考え方」を鍛えるのは難しく、社内用に独自に開発した研修を、ご要望により他のコンサルティング会社やクライアントにも提供させて頂いております。
仮説にたどり着くスピード、目からウロコの発見や気付き、それだ!という納得感、などなど、
クロスパートと行うプロジェクトは Wao! Aha! Yes! の連続となるでしょう。
なぜそんなことが可能なのか。積み重ね・研ぎ澄ましてきた特徴の賜物です。
Wao!Aha!Yes!の秘技
コンセプト化
戦略立案、収益改善、顧客理解、事業企画、仕組み構築、組織改革、実行・・・
どんなテーマでも、核となる考えをコンセプトとして了解できるようにすることを重視します。
クロスパートでは個々のプロジェクトの経験・検討から、更に一歩考察・洞察を深めて、
構造化やメカニズムを押さえるところまで思考や研究を徹底しています。
強力な発想の源となる、大小様々な独自開発ナレッジ・コンセプトの一旦をご紹介します。
ビジネスの色々なテーマを徒然なるままに考察し書き下ろしたエッセイです。
ステレオタイプなビジネスの見方を更新するべく、ビジネス論の範疇で能う限りリベラルな視点・切り口を導入しています。
ビジネスの、経営の、パルマコン=毒⇔薬として、思いがけない誤配を夢想した宛先不明の手紙として。
● おすすめコラム
モードとコードと消費と
随分と長い間コラムの更新を怠っていました。 心機一転、また徒然なるままに書いていこうかと思っている次第です。 再開第一弾は消費論。 過去にもいろいろと消費について論じてきましたが、チャットGPTやら生成AIがバブってきたいま、あらためて、人間が意味を考える意味を考えてみたい。ん? ということではじめましょう。さて。 大分前にはなりますが、【消費メカニクス3.0】という題で、コラムを書きました。 そこでは、<b>消費行動</b>は我々が思っているほどには自由な意思によるのではないこと、<b>構造的に規定されている</b>こと、データサイエンスが人の意思を思いのまま操作しつつあることなどを論じました。 今回は<b>【生成】</b>に関わる話をできればと思います。そのために、まずは消費メカニクス3.0で述べた【構造】の話を、文化の理論の古典を下敷きに再確認しておきましょう。 <b>人間の行動の殆どはコードに則っている</b>、あるいはコード化されています。コードというと勿体ぶって聞こえますが、要は例えば社会慣習とか流行とか自分の中での習慣化とか。<b>人間=コード・コード化する生き物</b>、とさえ言えるかもしれません。 なんでか。よくわかりません。 この、よくわからないという時点ですでに、人間が意味を考える意味が垣間見えるのですが、さておき。 人の行動を統制するコードにはあからさまなものもあれば気づいていない・無意識に作用しているものもあります。また、一つの行動は様々なコードが複雑に絡み合い影響を及ぼした結果、としてあります 例えばあなたが誰かに一目ぼれしたとしましょう。それは運命と呼びたいかもしれません。絶対普遍だと思うかもしれません。だけど多分違う。 あなたが現代人なら、19世紀のコードではなく20世紀や21世紀のコードだし、日本で暮らしてきたならアフリカのコードではなく日本のコード、あるいは、生まれてこのかたどういう人と出会ってきたのか、どんな集団に属してきたのか、などからもコード化されている。 自分自身、なんでその人に一目ぼれしたのかわからなくても相当適度にコードや広義の社会学習の堆積から決定されている、だろうと思われます。 つまり、<b>欲望はコード化されている、あるいはコードが欲望を喚起する。</b> 消費のメカニクス3.0の議論は、この<b>潜在するコードの複雑な影響をAIがパターン認識して中毒的・衝動的な反応(消費)が引き出されている、コードを侮るな</b>、ということでした。 そうすると人間の欲望・消費はもはやAIの思うがまま、人間が介在する余地はない、のだろうか。ほとんどそうなのかもしれない。そうなっていくのかもしれない。 しかし、実はひとつ、<b>絶対にAIが作り出せないもの</b>があります。何か。 それは、<b>コード自体</b>です。 AIには既存のコードを解読できても新しいコードを生成することは絶対出来ない。なぜか。 <b>コードは人間の社会活動、関係のネットワークによって生成されるから</b>です。コードは社会・関係のネットワークの中にしか存在しません。もっといえばコードとは関係のネットワークそのもの、です。 日々の社会活動や関係のネットワークから新しいコードのSeedが沢山生まれています。<b>あらゆる瞬間のあらゆる現場におけるあらゆる関係にSeedが宿る</b>、というとロマンティックすぎるでしょうか。でもきっとそうなのです。そうしたSeedの<b>ほとんどはそのとき限りで泡のごとく消えて</b>いきます。しかし極々一部のSeedは、先ずは局所的に繰り返され・模倣されはじめる。ですがこれはまだコード以前、いわばモードの段階です。モードも殆どがすぐに消滅します。そして<b>極々一部のモードだけ、改変されながらも局所から領域へと</b>模倣が広がる。トレンド段階です。トレンド以降、模倣がより大域へと広がっていく。ファッション(流言・流行)の段階です。ファッション段階までくれば、一定程度、コードとして機能し始めたと言えるでしょう。 では、どんなものが新しいモードとなり新しいファッションへと発展していくのか。 それはわかりません。わからないから生成なのです。 <b>既存コードの組み合わせや応用範疇</b>で生み出せるファッションはあります。大半のトレンドやファッションはこれ。<b>これらは生成ではなく再生産</b>と呼ぶべきもの。再生産型トレンドやファッションはそのうちAIでも生み出せるようになるでしょう。いや、フェイクニュースの大拡散なんかを見ているとすでに起こっていること、なのかもしれません。 でも、既存コードを逸脱した行動・言動・モノ等が、関係の中でどう体験されるか、あるいはどんな新しい関係を生み出すのか、既存コードから読み解くことは出来ません。繰り返しますが、もし読み解けるなら、それは新しいコードを生み出してはいません。<b>生成AIが作り出せるのは古いコードで読み解けるものだけ。つまり新しいコードは生成出来ない</b>のです。 さて、長々書いてきた割には、だからなに?という感じの話になってきてしまいました。 ここからインプリケーションのある話に繋げていくには、さらに長々と論じるべきことがありそうです。 再開第一弾はとりとめのない話になってしまいましたが、リハビリということでご容赦を。 (文責:金光隆志)
セレンディピティの可能性を高める
<b>新規事業の創出・成功をセレンディピティ(偶然の発見・気づき)にかける</b>、というのは中々出来ることではないだろう。経営陣にしてみれば投資家に許容されそうにない、と思うだろうし、しからば当然、事業開発担当にとっても経営陣から許容されそうにない、ということになる。 だが、<b>セレンディピティが事業創造・成功に果たしている役割</b>は、残念ながらというのも変だが、恐らくは<b>想像以上に大きい</b>だろう。InstagramもYoutubeもGrouponもPayPalもAirBnBもTwitterも、Appleも、ポストイットも、コカ・コーラも、じゃがりこも、等など、セレンディピティがなければ生まれていなかった。 <b>可能性の連鎖を描ききる</b>という前回の話(「事業創造とオプション創造」参照)は、<b>セレンディピティの潜在を出来るだけ顕在化</b>させておく試みでもある。また、描ききることが、描いていなかった真に<b>想定外な気づきへの可能性・感度を高める</b>ことに繋がる。 今回は、セレンディピティの可能性を高めるもう一つの方策、<b>モジュール化×バザール化</b>について少し解説を試みよう。 セレンディピティとは、思いがけない発見や出来事からの気付き、である。ではセレンディピティを起こす可能性を高めるにはどうすればいいか。思考実験をすれば簡単にわかる。仮にあなたが、<b>たった一つのことを、たった一人で、しかも情報を遮断</b>して、行っているとしよう。<b>セレンディピティが起こる可能性は?限りなくゼロ</b>であろう。ならばその逆、<b>色々なことを、色んな人・多くの人と、情報をやり取り</b>しながら、行ったとしたら?<b>偶然の出来事可能性は高まっていく</b>だろう。だが、過剰な複層化、過剰な情報、つまり<b>複雑性が過剰になってくると、発見や気付きの可能性は徐々に下がっていく</b>だろう。つまり量と確率がトレードオフになっていく。そこで、<b>中くらいのいい塩梅</b>を探るか、<b>トレードオフを解消</b>するか、どちらかによってセレンディピティの可能性を高められそうだと予想がつく。しかして<b>その方策、それがバザール化×モジュール化(複層化の方法がバザール化、複層化しつつ複雑性をコントロールする方法がモジュール化)</b>である。バザール化はオープンソースの開発方式からのアナロジー、モジュール化は製品開発や生産・生産管理の方式からのアナロジーなのでそちらに不案内な人は一度見てみるとよい。<b>バザール化</b>は、簡単に言うと事業開発を<b>社内的社外的に多様化・多重化かつ可能な限りでオープン化</b>していくことに相当する。多様化は、一つの大きな事業テーマのものとで、商品特性・サービスタイプ・事業モデル・顧客層などを多様に探査していくことを指し、多重化は、例えば一つのサービスタイプにおいて検討する担当・外部パートナー等を多重にしておくことを指す。オープン化は、狭義のオープン開発という意味ではなく、関係ありそうな人・なさそうな人を問わず可能な範囲で内容やコミュニケーションをオープンにしていくことを指す。<b>バザール化によって瞬く間にアプローチや関係ネットワークが成長・多様化し、想定外の展開や情報のインベントリが生成されていく</b>だろう。一方<b>モジュール化</b>は、この多様化の動き・流れを<b>カオスでもなく統制でもないレベル・中くらいの複雑さ、いわばセミラティス構造に落ち着かせる</b>働きをする。セミラティス構造の特性については都市論に触れたことがある人にはお馴染みだろう。詳しくは是非そちらを参照して頂きたい。なぜ人工都市が死んでいくのか、自然都市が有機的な発展を続けるのか、大変示唆深いだろう。さて、セミラティスを構成する<b>モジュールの分け方・組み方</b>には色々なやり方がある。事業モデル単位で分けるとか、機能単位で分けるとか、<b>切り口の一律性・一貫性・整合性に拘る必要はない。むしろ、硬直的にならないようにセミラティスで相互に重なり・繋がる線を担保していく</b>ことが大事である。セミラティスに構造した各モジュールは、成長・多様化を損なうことなく様々な茎を伸ばし・連結していきながら、自然に進化していく。一方で<b>それぞれのモジュールは事業開発エンジン・アセットとなっていく</b>。アセットとなった<b>モジュールは、切り離して全く別の事業創造テーマにあてていく、といったことも可能に</b>なっていく。これは前回話した<b>「オプションの創造」</b>に関する最上級の打ち手でもある。 バザール化によって<b>人々や出来事のネットワークを多層・多茎化し、拡張・連結・切断を繰り返しながら想定外の発展を促進</b>する。一方でモジュール化によって<b>その発展による複雑性をカオスと統制の間の絶え間ないゆらぎに緩やかに組織</b>する。セレンディピティの起こる可能性は飛躍的に高まるだろう。セレンディピティと言うと、偶然待ちの消極的な姿勢・自らではどうすることもできない運、と捉えられがち。だがその考えでは残念ながらセレンディピティは訪れないしセレンディピティが訪れないとしたらイノベーションを起こせる可能性はとても低いだろう。本日論じたことは<b>従前の組織編成・運営システムとは180度違う</b>。<b>効率・持続成長のマネジメントと変革のマネジメントが180度違うのは当たり前</b>なのだが、そのことにちゃんと向き合える企業はまだまだ少ない。逆に言えばチャンスでありまだまだ可能性はあるということだ。全社を180度違うマネジメントスタイルに変えるという話ではない。そんなことをしたら既存事業に支障をきたす。かといって1%ですむ話でもない。<b>10%程度のリソースをバザール化×モジュール化の組成・運営に振り向け</b>ていけば、事業創造にぐっと近づくことができるだろう。 (文責:金光 隆志)
事業創造とオプション創造
事業創造とは何か。 当たり前すぎて考える気にもならない?確かに。事業創造とは事業を創ること。では同義反復であって何ら新しい発見はない。しかし、この問いへの切り込み方・回答次第で<b>事業創造の巧拙が決まる</b>のだとしたら?ということで今回は事業創造とは何かの見立てを更新してみよう。 <b>事業創造とはオプションの創造であり権利の創造である。</b> どういうことか。 一般的に、事業創造には不確実性が伴う。<b>不確実性には2種類ある。</b>何が起こるか想像もつかない・思いも寄らないことがあり得る、という意味の不確実性。そしてもう一つ、色んなことが派生的・連鎖的に起こり得るのだが、そのどれがどこまで起こるのかわからない、という意味の不確実性。<b>事業創造においてこの2つの不確実性の意味は深く考える価値がある。</b>なお本稿では詳述しないが、前者は弊社が提唱する適応変異(アダプション)の創造手法に、後者は生態系多様性の創造手法に関係するだろう。 さて、パラフレーズを続けよう。この<b>不確実性の創造こそが事業創造</b>なのだ、というと驚くだろうか驚かないだろうか。事業創造の常識的なイメージでは、ある狙った事業構想があり、そのリターンを想定し、それを実現していくことが事業創造であろう。<b>日本の大企業の事業創造は殆どここで躓く。</b>リターンを定量的に想定出来なかったり、想定してもそれこそ不確実であったりするわけで、ここで色んな対処のバリエーションが現れる。大別すると3つだろう。①不確実だからリーンに小さくスタートして検証しながら進めよう②革新的なアイデアを定量評価しようとすること自体間違っているし革新的であるかどうかが大事③わからないから様子を見よう。①②③のどれも、それ自体が間違っているわけではないが前提が間違っているとそのあとの論理も全部間違いとなる。前提とは繰り返すが、事業創造とは不確実性の創造であり、不確実性には2種類ある、ということ。 まだ何が言いたいかピンとこないだろう。ここで、<b>不確実性を可能性と読み替えてみる</b>とどうか。「可能性の創造こそが事業創造であり、可能性には2種類即ち想定外と想定連鎖の枝分かれの2種類がある。」どうだろう。ちょっと見え方が変わってきただろうか。ところでまたしても殆どの大企業の事業創造の取組みにおいて、可能性の連鎖の想定は全くといっていいほど行っていない。「こういう風になるだろう、でも不確実で、アップサイドこれくらい・ダウンサイドこれくらいの振れ幅」みたいなことをやっているケースはある。やらないより遥かによいが、ここで言っているのはそういうことではない。想定の実現可能性のことではない。<b>所謂サイドエフェクトや、風が吹けば桶屋的な関係性の連鎖がもたらす可能性のユニバース(と宇宙の果て的な想定外の発見・出来事)</b>のことだ。やってみればわかるが、サイドエフェクトは具体的なアクションやイベントを考えれば考えるほどどんどん広がり、それこそ想定外だった可能性に気づいていくことだろう。そして、<b>事業創造とはこれら可能性のオプションの創造、起こし得る権利の創造</b>、と考えるべき行為なのだ。 事業創造において常識的考え方で「これをやればこれくらいのリターンが期待できる」と算段しそれが十分魅力的なとき、十中八九はその見通しは誤っている。だから、さっき①②③どれも間違いと言ったが、こういう起案がされたとき、③の「よくわからないから様子見」という態度は皮肉にも実は合理的だとも言えるわけだ。念の為捕捉しておくと、スモールビジネスを立ち上げるのであれば、この限りではない。スモールで十分なら色々やりようはある。例えば特定のユーザーを想定し、そのユーザーを徹底的に満足させる商品やサービスを作れば、似たようなユーザー層には確実に波及し受容されていく。だがまぁそれ以上でもそれ以下でもない。 可能性の連鎖は今起こるわけではないし今の投資だけで起こせるものでもない。どこかで大きな分岐がある。だが<b>可能性が低くても起こり得る・起こし得る未来。それがオプションである。そして事業創造の価値は殆どこのオプションの価値に依存する。</b>オプション価値の小さい事業は控えめに言って魅力は高くない。また、ほぼ同義なのだが、事業創造において確度の高い未来の価値は小さい。さっきの繰り返しになるが、逆に言えばこれを大きいと見積もっているならその見立ては殆ど誤りだろうということだ。直感的に了解するなら本当に確度が高いのなら皆が同じところを狙うから価値は毀損される、と考えてみればよいだろう。 可能性連鎖のオプションをどう考案しどう評価するかとなると少々テクニカルな習熟を要する。評価についてはまだ限界もある。また、もう一つの可能性である想定外をどう「想定」するかも、可能性連鎖の想定を前提とするのでここでの説明には収まらない。だが、これだけは押さえておくと良い。<b>オプション=権利を買う・押さえるという考えがないと、ロクな新規事業投資は行えない。</b>オプションを買う気がないならはじめから新規事業など考えないほうがよいとさえ言える。思うに<b>日米のここ20年の決定的な差</b>はここにあるんじゃなかろうか。先ずは<b>定性でも良いから可能性の連鎖を描ききってみる</b>とよい。事業構想が当初想定とまるで違うものへと変貌することだろう。変貌しない事業案はボツにするのが懸命だ。とまで言うと言い過ぎか。でもそれくらいでないと大企業なんて変わらないですからね。 (文責:金光 隆志)
創造性とコンテクスト
すべてはコンテクストである。とひとまず言ってみよう。 実際<b>どんなモノもコトも、時間的空間的コンテクスト無しには何ら意味を持たない</b>。逆にコンテクスト次第でモノやコトはいかようにでも物事として意味を帯びるだろう。コンテクストと言うとわかりにくいかもしれないが、要は<b>どんなモノもコトもそれ自体には意味はなく、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて正負様々な意味を帯びる</b>、ということだ。 あたりまえ?そう、当たり前です。当たり前なんだけど、<b>ここに「クリエイティブ」の全て</b>のヒントがあるとしたら? その点を了解するために、クリエイティブとはなにかをちょっと考えてみよう。 <b>あるモノやコトを見たとき、それがクリエイティブかどうかはどう見分けられるか。</b> 革新的かどうか?じゃあ革新的ってどう判断する?ということで答えになってない。 今までにないものかどうか?ちょっとはマシな答えだけど、じゃあ例えばそのへんにある紙をグシャっと適当に丸めたら今までに無い形なはずだけどこれはクリエイティブ?いやそれ意味ないじゃん、という声が聞こえてきそうですが、そう。「意味」が無いと意味ありません。笑。では意味はどう生まれるか。これはさっき述べたとおり、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて意味が生じるわけです。どうでしょう。<b>あるモノやコトがクリエイティブかどうかはコンテクストと決定的に関係</b>がありそうですよね。でもまだちょっと抽象的でピンとこないかもしれない。そこでもう少し具体的な補助線を引いてみていきましょう。 補助線その1。 あなたは<b>和室のエアコンに違和感</b>を感じたことは無いだろうか。 畳、襖、障子、床の間、欄間、長押、あるいは掛け軸や陶器、茶具などの調度品、障子から漏れ来る薄明かりの織りなす陰影・・質素で侘びた空間、時間の経過による傷み・寂れ、それらこそが<b>日本的な枯れや幽玄の美を構成</b>している。で、そこに<b>近代的で機能優先的</b>で、どうだと言わんばかりに存在感を主張するエアコン本体、不細工な配管シールド。合わない。「真」「草」「行」などいずれのスタイルにおいても、<b>絶望的に合わない。</b>もしも<b>違和感を感じないとしたら</b>、モダン化した和室を見ているのか、あるいは<b>見慣れ過ぎて当たり前の風景として見逃している</b>かでしょう。ということでどうでしょう。<b>コンテクストを見ることで今までに無いエアコンを考えるヒント</b>、見えてきそうではないですか?これが<b>所謂アンメットニーズとか無意識の妥協の発見</b>、ってやつの源泉・本質です。 補助線その2。 <b>マルセル・デュシャンの「泉」</b>はご存知だろうか。 磁器製の小便器に署名をしたもの、それが「泉」というアート作品です。ところで今さりげなくアート作品と言いましたが、果たして<b>何がある作品(モノ)をアートたらしめるのだろうか。</b>以前「イノベーションとアート」という当コラムの論考でアートとは何かの試論・素描はしましたが、ここでは違う観点で、人々にアートだと認められるとはどういうことか、を見てみると、<b>美術館・ギャラリー・コレクション・キュレーション・オークション・富裕層。これらの連関がシステムとしてアートを構成しているのであり、システムに組み込まれたものがアートとなる</b>わけです。<b>システムをコンテクストと置き換え</b>てみよう。<b>「泉」はこの「隠された」事実、アート業界という欺瞞(は言い過ぎか)のコンテクスト、に2重の揺さぶり</b>をかけています。第一に、このコンテクストに組み込まれ・飾られたものがアートであるという事実に「小便器の展示」という<b>異化作用</b>によって気付かせる・明るみに出す(現前化)ことで。そして第二に、実はこの作品は、デュシャン自身が委員長を務める展示会の実行委員会から出品を断られているのだが、それに対し、委員長辞任で不服を表明することで、既存の価値を揺さぶる革命こそがアートではないのか(異化)、だがかといってでは既存の価値を逸脱すれば何でもアートなのか・その線引は・・という<b>決定不能性</b>を明るみにだすことで。 長くなりましたが、まぁ、あるものをあるものたらしめているのはコンテクストであって、そのコンテクストは往々にして暗黙化しているが実は恣意的なものなのであって、従ってオルタナティブの可能性が常にあること。これが<b>所謂常識や無意識のバイアスへの気付き</b>、ってやつの源泉・本質ですね。 補助線その3。 あなたは<b>子供のらくがきがプリントされた、他に何の変哲もない白いTシャツを売る</b>自信はあるだろうか。まぁ何だって売れなくはないだろうが、そういう話ではありません。 例えば。 この子供のらくがきは実は、アフリカの難民や超貧困層の子どもたちの手によるもの。域内食糧難の大きな要因の一つは先進国への牧畜用食料輸出であること、限られた優良な耕作地や地下資源鉱脈は北側諸国・企業に専有され、原住民は疎外されていること。即ち、南の貧困はリアルに北の贅沢とリンクしていること。そしてそのような経済問題の隠蔽を告発し、介入すべく有志のアーティストが立ち上がり、アフリカ農園労働者の美術制作を支援するアートサークルプロジェクトが立ち上がっていること。その一環で、子どもたちにも絵画の機会を与え、歓びを生み出していること。そしてこのT-シャツは、当プロジェクトとのコラボレーションで生み出されていること。云々。 こうした<b>コンテクストがあると、この商品の意味、この商品を買う意味、着る意味、語る意味、などが大きく変容</b>してくるでしょう。これは本質的には価値の創造なのだが、まぁ<b>今どきの言い方でいえば、これがエモいストーリー</b>ってやつになるでしょうか。 補助線その1は「コンテクストと調和」、補助線その2は「コンテクストの前景化・からの異化」、補助線その3は「コンテクストの創造」です。補助線1と2は「既存コンテクストの理解」を前提とした言わばコインの裏表のような関係であることを付言しておきましょう。クリエイティブとはこのどれかを達成しているものです。 <b>クリエイティブの秘訣。それはコンテクスト(モノ・コトの関係の網)への眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造</b>、というわけです。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求⑤ -世界観アーキテクチャの中毒消費-
<b>意味のイノベーション、人を動かす体験ストーリー、云々。</b> 産業や生活がテクノロジーによって変革・更新されていき、テクノロジーこそが世界の問題を解決していくという物語・神話が全面化していく中で、大事なのは技術じゃない・問題解決じゃない、意味やストーリーこそ大事なのだという物語が語られる。 これを文系の最後の悪あがきと揶揄する向きもある。が、まあそうでもない。 実際、<b>人が物語によって世界を意味づけし、それによって価値や行動や規範が規定されていることは、有史以来の人間社会成立(ホモ・サピエンスとしての)の条件</b>なのだ。 <b>現在は「テクノロジーが世界を変える・救う」という物語が支配的</b>、というわけで残念ながら文系諸氏の悪あがきは見事に自らの言説に裏切られる、という憂き目を見るわけだが。 <b>個々の商品において新しい意味やストーリーを考える(意味やストーリーから考える、も含む)ことは否定はしないが、それだけでは大して見返りはない</b>だろう。特に、人を動かす「英雄譚」のストーリーモデル云々、とか、イノベーションやマーケティングのハウツー本で書かれているレベルのこと(ドラマティックな物語展開のパターンはこれ!みたいな)を考えても全くの無駄なのでやめておこう。日常・変化・困難・協力者(商品)・克服・成長・・とか、子供でも考えるような物語構造の一番単純な定石ではあるが、自分の消費を思い返せばいい。そんなもので心動かされて何かを買ったこと、あります?? まぁディスるだけじゃなく一応ちゃんと言っておくと、物語について商品やサービスへのマーケティング応用を考えたいのならば、筋の展開の構造のような「形態」「機能」や「シークエンス」よりも、人物や出来事の特性や気分・ある行動への動機・場の雰囲気・状況などを伝える「指標」や語りの「パースペクティブ」のことをしっかり考えてみたほうが示唆深い場合が圧倒的に多いだろう。 商品を使っているシーンやエクスペリエンスをプロット・表現し想起させる、云々というのも殆ど無駄。商品開発においてシーンやエクスペリエンスから発想することを否定しているのではない(大して肯定もしないが)。新規性の高い商品の使用説明としてちゃんと伝達することを否定しているのではない。そうではなく、ストーリーマーケティングやらコンテクストマーケティングやらと称して「エモい」エクスペリエンスストーリーを考えよう云々、がまぁ殆どの場合無駄だということ。マーケティングの段に至ってエモいエクスペリエンスを捻り出さなければいけない商品など、はなからエモい魅力はないと思った方がよい。 さて、アイロニーはこの辺にしておこう。やっぱり人々にとって意味のある生産的なことを言いたいですからね。ということで、<b>意味のイノベーションや体験・ストーリーよりもはるかに強力なビジネスモデル原型</b>を少しご紹介しておこう。 人をときめかせる、ワクワクさせる、これから(未知・未来)を期待させる、あこがれさせる等などの<b>「世界観」をもとに、ビジネスアーキテクチャを形成・生成し、そのアーキテクチャをもとに、世界観のパーツや個々のストーリーとしての各種商品やサービスをマルチプラットフォーム・マルチビークルに次々と展開する。</b>これである。 <b>人々の欲望を駆動するのは、第一義的には、個々のストーリーではなく、「世界観」である。そして、「世界観」がベースにあると物語はいくらでもヴァリアントを生成可能なのだ。</b>そして世界観アーキテクチャがハマれば必ず中毒消費に至る。 エンタテインメントの世界を想像すればわかりやすいだろう。ディズニーワールド、マーベルユニバース、ラノベジャンル、AKBフォーマット、K-POPフォーマット、ポケモン、直美・・。<b>基盤となる世界観のもと様々な商品・ストーリーヴァリアントが展開されると同時に、それぞれのヴァリアントがさらに、派生商品/ヴァリアントを生成</b>している。強引に単純化した<b>例を示そう。</b>「気品、美しさ、優しさ、行動力、勇敢、困難の克服、変身、魔法的力、愛の成就」といった特徴を備える<b>ディズニープリンセス世界観。</b>その世界観のもと、白雪姫、シンデレラ、アリエル、ベル、ジャスミン・・といった様々な<b>ストーリー/キャラクターヴァリアント</b>が創られる。そして<b>各ヴァリアントから</b>はアニメ、実写、キャラ商品、テーマソング、テーマパークアトラクション・・といった<b>派生商品/ヴァリアント</b>が生まれる。<b>これらの生成を支えるアーキテクチャ</b>は、映像から商品やパークまでの<b>連鎖したコンテンツビークル・プラットフォーム</b>(ディズニーエコシステムと呼ばれる)はもとより、社会が求める女性像のR&D(キャラクターの性質は時代とともに少しづつ変容させている)、世界中の文化や物語IPのリサーチ、ニューロサイエンスに基づくシーンと情動のパターンDB、最先端のCG・VFXテクノロジープラットフォーム、新たな体験を生む五感を中心とした先端テクノロジー・サイエンスのリサーチネットワーク、ハリウッド内はもとよりグローバルに広がる映像制作ネットワーク・・といった<b>SECT(Science Technology Culture Edit/Produce)インフラストラクチャ</b>から構成される・・云々。 ところで<b>「世界観」消費のミソは、世界観そのものを直接消費することは出来ない、ということだ。</b>世界観を楽しむ・熱狂する・共感する・同化する・納得する・感受するには、世界観のパーツ・化身・シミュレーションたる個々の商品・キャラクター・物語を消費するしかない。だが、それは決して世界観そのものではない。だから、世界観と同化するには、次々に出てくる商品やストーリーを世界観の一部・影・鏡像・シミュレーションとして次々に消費するしかないのだ。かくして<b>「世界観」に快情動を感じた人は、反復を求めてずっとその世界観の化身・仮身を追い求めることとなる。</b> そして、<b>世界観に惹きつけられた消費者自らを、個々の商品や物語生成に巻き込む、創作に参加させることで、世界観アーキテクチャのモデルは一つの完成形に至る</b>だろう。<b>世界観に同化したいというナルシスの欲望が擬似的に満たされる</b>状態。完全に同化できてしまってはいけない、ときには「本物」の豪速球で突き放さなければいけない、のだがまぁその話は置いておこう。ともかく。ここまでくれば完全にハマった状態である。実際に創作に参加させるにせよ参加した気にさせるにせよ、<b>そこに莫大なマネタイズの機会が発生</b>するだろう。エンタメで言えば、二次創作の隆盛で一次創作の消費を拡大するのか二次創作自体から収益を得るか、みたいな話ではある。それだけじゃない、それだけだと浅いが、まぁこれも置いておこう。 さて、エンタテインメントの喩えはわかるが、他の実用商品でも同じことが言えるのか? もちろんYes。<b>ジョブズが率いたころのAppleに陶酔しCreativeを信奉した人々、GoogleのMoon shotに憧れ・共感しハッカソンなどに参加する人々、IKEAのLOHAS的・北欧的感性へのDIY的商品体験による同化、昨今の中国D2Cユニコーンにおけるコアファンの熱狂的参加、米国DNVBにおける理念や世界観への共感、等など。</b>すべて「世界観」による欲望の駆動と、欲望を個々の消費やコミュニケーションで解消するための「アーキテクチャ」がある。アーキテクチャの全体が世界観の表現でもあり、個々の商品やコミュニケーションが物語のヴァリアントとして世界観を部分表象し、世界観への憧れ・興奮・共感・同化・・を部分的に昇華・消化させる。 <b>世界観は人々を瞬間的・無意識的・情動的に惹きつける。だが世界観自体「これが世界観です」というふうには目に見えない、言語化しようにもいわく言い難い。だから強力</b>なのだ。では世界観やアーキテクチャはどうやって作ればいいか。簡単に補助線を付しておこう。 欲望の原理的理解、現代のマクロな世相や言説の背後にある集団的欲望や不安及びその源泉の理解、個人や集団の欲望を駆動する世界観の原型となる各種文化の様式・パターンやそこで作用するコードのカタログ・現代の脱聖化した各種消費文化の背後にある歴史的系譜の考察、世界観構築・表現や個別商品・物語生成に援用可能な技術プラットフォーム・サイエンスの考察、コアファン生成のコミュニケーションモデル設計、メディア・ビークルプラットフォームミックス設計、これらを統合するSECT連携/スタジオ型ビジネスモデル、である。世界観を代理表象するための物語素・神話素や指標に相当する要素・パーツをデータベース化しアーキテクチャに仕込んだり、それら要素の最適組み合わせをイメージ生成・テクスト生成するデータサイエンスやニューロサイエンステクノロジーを折り込むことが出来れば更に強力な世界観アーキテクチャ型ビジネスモデルを創ることができるだろう。 <b>世界観アーキテクチャの消費</b>は目新しいものでは無い。にもかかわらず、エンタテインメント業界の先端を除けば殆どの人はそれを<b>ビジネスモデルとして了解</b>していない。文系の悪あがきの可能性の中心はここにこそあるのだが、エンタテインメント業界以外のビジネス現場がいかに人間や文化を原理的本質的に理解することを怠っているかの査証、とまで言うと言い過ぎだろうか。ところで実は世界観アーキテクチャの中毒消費はデジタルと相性がよい。<b>デジタル化が全面化し、With/After covid-19の生活様式がいよいよ不可逆となっていく気配の中、世界観アーキテクチャの勝者は世界の勝者となっていく</b>だろう。 (文責:金光 隆志)
お金はやっぱり浪費とお金持ちがお好き!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備・補助線としての試論(3)-
前回、前々回の話を、マクロな視点から、更に論理展開してみよう。 本質をえぐり出すため、生産財投資や税や政府セクターや、話が見えにくくなることは乱暴なまでに省略し、議論の単純化を行っている点、ご了承願いたい。 さて。 <b>経済の発展とは、究極的には、未来への信頼・信用</b>なはずである。 どういうことか。 <b>市場経済×資本経済における生産と消費には絶対的な矛盾</b>がある。 労働契約で支払われた賃金以上の商品価値を生産しても、賃金以上の消費は出来ない。ということは、<b>一つの経済系の中に閉じている限りは、利潤なんて生まれない。</b>売れない商品の在庫が残って終わり。なのだ。 <b>解決策は「閉じない」以外にはありえない。つまり「外」から買ってくれる人の存在だ。</b>資本は常に「外」を必要とする、ということを了解しておくとよい。 で、これ実は、前々回のたとえ話で言った「なぜかお金を持っている人」のことである。 何故かお金を持っている人とは例えば、なぜか過去からの蓄積がある貴族的な人。あるいは例えば日本人が作ったものを買ってくれる外国人。とか。 でもこれら<b>「空間的な外」には当然限界がある。</b>貴族は過去の蓄積を食い尽くしたらアウト。外国人消費を取り込むとは要するに経済圏をどんどん海外まで広げて「内」に取り込んでいくことだが、取り込み尽くして地球規模での「内」なる経済圏が完成したら終わり。もはやその外からの消費は無い。 <b>そこで、究極の解決策「時間的な外」である。つまり未来の消費の先取り。</b>経済が発展することを前提に、先に支払う。例えば、生産性が上がっていくことを前提に賃金を高くする。そうすると今の消費力があがる。あるいは、人口が増える。そうすると消費力があがる。 さて、時間的な外にだっていずれ限界はあるはずだが<b>「発展する」と信じて金融が資金を提供する限りは、限界は見かけ上は先送りされ続ける。</b>お金を刷り続けることになる。すると最初はインフレが起こる。でも一定範囲のインフレなら、過去の借金棒引き効果があるから、ある程度は辻褄が合っていく。<b>インフレ経済下では投資をしろ、と言われる所以だ。インフレでしばらくは消費も刺激されるから、投資によるさらなる生産力の拡大は、借金棒引き効果とも相まって見返りのあるものとなるだろう。</b> さて、だが、ここでもし、<b>「欲しいものもう別にないわ」、となったら何が起こるか。</b>「買えるものがない」のじゃなくて、「買いたいものがない」状態。これが実は<b>人類が歴史上初めて迎えつつある現代の先進国市場の姿、なのかもしれない。</b>だから、まだ何がこれから起こるのか、よくわからない。 わからないけど、一つのシナリオは今の日本が見せているかもしれない。 買わなきゃ経済は縮んでいきます。急に縮んだら失業者が増えます。だから緩やかに縮むように、所得が調整されます。デフレです。デフレだと心理的にも財布の紐は少し固くなっていく。買ってほしいから商品の価格も下がってくるでしょう。でもさして欲しくないとそんなにも買わない。するとデフレがさらに進行する。<b>デフレスパイラル。</b> 日本の実態は更に複雑で、人口減少と急速な高齢化という問題も抱えている。労働力が足りないから外国人労働者を大量に受け入れている。でも単純労働が殆どだから大した消費力の向上には繋がらない。肝心の日本人の消費マインドは一向に上がらない。若者だけじゃない。高齢者なんてホントにそんなに今更欲しい物なんかない。かくして金利をマイナスにしてもデフレは止まらない。 <b>こうなると、もう未来への信頼・信用を取り戻せるのか、なかなか難しそうだ。</b> 究極的にはやっぱり前回や前々回の話の通り、余分なものでも買ってくれる金持ちと、不要だけど欲望を刺激する商品を作れる人、この人達が経済を活性化させて、結果、世の中を進化させる医療やら情報テクノロジーやらにも投資のお金が回せる世の中にしていく、というのを無理にでも目指すしか、ないのかそうではないのか。 (文責:金光隆志)
オルタナティブ未来構想
ここ1,2年、未来構想について見聞きすることが増えてきた。 個人的には6,7年前ごろからこの種のテーマで検討依頼を受けることが増えていたが、当時は、10年・20年先を議論する日本企業は稀な存在だった。 今や、未来を創造する、世界を変えるといった議論はごく普通にみる風景となった。未来を構想する企業が日本に増えることは喜ばしいことだ。 ところで、最近の未来構想に関する論調で気になることがある。<b>未来構想においては主観こそが大事・重要という議論</b>である。 <b>「起こるであろう未来ではなく、起こし得る未来を構想せよ」「確定した未来などない、人間の意思・目的意識が世界を形成していく、未来は創られていくものだ」</b>云々。 人間中心主義(というのも大げさだと思うが)、バックキャスティング、想定外未来、フューチャーセッション・・・などがこの手の議論の方法論的ヴァリアントだ。 論旨に異存はない。未来「構想」というからには、人が構想するのは当然である。 <b>だが、「現状制約は一旦脇に置いて、ありたい未来・創りたい未来を議論し考えましょう」といった、未来構想ならぬ未来妄想。「自分主語で共感的な物語を紡ごう」「その物語を共感を通じて皆に広げていこう」といった共同主観的ナラティブなんとか。云々。こうなると最悪</b>である。 断言しておこう。無駄骨である。 頭の体操的・発想法的研修ならいざ知らず、実践においてこんな議論から、覚悟ある未来への行動が生まれることはない。 なぜか。 <b>現実のラディカルな理解なしに、クリティカルな問題意識は生まれない。</b> クリティカルな問題意識無しに、未来への覚悟・投機/投企は生まれない。 覚悟・投機/投企無しに、構想したナイーブな未来が実現することはない. ではどうするか。 本稿で詳述は出来ないが一つの方法は、<b>現実をキュビズムのような手つき</b>で解することだ。 <b>現実の中にある、様々な兆候。微かな変調。異常の痕跡。それらをエクストリームに未来に向かって拡大・延長・展開</b>してみること。するとどんな未来像が立ち現れるか。<b>極端で非現実的なSF未来</b>が浮かびあがるだろう。それでよい。<b>その未来像から再び現在を振り返ったとき、クリティカルな問題意識が刺激されオルタナティブへの思考が発動</b>する。 少しテクニカルな話をすると、エクストリームに拡大・延長・展開するとき、<b>剥き出しの人間の欲望・社会の欲望を補助線</b>にするとよい。そうして描かれた未来像は、<b>非現実的であっても妙に生々しくリアリティ</b>があるはずだ。 そして考える。 <b>もし未来がこうなるのだとしたら、我々はどうなるのだろうか。 この未来において、我々にはどんな可能性が開かれるだろうか。 逆に、未来がこうならないためには、何が必要だろうか。 我々はどんなオルタナティブ未来を望むか。</b>・・ この作業を繰り返してみる。繰り返した数だけオルタナティブ未来が浮かび上がる。 こうして考えたことがそのまま未来構想になるわけではない。 だが、そこから考えを地におろして、再び現実の諸条件、人々の欲望、自分達の欲望と照らして、オルタナティブ未来をよりリアルにイメージ出来るものへと慎重に画像修正する。 <b>退屈な現状の延長でも、空疎なアイデアでもない、リアルでクールな未来構想</b>へと近づいていることだろう。 未来構想が主観か客観かはどうでもいい。どっちでもいい。 大事なのはリアルのラディカルな理解からクリティカルな問題意識を駆動すること。 大袈裟に言えば、<b>現実とは</b>存在論的にも精神分析的にも、<b>汲み尽くすことのできない生成可能性の潜在</b>だ。 量子力学的な比喩も援用してパラグラフを続けよう。すべての未来がいまここにある。それらは確率論的に潜在している。次の瞬間確率1である状態へとあらゆる可能性の未来が集約される。と同時に再び可能性の潜在体として現前する。この現実≒確率論的未来潜在体に対して慣性の力は強力だが、その慣性に一瞬抗い僅かな変異をもたらす程度のエネルギーなら都合はつく。但し慣性圏を抜け出すには変異エネルギーを継続して供給しないといけない。その原理・原動力は欲望ポテンシャルである。 <b>リアルこそ、優れてスリリングなSF小説ネタの宝庫</b>であることを付言しておこう。 (文責:金光隆志)
専門性と創造性と教養と
<b>専門性は創造性発揮の障害になる</b>、と語られる。専門を突き詰めるほど視野狭窄に陥る、専門知識がバイアスになる、等など。 この傾向は半ば認めねばなるまい。専門性とは、ある認識のスキーマ(しかも多くの場合制度化されたスキーマ)において蓄積された知識と技術に精通・習熟し、それを縦横無尽・半ば無意識に操作できる状態を指す。つまりは<b>無意識に、ある認識のスキーマで物事が見えてしまう状態</b>になるわけだ。だから、そのスキーマの外でモノを見る・考えることに困難を伴う。かなり意識してスキーマの外で考えようと思っても、無意識の専門思考の方が勝って働く。だって無意識に働いてしまうのだから。 <b>そこで昨今は、広い教養が必要</b>、欧米では専門課程に入るまでに西洋的教養を徹底的に叩きこまれているが日本にはそれが欠けている、創造性の時代には専門性だけではなく広い教養が必要なのに、となっているわけだ。 教養が横断的知性の源になり得る、というのは正しいだろう。色々なことをつまみ食いしておくと、ある時ある事案で思いがけないフュージョンが起こらないとも限らない。 <b>けれども、クイズ王的つまみ食いや、最近巷にあふれている「社会人の為の〇〇」みたいな本ばかり読んで幅広い教養を身に着けよう、なんて戦略は最悪。</b>恐らくは茶飲み話にすら使い物にならないだろうな、と思う。 教養を「使い物になるか否か」という文脈で語るのも憚られはするけれど、<b>使い物になる教養</b>を身に着けようと思ったら、<b>相応の訓練、その分野での認識のスキーマを最低限度は獲得し、多少の専門書も読める、くらい</b>じゃないと。だって<b>問題は認識のスキーマなのだから。</b>色んな認識のスキーマでもって、一つのことがらを色んな切り口・眼鏡で見えるから創造性に繋がるわけで、「社会人の為の○○」読んだところでそんなもの身につきません。 よってもって「幅広い教養」を武器に創造性を発揮する、なんて戦略は、殆どの人に無理な相談なのです。 幅広い教養を否定しているのではない、むしろ教養を広め・深めていくことはとても楽しいことだし、人生を豊かにも、逞しくもしてくれる。だから若者たちには雑食でよいから色んなことに首を突っ込むことを推奨したい。<b>先ずは入門からなんてチマチマせず、最初からプロ級の仕事や技にも触れていって</b>欲しい。でもそれは奥深さの射程を測るため。一朝一夕に新たなスキーマを獲得できることはない。教養は<b>長い年月をかけて少しづつ育んで</b>いくもの。何かの手段としてではなく、それ自体を目的(と言って固すぎるなら趣味)として楽しみながら精神を滋養していくもの。さすればいつの日か、知のフュージョンが起こせるかもしれない。起こせないかもしれない。教養とはそういうものです。 <b>では差し迫った今、創造性はどうやって発揮すればいいのか? 実は専門性にこそ、そのヒントがあるとしたら?</b> 専門性とは、ある認識のスキーマへの習熟、無意識に働き得る認識スキーマのこと。分かり易くこれを色眼鏡と呼んでおこう。さて、仮にある分野でものすごく見通しが良くなる色眼鏡を手に入れているとしよう。それは、その分野の中だけでモノを考えるときにはバイアスのもとにもなり得るだろう。しかし。 <b>その色眼鏡をかけて、他の分野のことを見て見たら</b>どうなるだろうか?当然ながら他分野を見るための色眼鏡ではないから、<b>他分野に最適な色眼鏡とは違った景色が見える</b>はず。 ということは、そうです。これってまさに<b>創造的なモノの見方の出発点</b>ではなかったか? 以前コラムで異質ソリューションの威力というのを紹介した。実はこの<b>異質ソリューションに気づく・発見できる力の源泉・メカニズムの一つが、ある分野の専門性(色眼鏡)でもって他分野を見た時の思いがけない気づき</b>、なのです。 <b>創造性の勝利の戦略は明らかです。専門性を磨くこと。一つは仕事で。そして出来れば何か一つ、全然違う分野で趣味としてセミプロくらいの専門的教養、この二つで十分。</b> そして、その専門の認識スキーマ・色眼鏡・無意識の思考でもって、異分野を見てみる。その異分野でのモノの見方や技術の使い方からすれば非常識なことが見えるはず。非常識=不正解とは限らない。でもそれが正しいかどうかはどうでもいい。あなたに見えた異分野での非常識は、あなたの分野の色眼鏡で見えたモノなのだから、あなたの分野に適合・応用できる可能性は十分あるのです。 ここが重要なTake away。<b>中途半端な「幅広い教養」なんぞであなたの分野内部を見たところで、多分何も新しいモノは見えない・気づきがない。一方、自身の深い専門性で他分野を見たときに、その他分野から自分野に応用できるような、新たなパターン認識が生まれ得る。</b>これは優れて洗練されたアナロジー思考の一種だと言えるだろうが、これを話し出すとまた長くなるので、本コラムはこの辺にて。 (文責:金光隆志)
イノベーションとアート
イノベーションとアートは近親関係にある。 巷では、合理や論理では出てこない解、直観的・感性的な解を求めてアート的アプローチ、云々と言われているようだが、恐らく言っている当人が何のことだかわからず言っている。 消費について、論理ではなく快楽論者である私は、感性の判断を信じるものではあるが、この手の「アート」と「サイエンス」を対立に置いて論じる議論には与しない。 さておき、<b>アートは悉くイノベーション</b>である。 この点を了解するために、アートとは何かを簡単に考察しておこう。 乱暴に言って、<b>アートとは、「日常」「普通」「常識」へのチャレンジ・超克作業</b>である。 例えば。 <b>日常何気なく見過ごしているモノや風景を「異化」「現前化」して新たな意味や今まで感じてこなかった感覚を呼び覚ます</b>。マルセル・デュシャンの「toilet」、Chim↑Pomの渋谷の大ネズミで作ったピカチュウ、谷川俊太郎のいるかの詩、云々。ファインアートにおける「異化」ではシリアスなメッセージ性を持ったものが多いが、それが脱聖化されてポップになると、奇譚倶楽部の「コップのフチ子」「定礎」のような商品、あるいはピコ太郎の「パイナポーアポーペン」になる。 例えば、 作者や作品の唯一性、アウラ、それらを制度的に保証する評論、文壇、美術館といったものの虚構性を暴き出すアプロプリエーションやシユミレーショニズム。これらは言わば<b>非日常や特別ということを「異化」しつつ、逆説的に現代の日常を「現前化」</b>している。ある種の広告表現やハウスミュージックなど、サンプリングやリミックス手法を駆使して作られた作品の、全く空疎だが無意識のうちにハマるドラッグ性を思い起こせばよい。 例えば。 <b>規範や常識・良識と言われているものを「侵犯」「逸脱」し、抑圧されたエロス・タナトスの欲望を垣間見せる</b>作品。マルキド・サド、クロソウスキー、XX等々。それが脱聖化されポップになれば、アヴァンギャルドなアンダーグラウンドカルチャーになる。言うまでもなく消費シーンに現れるアヴァンギャルドは訓化されたアヴァンギャルドだ。 例えば。 <b>「日常」や「普通」を端的に超克した美・快。イデアや神の領域を目指すもの</b>。この系統は制度化・時代の制約を免れがたくはあるが、王立アカデミー系の芸術群、政治性を排して端的に色彩や形態の美を追求したアメリカ版モダニズム、パスティーシュを駆使したトランスアバンギャルド等々。私たちの審美的感覚はこれらのコードを介して内面化されているからして、美意識に訴える商品デザインはこれらのパスティーシュ、パスティーシュの連鎖として現れる。 さて。これらは悉く、「日常」「普通」を打ち破るもの。すなわちイノベーションである。 <b>アートをイノベーションに応用するとすれば、このパースペクティブにおいて</b>であろう。 そしてこれは、半ば方法論化が可能、つまり強力なイノベーション手法になり得るのだ。 方法論化されたアートなどアートたり得ない?そりゃそうです。ビジネスの話なので。 (文責:金光隆志)
異質ソリューションの威力
ヒット商品やサービスにはどんな特徴・パターンがあるのか。誰しも興味があるだろう。ヒットするかどうかには、ネットワーク作用に係わる偶然性の影響が大きい。だが<b>ヒットした結果の商品・サービスを分析すると、そこには興味深い特徴・パターン</b>が認められる。 提供価値における独自性や差別性がヒットの要件のように語られることが多い。 だがヒットの実際を、後付けの説明ではなく<b>発生論的に見てみると、提供価値サイドにおける“あっと驚く”新機軸を考えることから生まれたヒット商品・サービスというのは殆ど存在しない</b>。 実際には、提供価値サイドで見ると、昔から懸案だった大きなアンメットニーズや無意識に強いている妥協、あるいは“こんなことが出来たらいいのに”と誰しもが思っていたもの・思うであろうもの、である場合が圧倒的に多い。例外はエンタテインメントにおける偶発的流行かポストイットのような全くの偶然の効用発見かである。 要は提供価値においては、奇をてらった意外なイノベーションなどのヒット例は殆ど無く“王道の大きな課題解決”がヒット商品・サービスにおける共通要因と言ってよい。なお、余談だが、ここで意図する王道の課題とは消費者にとっての王道の課題のことだが、資源が不足するサプライヤーが自らの課題に対し苦肉の策で編み出した解決策が思いがけない効果を生んで大ヒット、という例も結構あることは付言しておこう。 さて、では“王道の大きな課題解決“がどのようになされているか。実はヒットにおいてはこの課題解決策が、<b>業界における従来の延長線にない、業界内の既存の様式や発想から逸脱した・異質な技術やソリューション</b>による場合が非常に多いのだ。しかも異質導入の結果、商品やサービス形態においても革新が起こり、「新しい形」でワクワクさせるものに仕上がっていることが多い。異質ソリューションの<b>サイドエフェクト</b>は他にも色々あるがここでは割愛する。 課題解決型ではないケース(エンタテインメント等)のヒットでも、価値サイドをいじくりまわして何か生まれたというのではなく、異質な技術や手段を導入した結果、意外な新たな価値や形が生まれて話題となってヒットとなった商品が多い。 要は、ヒット商品・サービスにおいては、提供価値よりも技術やソリューションにおいて業界の常識を逸脱しているケースが圧倒的に多いのだ。その結果として大きな提供価値や新たな提供価値に繋がっている。<b>先進技術・ソリューションではない</b>。その業界では今までになかった異質な技術・ソリューションである。 一番上等なのは、無意識の大きな妥協を異質ソリューションで解決することだ。さすがにそれは簡単ではないにせよ、せめて、<b>当て所もなく革命的な価値を探すことに労力を費やすくらいなら、王道の大きな課題に狙いを定め</b>よう。そこには無謀さがあってもいい。そして、その<b>解決には従来の業界常識を外れた手段</b>にまで発想が及ぶべく準備をしよう。セレンディピティの源泉は、解決したいという強烈な問題意識と限界への挑戦である。 (文責:金光隆志)
価格とコストと創造性と
<b>コストと値付けに関する深い議論をトンと聞かなくなった。特に新事業や新サービス</b>では殆ど聞かないのだ。 基本的にはマークアップ方式で、作るのにだいたいいくらかかるからこれだけマージン乗せて、というような感じであろうか。 <b>ターゲット価格を定めて、それを満たすべく仕様・デザイン・部品・工程などをギリギリと詰めて考えるというのはどうやら時代遅れか的外れ</b>になったかの様相だ。 売れるかどうかも解らない段階でスペックをいじっても仕方ない、先ずは<b>市場にβ版を投入して反応を見ながらリーンに改良</b>を加えていくべきだ、云々。正論である。 イノベーションの段階ではそんなことは考えない、いや考えるべきではない、それは<b>事業が大きくなってきてマスユーザーを対象にする段で</b>改めてしっかり考えるべきことだ。云々。これも正論である。 イノベーションやスタートアップの教科書には大概その手のことが書いてあるだろう。 <b>でもそのことでかえってクリエイティビティが下がっているかもしれないとしたら?</b> 実際創造性の教科書には逆のことが書いてある。 制約を加えた方がかえって創造性は高まるのだと。 市場の商品価値体系を元にシビアに要求価格を設定してみよう。直接競合がいなくても、いやいない時こそ。するとたちどころにトレードオフが発生するはずだ。この機能を入れたい・でも入れると他を削らなければいけない、とか、デザインはこうしたいけどそうすると生産効率が大幅に落ちる、とか。 このAかBかの選択をシビアに詰めるだけでも随分と商品やサービスが洗練されるだろう。そして<b>最も創造性が発揮されるのが、AもBも両方外せないときに浮かび上がる第三の道Cが考案されるとき</b>だ。AもBも満たされる場合もあればAもBも棄却する場合もあるがいずれにせよ第三の道である。 かつて、売上急落に直面したアパレル企業で、毎週このAかBか、いやCだ、の議論をして52週MDプロセスを刷新し、売り上げを急回復させた企業にお目にかかったことがある。 市場の要求価格水準に絶対に妥協しないことで、売れる確率が上がっただけでなく、思いがけないクリエイティブな解決策でむしろデザイン性もよくなってヒットする商品も誕生していた。 既存事業と新事業ではワケが違う、と考える向きもあろう。実際全てが同じではない。しかし、ビジネスである以上<b>価格とコストが最終審級の双璧</b>であり、価格とコストに向き合うことで<b>創造思考も戦略思考も一段と覚醒</b>するこは覚えておいてよいだろう。 (文責:金光隆志)
● おすすめコラム
モードとコードと消費と
随分と長い間コラムの更新を怠っていました。 心機一転、また徒然なるままに書いていこうかと思っている次第です。 再開第一弾は消費論。 過去にもいろいろと消費について論じてきましたが、チャットGPTやら生成AIがバブってきたいま、あらためて、人間が意味を考える意味を考えてみたい。ん? ということではじめましょう。さて。 大分前にはなりますが、【消費メカニクス3.0】という題で、コラムを書きました。 そこでは、<b>消費行動</b>は我々が思っているほどには自由な意思によるのではないこと、<b>構造的に規定されている</b>こと、データサイエンスが人の意思を思いのまま操作しつつあることなどを論じました。 今回は<b>【生成】</b>に関わる話をできればと思います。そのために、まずは消費メカニクス3.0で述べた【構造】の話を、文化の理論の古典を下敷きに再確認しておきましょう。 <b>人間の行動の殆どはコードに則っている</b>、あるいはコード化されています。コードというと勿体ぶって聞こえますが、要は例えば社会慣習とか流行とか自分の中での習慣化とか。<b>人間=コード・コード化する生き物</b>、とさえ言えるかもしれません。 なんでか。よくわかりません。 この、よくわからないという時点ですでに、人間が意味を考える意味が垣間見えるのですが、さておき。 人の行動を統制するコードにはあからさまなものもあれば気づいていない・無意識に作用しているものもあります。また、一つの行動は様々なコードが複雑に絡み合い影響を及ぼした結果、としてあります 例えばあなたが誰かに一目ぼれしたとしましょう。それは運命と呼びたいかもしれません。絶対普遍だと思うかもしれません。だけど多分違う。 あなたが現代人なら、19世紀のコードではなく20世紀や21世紀のコードだし、日本で暮らしてきたならアフリカのコードではなく日本のコード、あるいは、生まれてこのかたどういう人と出会ってきたのか、どんな集団に属してきたのか、などからもコード化されている。 自分自身、なんでその人に一目ぼれしたのかわからなくても相当適度にコードや広義の社会学習の堆積から決定されている、だろうと思われます。 つまり、<b>欲望はコード化されている、あるいはコードが欲望を喚起する。</b> 消費のメカニクス3.0の議論は、この<b>潜在するコードの複雑な影響をAIがパターン認識して中毒的・衝動的な反応(消費)が引き出されている、コードを侮るな</b>、ということでした。 そうすると人間の欲望・消費はもはやAIの思うがまま、人間が介在する余地はない、のだろうか。ほとんどそうなのかもしれない。そうなっていくのかもしれない。 しかし、実はひとつ、<b>絶対にAIが作り出せないもの</b>があります。何か。 それは、<b>コード自体</b>です。 AIには既存のコードを解読できても新しいコードを生成することは絶対出来ない。なぜか。 <b>コードは人間の社会活動、関係のネットワークによって生成されるから</b>です。コードは社会・関係のネットワークの中にしか存在しません。もっといえばコードとは関係のネットワークそのもの、です。 日々の社会活動や関係のネットワークから新しいコードのSeedが沢山生まれています。<b>あらゆる瞬間のあらゆる現場におけるあらゆる関係にSeedが宿る</b>、というとロマンティックすぎるでしょうか。でもきっとそうなのです。そうしたSeedの<b>ほとんどはそのとき限りで泡のごとく消えて</b>いきます。しかし極々一部のSeedは、先ずは局所的に繰り返され・模倣されはじめる。ですがこれはまだコード以前、いわばモードの段階です。モードも殆どがすぐに消滅します。そして<b>極々一部のモードだけ、改変されながらも局所から領域へと</b>模倣が広がる。トレンド段階です。トレンド以降、模倣がより大域へと広がっていく。ファッション(流言・流行)の段階です。ファッション段階までくれば、一定程度、コードとして機能し始めたと言えるでしょう。 では、どんなものが新しいモードとなり新しいファッションへと発展していくのか。 それはわかりません。わからないから生成なのです。 <b>既存コードの組み合わせや応用範疇</b>で生み出せるファッションはあります。大半のトレンドやファッションはこれ。<b>これらは生成ではなく再生産</b>と呼ぶべきもの。再生産型トレンドやファッションはそのうちAIでも生み出せるようになるでしょう。いや、フェイクニュースの大拡散なんかを見ているとすでに起こっていること、なのかもしれません。 でも、既存コードを逸脱した行動・言動・モノ等が、関係の中でどう体験されるか、あるいはどんな新しい関係を生み出すのか、既存コードから読み解くことは出来ません。繰り返しますが、もし読み解けるなら、それは新しいコードを生み出してはいません。<b>生成AIが作り出せるのは古いコードで読み解けるものだけ。つまり新しいコードは生成出来ない</b>のです。 さて、長々書いてきた割には、だからなに?という感じの話になってきてしまいました。 ここからインプリケーションのある話に繋げていくには、さらに長々と論じるべきことがありそうです。 再開第一弾はとりとめのない話になってしまいましたが、リハビリということでご容赦を。 (文責:金光隆志)
セレンディピティの可能性を高める
<b>新規事業の創出・成功をセレンディピティ(偶然の発見・気づき)にかける</b>、というのは中々出来ることではないだろう。経営陣にしてみれば投資家に許容されそうにない、と思うだろうし、しからば当然、事業開発担当にとっても経営陣から許容されそうにない、ということになる。 だが、<b>セレンディピティが事業創造・成功に果たしている役割</b>は、残念ながらというのも変だが、恐らくは<b>想像以上に大きい</b>だろう。InstagramもYoutubeもGrouponもPayPalもAirBnBもTwitterも、Appleも、ポストイットも、コカ・コーラも、じゃがりこも、等など、セレンディピティがなければ生まれていなかった。 <b>可能性の連鎖を描ききる</b>という前回の話(「事業創造とオプション創造」参照)は、<b>セレンディピティの潜在を出来るだけ顕在化</b>させておく試みでもある。また、描ききることが、描いていなかった真に<b>想定外な気づきへの可能性・感度を高める</b>ことに繋がる。 今回は、セレンディピティの可能性を高めるもう一つの方策、<b>モジュール化×バザール化</b>について少し解説を試みよう。 セレンディピティとは、思いがけない発見や出来事からの気付き、である。ではセレンディピティを起こす可能性を高めるにはどうすればいいか。思考実験をすれば簡単にわかる。仮にあなたが、<b>たった一つのことを、たった一人で、しかも情報を遮断</b>して、行っているとしよう。<b>セレンディピティが起こる可能性は?限りなくゼロ</b>であろう。ならばその逆、<b>色々なことを、色んな人・多くの人と、情報をやり取り</b>しながら、行ったとしたら?<b>偶然の出来事可能性は高まっていく</b>だろう。だが、過剰な複層化、過剰な情報、つまり<b>複雑性が過剰になってくると、発見や気付きの可能性は徐々に下がっていく</b>だろう。つまり量と確率がトレードオフになっていく。そこで、<b>中くらいのいい塩梅</b>を探るか、<b>トレードオフを解消</b>するか、どちらかによってセレンディピティの可能性を高められそうだと予想がつく。しかして<b>その方策、それがバザール化×モジュール化(複層化の方法がバザール化、複層化しつつ複雑性をコントロールする方法がモジュール化)</b>である。バザール化はオープンソースの開発方式からのアナロジー、モジュール化は製品開発や生産・生産管理の方式からのアナロジーなのでそちらに不案内な人は一度見てみるとよい。<b>バザール化</b>は、簡単に言うと事業開発を<b>社内的社外的に多様化・多重化かつ可能な限りでオープン化</b>していくことに相当する。多様化は、一つの大きな事業テーマのものとで、商品特性・サービスタイプ・事業モデル・顧客層などを多様に探査していくことを指し、多重化は、例えば一つのサービスタイプにおいて検討する担当・外部パートナー等を多重にしておくことを指す。オープン化は、狭義のオープン開発という意味ではなく、関係ありそうな人・なさそうな人を問わず可能な範囲で内容やコミュニケーションをオープンにしていくことを指す。<b>バザール化によって瞬く間にアプローチや関係ネットワークが成長・多様化し、想定外の展開や情報のインベントリが生成されていく</b>だろう。一方<b>モジュール化</b>は、この多様化の動き・流れを<b>カオスでもなく統制でもないレベル・中くらいの複雑さ、いわばセミラティス構造に落ち着かせる</b>働きをする。セミラティス構造の特性については都市論に触れたことがある人にはお馴染みだろう。詳しくは是非そちらを参照して頂きたい。なぜ人工都市が死んでいくのか、自然都市が有機的な発展を続けるのか、大変示唆深いだろう。さて、セミラティスを構成する<b>モジュールの分け方・組み方</b>には色々なやり方がある。事業モデル単位で分けるとか、機能単位で分けるとか、<b>切り口の一律性・一貫性・整合性に拘る必要はない。むしろ、硬直的にならないようにセミラティスで相互に重なり・繋がる線を担保していく</b>ことが大事である。セミラティスに構造した各モジュールは、成長・多様化を損なうことなく様々な茎を伸ばし・連結していきながら、自然に進化していく。一方で<b>それぞれのモジュールは事業開発エンジン・アセットとなっていく</b>。アセットとなった<b>モジュールは、切り離して全く別の事業創造テーマにあてていく、といったことも可能に</b>なっていく。これは前回話した<b>「オプションの創造」</b>に関する最上級の打ち手でもある。 バザール化によって<b>人々や出来事のネットワークを多層・多茎化し、拡張・連結・切断を繰り返しながら想定外の発展を促進</b>する。一方でモジュール化によって<b>その発展による複雑性をカオスと統制の間の絶え間ないゆらぎに緩やかに組織</b>する。セレンディピティの起こる可能性は飛躍的に高まるだろう。セレンディピティと言うと、偶然待ちの消極的な姿勢・自らではどうすることもできない運、と捉えられがち。だがその考えでは残念ながらセレンディピティは訪れないしセレンディピティが訪れないとしたらイノベーションを起こせる可能性はとても低いだろう。本日論じたことは<b>従前の組織編成・運営システムとは180度違う</b>。<b>効率・持続成長のマネジメントと変革のマネジメントが180度違うのは当たり前</b>なのだが、そのことにちゃんと向き合える企業はまだまだ少ない。逆に言えばチャンスでありまだまだ可能性はあるということだ。全社を180度違うマネジメントスタイルに変えるという話ではない。そんなことをしたら既存事業に支障をきたす。かといって1%ですむ話でもない。<b>10%程度のリソースをバザール化×モジュール化の組成・運営に振り向け</b>ていけば、事業創造にぐっと近づくことができるだろう。 (文責:金光 隆志)
事業創造とオプション創造
事業創造とは何か。 当たり前すぎて考える気にもならない?確かに。事業創造とは事業を創ること。では同義反復であって何ら新しい発見はない。しかし、この問いへの切り込み方・回答次第で<b>事業創造の巧拙が決まる</b>のだとしたら?ということで今回は事業創造とは何かの見立てを更新してみよう。 <b>事業創造とはオプションの創造であり権利の創造である。</b> どういうことか。 一般的に、事業創造には不確実性が伴う。<b>不確実性には2種類ある。</b>何が起こるか想像もつかない・思いも寄らないことがあり得る、という意味の不確実性。そしてもう一つ、色んなことが派生的・連鎖的に起こり得るのだが、そのどれがどこまで起こるのかわからない、という意味の不確実性。<b>事業創造においてこの2つの不確実性の意味は深く考える価値がある。</b>なお本稿では詳述しないが、前者は弊社が提唱する適応変異(アダプション)の創造手法に、後者は生態系多様性の創造手法に関係するだろう。 さて、パラフレーズを続けよう。この<b>不確実性の創造こそが事業創造</b>なのだ、というと驚くだろうか驚かないだろうか。事業創造の常識的なイメージでは、ある狙った事業構想があり、そのリターンを想定し、それを実現していくことが事業創造であろう。<b>日本の大企業の事業創造は殆どここで躓く。</b>リターンを定量的に想定出来なかったり、想定してもそれこそ不確実であったりするわけで、ここで色んな対処のバリエーションが現れる。大別すると3つだろう。①不確実だからリーンに小さくスタートして検証しながら進めよう②革新的なアイデアを定量評価しようとすること自体間違っているし革新的であるかどうかが大事③わからないから様子を見よう。①②③のどれも、それ自体が間違っているわけではないが前提が間違っているとそのあとの論理も全部間違いとなる。前提とは繰り返すが、事業創造とは不確実性の創造であり、不確実性には2種類ある、ということ。 まだ何が言いたいかピンとこないだろう。ここで、<b>不確実性を可能性と読み替えてみる</b>とどうか。「可能性の創造こそが事業創造であり、可能性には2種類即ち想定外と想定連鎖の枝分かれの2種類がある。」どうだろう。ちょっと見え方が変わってきただろうか。ところでまたしても殆どの大企業の事業創造の取組みにおいて、可能性の連鎖の想定は全くといっていいほど行っていない。「こういう風になるだろう、でも不確実で、アップサイドこれくらい・ダウンサイドこれくらいの振れ幅」みたいなことをやっているケースはある。やらないより遥かによいが、ここで言っているのはそういうことではない。想定の実現可能性のことではない。<b>所謂サイドエフェクトや、風が吹けば桶屋的な関係性の連鎖がもたらす可能性のユニバース(と宇宙の果て的な想定外の発見・出来事)</b>のことだ。やってみればわかるが、サイドエフェクトは具体的なアクションやイベントを考えれば考えるほどどんどん広がり、それこそ想定外だった可能性に気づいていくことだろう。そして、<b>事業創造とはこれら可能性のオプションの創造、起こし得る権利の創造</b>、と考えるべき行為なのだ。 事業創造において常識的考え方で「これをやればこれくらいのリターンが期待できる」と算段しそれが十分魅力的なとき、十中八九はその見通しは誤っている。だから、さっき①②③どれも間違いと言ったが、こういう起案がされたとき、③の「よくわからないから様子見」という態度は皮肉にも実は合理的だとも言えるわけだ。念の為捕捉しておくと、スモールビジネスを立ち上げるのであれば、この限りではない。スモールで十分なら色々やりようはある。例えば特定のユーザーを想定し、そのユーザーを徹底的に満足させる商品やサービスを作れば、似たようなユーザー層には確実に波及し受容されていく。だがまぁそれ以上でもそれ以下でもない。 可能性の連鎖は今起こるわけではないし今の投資だけで起こせるものでもない。どこかで大きな分岐がある。だが<b>可能性が低くても起こり得る・起こし得る未来。それがオプションである。そして事業創造の価値は殆どこのオプションの価値に依存する。</b>オプション価値の小さい事業は控えめに言って魅力は高くない。また、ほぼ同義なのだが、事業創造において確度の高い未来の価値は小さい。さっきの繰り返しになるが、逆に言えばこれを大きいと見積もっているならその見立ては殆ど誤りだろうということだ。直感的に了解するなら本当に確度が高いのなら皆が同じところを狙うから価値は毀損される、と考えてみればよいだろう。 可能性連鎖のオプションをどう考案しどう評価するかとなると少々テクニカルな習熟を要する。評価についてはまだ限界もある。また、もう一つの可能性である想定外をどう「想定」するかも、可能性連鎖の想定を前提とするのでここでの説明には収まらない。だが、これだけは押さえておくと良い。<b>オプション=権利を買う・押さえるという考えがないと、ロクな新規事業投資は行えない。</b>オプションを買う気がないならはじめから新規事業など考えないほうがよいとさえ言える。思うに<b>日米のここ20年の決定的な差</b>はここにあるんじゃなかろうか。先ずは<b>定性でも良いから可能性の連鎖を描ききってみる</b>とよい。事業構想が当初想定とまるで違うものへと変貌することだろう。変貌しない事業案はボツにするのが懸命だ。とまで言うと言い過ぎか。でもそれくらいでないと大企業なんて変わらないですからね。 (文責:金光 隆志)
創造性とコンテクスト
すべてはコンテクストである。とひとまず言ってみよう。 実際<b>どんなモノもコトも、時間的空間的コンテクスト無しには何ら意味を持たない</b>。逆にコンテクスト次第でモノやコトはいかようにでも物事として意味を帯びるだろう。コンテクストと言うとわかりにくいかもしれないが、要は<b>どんなモノもコトもそれ自体には意味はなく、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて正負様々な意味を帯びる</b>、ということだ。 あたりまえ?そう、当たり前です。当たり前なんだけど、<b>ここに「クリエイティブ」の全て</b>のヒントがあるとしたら? その点を了解するために、クリエイティブとはなにかをちょっと考えてみよう。 <b>あるモノやコトを見たとき、それがクリエイティブかどうかはどう見分けられるか。</b> 革新的かどうか?じゃあ革新的ってどう判断する?ということで答えになってない。 今までにないものかどうか?ちょっとはマシな答えだけど、じゃあ例えばそのへんにある紙をグシャっと適当に丸めたら今までに無い形なはずだけどこれはクリエイティブ?いやそれ意味ないじゃん、という声が聞こえてきそうですが、そう。「意味」が無いと意味ありません。笑。では意味はどう生まれるか。これはさっき述べたとおり、他のモノやコトとの関係の網に入ることで初めて意味が生じるわけです。どうでしょう。<b>あるモノやコトがクリエイティブかどうかはコンテクストと決定的に関係</b>がありそうですよね。でもまだちょっと抽象的でピンとこないかもしれない。そこでもう少し具体的な補助線を引いてみていきましょう。 補助線その1。 あなたは<b>和室のエアコンに違和感</b>を感じたことは無いだろうか。 畳、襖、障子、床の間、欄間、長押、あるいは掛け軸や陶器、茶具などの調度品、障子から漏れ来る薄明かりの織りなす陰影・・質素で侘びた空間、時間の経過による傷み・寂れ、それらこそが<b>日本的な枯れや幽玄の美を構成</b>している。で、そこに<b>近代的で機能優先的</b>で、どうだと言わんばかりに存在感を主張するエアコン本体、不細工な配管シールド。合わない。「真」「草」「行」などいずれのスタイルにおいても、<b>絶望的に合わない。</b>もしも<b>違和感を感じないとしたら</b>、モダン化した和室を見ているのか、あるいは<b>見慣れ過ぎて当たり前の風景として見逃している</b>かでしょう。ということでどうでしょう。<b>コンテクストを見ることで今までに無いエアコンを考えるヒント</b>、見えてきそうではないですか?これが<b>所謂アンメットニーズとか無意識の妥協の発見</b>、ってやつの源泉・本質です。 補助線その2。 <b>マルセル・デュシャンの「泉」</b>はご存知だろうか。 磁器製の小便器に署名をしたもの、それが「泉」というアート作品です。ところで今さりげなくアート作品と言いましたが、果たして<b>何がある作品(モノ)をアートたらしめるのだろうか。</b>以前「イノベーションとアート」という当コラムの論考でアートとは何かの試論・素描はしましたが、ここでは違う観点で、人々にアートだと認められるとはどういうことか、を見てみると、<b>美術館・ギャラリー・コレクション・キュレーション・オークション・富裕層。これらの連関がシステムとしてアートを構成しているのであり、システムに組み込まれたものがアートとなる</b>わけです。<b>システムをコンテクストと置き換え</b>てみよう。<b>「泉」はこの「隠された」事実、アート業界という欺瞞(は言い過ぎか)のコンテクスト、に2重の揺さぶり</b>をかけています。第一に、このコンテクストに組み込まれ・飾られたものがアートであるという事実に「小便器の展示」という<b>異化作用</b>によって気付かせる・明るみに出す(現前化)ことで。そして第二に、実はこの作品は、デュシャン自身が委員長を務める展示会の実行委員会から出品を断られているのだが、それに対し、委員長辞任で不服を表明することで、既存の価値を揺さぶる革命こそがアートではないのか(異化)、だがかといってでは既存の価値を逸脱すれば何でもアートなのか・その線引は・・という<b>決定不能性</b>を明るみにだすことで。 長くなりましたが、まぁ、あるものをあるものたらしめているのはコンテクストであって、そのコンテクストは往々にして暗黙化しているが実は恣意的なものなのであって、従ってオルタナティブの可能性が常にあること。これが<b>所謂常識や無意識のバイアスへの気付き</b>、ってやつの源泉・本質ですね。 補助線その3。 あなたは<b>子供のらくがきがプリントされた、他に何の変哲もない白いTシャツを売る</b>自信はあるだろうか。まぁ何だって売れなくはないだろうが、そういう話ではありません。 例えば。 この子供のらくがきは実は、アフリカの難民や超貧困層の子どもたちの手によるもの。域内食糧難の大きな要因の一つは先進国への牧畜用食料輸出であること、限られた優良な耕作地や地下資源鉱脈は北側諸国・企業に専有され、原住民は疎外されていること。即ち、南の貧困はリアルに北の贅沢とリンクしていること。そしてそのような経済問題の隠蔽を告発し、介入すべく有志のアーティストが立ち上がり、アフリカ農園労働者の美術制作を支援するアートサークルプロジェクトが立ち上がっていること。その一環で、子どもたちにも絵画の機会を与え、歓びを生み出していること。そしてこのT-シャツは、当プロジェクトとのコラボレーションで生み出されていること。云々。 こうした<b>コンテクストがあると、この商品の意味、この商品を買う意味、着る意味、語る意味、などが大きく変容</b>してくるでしょう。これは本質的には価値の創造なのだが、まぁ<b>今どきの言い方でいえば、これがエモいストーリー</b>ってやつになるでしょうか。 補助線その1は「コンテクストと調和」、補助線その2は「コンテクストの前景化・からの異化」、補助線その3は「コンテクストの創造」です。補助線1と2は「既存コンテクストの理解」を前提とした言わばコインの裏表のような関係であることを付言しておきましょう。クリエイティブとはこのどれかを達成しているものです。 <b>クリエイティブの秘訣。それはコンテクスト(モノ・コトの関係の網)への眼差しであり、コンテクストの発見・破壊・創造</b>、というわけです。 (文責:金光 隆志)
欲望の探求⑤ -世界観アーキテクチャの中毒消費-
<b>意味のイノベーション、人を動かす体験ストーリー、云々。</b> 産業や生活がテクノロジーによって変革・更新されていき、テクノロジーこそが世界の問題を解決していくという物語・神話が全面化していく中で、大事なのは技術じゃない・問題解決じゃない、意味やストーリーこそ大事なのだという物語が語られる。 これを文系の最後の悪あがきと揶揄する向きもある。が、まあそうでもない。 実際、<b>人が物語によって世界を意味づけし、それによって価値や行動や規範が規定されていることは、有史以来の人間社会成立(ホモ・サピエンスとしての)の条件</b>なのだ。 <b>現在は「テクノロジーが世界を変える・救う」という物語が支配的</b>、というわけで残念ながら文系諸氏の悪あがきは見事に自らの言説に裏切られる、という憂き目を見るわけだが。 <b>個々の商品において新しい意味やストーリーを考える(意味やストーリーから考える、も含む)ことは否定はしないが、それだけでは大して見返りはない</b>だろう。特に、人を動かす「英雄譚」のストーリーモデル云々、とか、イノベーションやマーケティングのハウツー本で書かれているレベルのこと(ドラマティックな物語展開のパターンはこれ!みたいな)を考えても全くの無駄なのでやめておこう。日常・変化・困難・協力者(商品)・克服・成長・・とか、子供でも考えるような物語構造の一番単純な定石ではあるが、自分の消費を思い返せばいい。そんなもので心動かされて何かを買ったこと、あります?? まぁディスるだけじゃなく一応ちゃんと言っておくと、物語について商品やサービスへのマーケティング応用を考えたいのならば、筋の展開の構造のような「形態」「機能」や「シークエンス」よりも、人物や出来事の特性や気分・ある行動への動機・場の雰囲気・状況などを伝える「指標」や語りの「パースペクティブ」のことをしっかり考えてみたほうが示唆深い場合が圧倒的に多いだろう。 商品を使っているシーンやエクスペリエンスをプロット・表現し想起させる、云々というのも殆ど無駄。商品開発においてシーンやエクスペリエンスから発想することを否定しているのではない(大して肯定もしないが)。新規性の高い商品の使用説明としてちゃんと伝達することを否定しているのではない。そうではなく、ストーリーマーケティングやらコンテクストマーケティングやらと称して「エモい」エクスペリエンスストーリーを考えよう云々、がまぁ殆どの場合無駄だということ。マーケティングの段に至ってエモいエクスペリエンスを捻り出さなければいけない商品など、はなからエモい魅力はないと思った方がよい。 さて、アイロニーはこの辺にしておこう。やっぱり人々にとって意味のある生産的なことを言いたいですからね。ということで、<b>意味のイノベーションや体験・ストーリーよりもはるかに強力なビジネスモデル原型</b>を少しご紹介しておこう。 人をときめかせる、ワクワクさせる、これから(未知・未来)を期待させる、あこがれさせる等などの<b>「世界観」をもとに、ビジネスアーキテクチャを形成・生成し、そのアーキテクチャをもとに、世界観のパーツや個々のストーリーとしての各種商品やサービスをマルチプラットフォーム・マルチビークルに次々と展開する。</b>これである。 <b>人々の欲望を駆動するのは、第一義的には、個々のストーリーではなく、「世界観」である。そして、「世界観」がベースにあると物語はいくらでもヴァリアントを生成可能なのだ。</b>そして世界観アーキテクチャがハマれば必ず中毒消費に至る。 エンタテインメントの世界を想像すればわかりやすいだろう。ディズニーワールド、マーベルユニバース、ラノベジャンル、AKBフォーマット、K-POPフォーマット、ポケモン、直美・・。<b>基盤となる世界観のもと様々な商品・ストーリーヴァリアントが展開されると同時に、それぞれのヴァリアントがさらに、派生商品/ヴァリアントを生成</b>している。強引に単純化した<b>例を示そう。</b>「気品、美しさ、優しさ、行動力、勇敢、困難の克服、変身、魔法的力、愛の成就」といった特徴を備える<b>ディズニープリンセス世界観。</b>その世界観のもと、白雪姫、シンデレラ、アリエル、ベル、ジャスミン・・といった様々な<b>ストーリー/キャラクターヴァリアント</b>が創られる。そして<b>各ヴァリアントから</b>はアニメ、実写、キャラ商品、テーマソング、テーマパークアトラクション・・といった<b>派生商品/ヴァリアント</b>が生まれる。<b>これらの生成を支えるアーキテクチャ</b>は、映像から商品やパークまでの<b>連鎖したコンテンツビークル・プラットフォーム</b>(ディズニーエコシステムと呼ばれる)はもとより、社会が求める女性像のR&D(キャラクターの性質は時代とともに少しづつ変容させている)、世界中の文化や物語IPのリサーチ、ニューロサイエンスに基づくシーンと情動のパターンDB、最先端のCG・VFXテクノロジープラットフォーム、新たな体験を生む五感を中心とした先端テクノロジー・サイエンスのリサーチネットワーク、ハリウッド内はもとよりグローバルに広がる映像制作ネットワーク・・といった<b>SECT(Science Technology Culture Edit/Produce)インフラストラクチャ</b>から構成される・・云々。 ところで<b>「世界観」消費のミソは、世界観そのものを直接消費することは出来ない、ということだ。</b>世界観を楽しむ・熱狂する・共感する・同化する・納得する・感受するには、世界観のパーツ・化身・シミュレーションたる個々の商品・キャラクター・物語を消費するしかない。だが、それは決して世界観そのものではない。だから、世界観と同化するには、次々に出てくる商品やストーリーを世界観の一部・影・鏡像・シミュレーションとして次々に消費するしかないのだ。かくして<b>「世界観」に快情動を感じた人は、反復を求めてずっとその世界観の化身・仮身を追い求めることとなる。</b> そして、<b>世界観に惹きつけられた消費者自らを、個々の商品や物語生成に巻き込む、創作に参加させることで、世界観アーキテクチャのモデルは一つの完成形に至る</b>だろう。<b>世界観に同化したいというナルシスの欲望が擬似的に満たされる</b>状態。完全に同化できてしまってはいけない、ときには「本物」の豪速球で突き放さなければいけない、のだがまぁその話は置いておこう。ともかく。ここまでくれば完全にハマった状態である。実際に創作に参加させるにせよ参加した気にさせるにせよ、<b>そこに莫大なマネタイズの機会が発生</b>するだろう。エンタメで言えば、二次創作の隆盛で一次創作の消費を拡大するのか二次創作自体から収益を得るか、みたいな話ではある。それだけじゃない、それだけだと浅いが、まぁこれも置いておこう。 さて、エンタテインメントの喩えはわかるが、他の実用商品でも同じことが言えるのか? もちろんYes。<b>ジョブズが率いたころのAppleに陶酔しCreativeを信奉した人々、GoogleのMoon shotに憧れ・共感しハッカソンなどに参加する人々、IKEAのLOHAS的・北欧的感性へのDIY的商品体験による同化、昨今の中国D2Cユニコーンにおけるコアファンの熱狂的参加、米国DNVBにおける理念や世界観への共感、等など。</b>すべて「世界観」による欲望の駆動と、欲望を個々の消費やコミュニケーションで解消するための「アーキテクチャ」がある。アーキテクチャの全体が世界観の表現でもあり、個々の商品やコミュニケーションが物語のヴァリアントとして世界観を部分表象し、世界観への憧れ・興奮・共感・同化・・を部分的に昇華・消化させる。 <b>世界観は人々を瞬間的・無意識的・情動的に惹きつける。だが世界観自体「これが世界観です」というふうには目に見えない、言語化しようにもいわく言い難い。だから強力</b>なのだ。では世界観やアーキテクチャはどうやって作ればいいか。簡単に補助線を付しておこう。 欲望の原理的理解、現代のマクロな世相や言説の背後にある集団的欲望や不安及びその源泉の理解、個人や集団の欲望を駆動する世界観の原型となる各種文化の様式・パターンやそこで作用するコードのカタログ・現代の脱聖化した各種消費文化の背後にある歴史的系譜の考察、世界観構築・表現や個別商品・物語生成に援用可能な技術プラットフォーム・サイエンスの考察、コアファン生成のコミュニケーションモデル設計、メディア・ビークルプラットフォームミックス設計、これらを統合するSECT連携/スタジオ型ビジネスモデル、である。世界観を代理表象するための物語素・神話素や指標に相当する要素・パーツをデータベース化しアーキテクチャに仕込んだり、それら要素の最適組み合わせをイメージ生成・テクスト生成するデータサイエンスやニューロサイエンステクノロジーを折り込むことが出来れば更に強力な世界観アーキテクチャ型ビジネスモデルを創ることができるだろう。 <b>世界観アーキテクチャの消費</b>は目新しいものでは無い。にもかかわらず、エンタテインメント業界の先端を除けば殆どの人はそれを<b>ビジネスモデルとして了解</b>していない。文系の悪あがきの可能性の中心はここにこそあるのだが、エンタテインメント業界以外のビジネス現場がいかに人間や文化を原理的本質的に理解することを怠っているかの査証、とまで言うと言い過ぎだろうか。ところで実は世界観アーキテクチャの中毒消費はデジタルと相性がよい。<b>デジタル化が全面化し、With/After covid-19の生活様式がいよいよ不可逆となっていく気配の中、世界観アーキテクチャの勝者は世界の勝者となっていく</b>だろう。 (文責:金光 隆志)
お金はやっぱり浪費とお金持ちがお好き!? -ポスト・エシカル消費を考察するための準備・補助線としての試論(3)-
前回、前々回の話を、マクロな視点から、更に論理展開してみよう。 本質をえぐり出すため、生産財投資や税や政府セクターや、話が見えにくくなることは乱暴なまでに省略し、議論の単純化を行っている点、ご了承願いたい。 さて。 <b>経済の発展とは、究極的には、未来への信頼・信用</b>なはずである。 どういうことか。 <b>市場経済×資本経済における生産と消費には絶対的な矛盾</b>がある。 労働契約で支払われた賃金以上の商品価値を生産しても、賃金以上の消費は出来ない。ということは、<b>一つの経済系の中に閉じている限りは、利潤なんて生まれない。</b>売れない商品の在庫が残って終わり。なのだ。 <b>解決策は「閉じない」以外にはありえない。つまり「外」から買ってくれる人の存在だ。</b>資本は常に「外」を必要とする、ということを了解しておくとよい。 で、これ実は、前々回のたとえ話で言った「なぜかお金を持っている人」のことである。 何故かお金を持っている人とは例えば、なぜか過去からの蓄積がある貴族的な人。あるいは例えば日本人が作ったものを買ってくれる外国人。とか。 でもこれら<b>「空間的な外」には当然限界がある。</b>貴族は過去の蓄積を食い尽くしたらアウト。外国人消費を取り込むとは要するに経済圏をどんどん海外まで広げて「内」に取り込んでいくことだが、取り込み尽くして地球規模での「内」なる経済圏が完成したら終わり。もはやその外からの消費は無い。 <b>そこで、究極の解決策「時間的な外」である。つまり未来の消費の先取り。</b>経済が発展することを前提に、先に支払う。例えば、生産性が上がっていくことを前提に賃金を高くする。そうすると今の消費力があがる。あるいは、人口が増える。そうすると消費力があがる。 さて、時間的な外にだっていずれ限界はあるはずだが<b>「発展する」と信じて金融が資金を提供する限りは、限界は見かけ上は先送りされ続ける。</b>お金を刷り続けることになる。すると最初はインフレが起こる。でも一定範囲のインフレなら、過去の借金棒引き効果があるから、ある程度は辻褄が合っていく。<b>インフレ経済下では投資をしろ、と言われる所以だ。インフレでしばらくは消費も刺激されるから、投資によるさらなる生産力の拡大は、借金棒引き効果とも相まって見返りのあるものとなるだろう。</b> さて、だが、ここでもし、<b>「欲しいものもう別にないわ」、となったら何が起こるか。</b>「買えるものがない」のじゃなくて、「買いたいものがない」状態。これが実は<b>人類が歴史上初めて迎えつつある現代の先進国市場の姿、なのかもしれない。</b>だから、まだ何がこれから起こるのか、よくわからない。 わからないけど、一つのシナリオは今の日本が見せているかもしれない。 買わなきゃ経済は縮んでいきます。急に縮んだら失業者が増えます。だから緩やかに縮むように、所得が調整されます。デフレです。デフレだと心理的にも財布の紐は少し固くなっていく。買ってほしいから商品の価格も下がってくるでしょう。でもさして欲しくないとそんなにも買わない。するとデフレがさらに進行する。<b>デフレスパイラル。</b> 日本の実態は更に複雑で、人口減少と急速な高齢化という問題も抱えている。労働力が足りないから外国人労働者を大量に受け入れている。でも単純労働が殆どだから大した消費力の向上には繋がらない。肝心の日本人の消費マインドは一向に上がらない。若者だけじゃない。高齢者なんてホントにそんなに今更欲しい物なんかない。かくして金利をマイナスにしてもデフレは止まらない。 <b>こうなると、もう未来への信頼・信用を取り戻せるのか、なかなか難しそうだ。</b> 究極的にはやっぱり前回や前々回の話の通り、余分なものでも買ってくれる金持ちと、不要だけど欲望を刺激する商品を作れる人、この人達が経済を活性化させて、結果、世の中を進化させる医療やら情報テクノロジーやらにも投資のお金が回せる世の中にしていく、というのを無理にでも目指すしか、ないのかそうではないのか。 (文責:金光隆志)
オルタナティブ未来構想
ここ1,2年、未来構想について見聞きすることが増えてきた。 個人的には6,7年前ごろからこの種のテーマで検討依頼を受けることが増えていたが、当時は、10年・20年先を議論する日本企業は稀な存在だった。 今や、未来を創造する、世界を変えるといった議論はごく普通にみる風景となった。未来を構想する企業が日本に増えることは喜ばしいことだ。 ところで、最近の未来構想に関する論調で気になることがある。<b>未来構想においては主観こそが大事・重要という議論</b>である。 <b>「起こるであろう未来ではなく、起こし得る未来を構想せよ」「確定した未来などない、人間の意思・目的意識が世界を形成していく、未来は創られていくものだ」</b>云々。 人間中心主義(というのも大げさだと思うが)、バックキャスティング、想定外未来、フューチャーセッション・・・などがこの手の議論の方法論的ヴァリアントだ。 論旨に異存はない。未来「構想」というからには、人が構想するのは当然である。 <b>だが、「現状制約は一旦脇に置いて、ありたい未来・創りたい未来を議論し考えましょう」といった、未来構想ならぬ未来妄想。「自分主語で共感的な物語を紡ごう」「その物語を共感を通じて皆に広げていこう」といった共同主観的ナラティブなんとか。云々。こうなると最悪</b>である。 断言しておこう。無駄骨である。 頭の体操的・発想法的研修ならいざ知らず、実践においてこんな議論から、覚悟ある未来への行動が生まれることはない。 なぜか。 <b>現実のラディカルな理解なしに、クリティカルな問題意識は生まれない。</b> クリティカルな問題意識無しに、未来への覚悟・投機/投企は生まれない。 覚悟・投機/投企無しに、構想したナイーブな未来が実現することはない. ではどうするか。 本稿で詳述は出来ないが一つの方法は、<b>現実をキュビズムのような手つき</b>で解することだ。 <b>現実の中にある、様々な兆候。微かな変調。異常の痕跡。それらをエクストリームに未来に向かって拡大・延長・展開</b>してみること。するとどんな未来像が立ち現れるか。<b>極端で非現実的なSF未来</b>が浮かびあがるだろう。それでよい。<b>その未来像から再び現在を振り返ったとき、クリティカルな問題意識が刺激されオルタナティブへの思考が発動</b>する。 少しテクニカルな話をすると、エクストリームに拡大・延長・展開するとき、<b>剥き出しの人間の欲望・社会の欲望を補助線</b>にするとよい。そうして描かれた未来像は、<b>非現実的であっても妙に生々しくリアリティ</b>があるはずだ。 そして考える。 <b>もし未来がこうなるのだとしたら、我々はどうなるのだろうか。 この未来において、我々にはどんな可能性が開かれるだろうか。 逆に、未来がこうならないためには、何が必要だろうか。 我々はどんなオルタナティブ未来を望むか。</b>・・ この作業を繰り返してみる。繰り返した数だけオルタナティブ未来が浮かび上がる。 こうして考えたことがそのまま未来構想になるわけではない。 だが、そこから考えを地におろして、再び現実の諸条件、人々の欲望、自分達の欲望と照らして、オルタナティブ未来をよりリアルにイメージ出来るものへと慎重に画像修正する。 <b>退屈な現状の延長でも、空疎なアイデアでもない、リアルでクールな未来構想</b>へと近づいていることだろう。 未来構想が主観か客観かはどうでもいい。どっちでもいい。 大事なのはリアルのラディカルな理解からクリティカルな問題意識を駆動すること。 大袈裟に言えば、<b>現実とは</b>存在論的にも精神分析的にも、<b>汲み尽くすことのできない生成可能性の潜在</b>だ。 量子力学的な比喩も援用してパラグラフを続けよう。すべての未来がいまここにある。それらは確率論的に潜在している。次の瞬間確率1である状態へとあらゆる可能性の未来が集約される。と同時に再び可能性の潜在体として現前する。この現実≒確率論的未来潜在体に対して慣性の力は強力だが、その慣性に一瞬抗い僅かな変異をもたらす程度のエネルギーなら都合はつく。但し慣性圏を抜け出すには変異エネルギーを継続して供給しないといけない。その原理・原動力は欲望ポテンシャルである。 <b>リアルこそ、優れてスリリングなSF小説ネタの宝庫</b>であることを付言しておこう。 (文責:金光隆志)
専門性と創造性と教養と
<b>専門性は創造性発揮の障害になる</b>、と語られる。専門を突き詰めるほど視野狭窄に陥る、専門知識がバイアスになる、等など。 この傾向は半ば認めねばなるまい。専門性とは、ある認識のスキーマ(しかも多くの場合制度化されたスキーマ)において蓄積された知識と技術に精通・習熟し、それを縦横無尽・半ば無意識に操作できる状態を指す。つまりは<b>無意識に、ある認識のスキーマで物事が見えてしまう状態</b>になるわけだ。だから、そのスキーマの外でモノを見る・考えることに困難を伴う。かなり意識してスキーマの外で考えようと思っても、無意識の専門思考の方が勝って働く。だって無意識に働いてしまうのだから。 <b>そこで昨今は、広い教養が必要</b>、欧米では専門課程に入るまでに西洋的教養を徹底的に叩きこまれているが日本にはそれが欠けている、創造性の時代には専門性だけではなく広い教養が必要なのに、となっているわけだ。 教養が横断的知性の源になり得る、というのは正しいだろう。色々なことをつまみ食いしておくと、ある時ある事案で思いがけないフュージョンが起こらないとも限らない。 <b>けれども、クイズ王的つまみ食いや、最近巷にあふれている「社会人の為の〇〇」みたいな本ばかり読んで幅広い教養を身に着けよう、なんて戦略は最悪。</b>恐らくは茶飲み話にすら使い物にならないだろうな、と思う。 教養を「使い物になるか否か」という文脈で語るのも憚られはするけれど、<b>使い物になる教養</b>を身に着けようと思ったら、<b>相応の訓練、その分野での認識のスキーマを最低限度は獲得し、多少の専門書も読める、くらい</b>じゃないと。だって<b>問題は認識のスキーマなのだから。</b>色んな認識のスキーマでもって、一つのことがらを色んな切り口・眼鏡で見えるから創造性に繋がるわけで、「社会人の為の○○」読んだところでそんなもの身につきません。 よってもって「幅広い教養」を武器に創造性を発揮する、なんて戦略は、殆どの人に無理な相談なのです。 幅広い教養を否定しているのではない、むしろ教養を広め・深めていくことはとても楽しいことだし、人生を豊かにも、逞しくもしてくれる。だから若者たちには雑食でよいから色んなことに首を突っ込むことを推奨したい。<b>先ずは入門からなんてチマチマせず、最初からプロ級の仕事や技にも触れていって</b>欲しい。でもそれは奥深さの射程を測るため。一朝一夕に新たなスキーマを獲得できることはない。教養は<b>長い年月をかけて少しづつ育んで</b>いくもの。何かの手段としてではなく、それ自体を目的(と言って固すぎるなら趣味)として楽しみながら精神を滋養していくもの。さすればいつの日か、知のフュージョンが起こせるかもしれない。起こせないかもしれない。教養とはそういうものです。 <b>では差し迫った今、創造性はどうやって発揮すればいいのか? 実は専門性にこそ、そのヒントがあるとしたら?</b> 専門性とは、ある認識のスキーマへの習熟、無意識に働き得る認識スキーマのこと。分かり易くこれを色眼鏡と呼んでおこう。さて、仮にある分野でものすごく見通しが良くなる色眼鏡を手に入れているとしよう。それは、その分野の中だけでモノを考えるときにはバイアスのもとにもなり得るだろう。しかし。 <b>その色眼鏡をかけて、他の分野のことを見て見たら</b>どうなるだろうか?当然ながら他分野を見るための色眼鏡ではないから、<b>他分野に最適な色眼鏡とは違った景色が見える</b>はず。 ということは、そうです。これってまさに<b>創造的なモノの見方の出発点</b>ではなかったか? 以前コラムで異質ソリューションの威力というのを紹介した。実はこの<b>異質ソリューションに気づく・発見できる力の源泉・メカニズムの一つが、ある分野の専門性(色眼鏡)でもって他分野を見た時の思いがけない気づき</b>、なのです。 <b>創造性の勝利の戦略は明らかです。専門性を磨くこと。一つは仕事で。そして出来れば何か一つ、全然違う分野で趣味としてセミプロくらいの専門的教養、この二つで十分。</b> そして、その専門の認識スキーマ・色眼鏡・無意識の思考でもって、異分野を見てみる。その異分野でのモノの見方や技術の使い方からすれば非常識なことが見えるはず。非常識=不正解とは限らない。でもそれが正しいかどうかはどうでもいい。あなたに見えた異分野での非常識は、あなたの分野の色眼鏡で見えたモノなのだから、あなたの分野に適合・応用できる可能性は十分あるのです。 ここが重要なTake away。<b>中途半端な「幅広い教養」なんぞであなたの分野内部を見たところで、多分何も新しいモノは見えない・気づきがない。一方、自身の深い専門性で他分野を見たときに、その他分野から自分野に応用できるような、新たなパターン認識が生まれ得る。</b>これは優れて洗練されたアナロジー思考の一種だと言えるだろうが、これを話し出すとまた長くなるので、本コラムはこの辺にて。 (文責:金光隆志)
イノベーションとアート
イノベーションとアートは近親関係にある。 巷では、合理や論理では出てこない解、直観的・感性的な解を求めてアート的アプローチ、云々と言われているようだが、恐らく言っている当人が何のことだかわからず言っている。 消費について、論理ではなく快楽論者である私は、感性の判断を信じるものではあるが、この手の「アート」と「サイエンス」を対立に置いて論じる議論には与しない。 さておき、<b>アートは悉くイノベーション</b>である。 この点を了解するために、アートとは何かを簡単に考察しておこう。 乱暴に言って、<b>アートとは、「日常」「普通」「常識」へのチャレンジ・超克作業</b>である。 例えば。 <b>日常何気なく見過ごしているモノや風景を「異化」「現前化」して新たな意味や今まで感じてこなかった感覚を呼び覚ます</b>。マルセル・デュシャンの「toilet」、Chim↑Pomの渋谷の大ネズミで作ったピカチュウ、谷川俊太郎のいるかの詩、云々。ファインアートにおける「異化」ではシリアスなメッセージ性を持ったものが多いが、それが脱聖化されてポップになると、奇譚倶楽部の「コップのフチ子」「定礎」のような商品、あるいはピコ太郎の「パイナポーアポーペン」になる。 例えば、 作者や作品の唯一性、アウラ、それらを制度的に保証する評論、文壇、美術館といったものの虚構性を暴き出すアプロプリエーションやシユミレーショニズム。これらは言わば<b>非日常や特別ということを「異化」しつつ、逆説的に現代の日常を「現前化」</b>している。ある種の広告表現やハウスミュージックなど、サンプリングやリミックス手法を駆使して作られた作品の、全く空疎だが無意識のうちにハマるドラッグ性を思い起こせばよい。 例えば。 <b>規範や常識・良識と言われているものを「侵犯」「逸脱」し、抑圧されたエロス・タナトスの欲望を垣間見せる</b>作品。マルキド・サド、クロソウスキー、XX等々。それが脱聖化されポップになれば、アヴァンギャルドなアンダーグラウンドカルチャーになる。言うまでもなく消費シーンに現れるアヴァンギャルドは訓化されたアヴァンギャルドだ。 例えば。 <b>「日常」や「普通」を端的に超克した美・快。イデアや神の領域を目指すもの</b>。この系統は制度化・時代の制約を免れがたくはあるが、王立アカデミー系の芸術群、政治性を排して端的に色彩や形態の美を追求したアメリカ版モダニズム、パスティーシュを駆使したトランスアバンギャルド等々。私たちの審美的感覚はこれらのコードを介して内面化されているからして、美意識に訴える商品デザインはこれらのパスティーシュ、パスティーシュの連鎖として現れる。 さて。これらは悉く、「日常」「普通」を打ち破るもの。すなわちイノベーションである。 <b>アートをイノベーションに応用するとすれば、このパースペクティブにおいて</b>であろう。 そしてこれは、半ば方法論化が可能、つまり強力なイノベーション手法になり得るのだ。 方法論化されたアートなどアートたり得ない?そりゃそうです。ビジネスの話なので。 (文責:金光隆志)
異質ソリューションの威力
ヒット商品やサービスにはどんな特徴・パターンがあるのか。誰しも興味があるだろう。ヒットするかどうかには、ネットワーク作用に係わる偶然性の影響が大きい。だが<b>ヒットした結果の商品・サービスを分析すると、そこには興味深い特徴・パターン</b>が認められる。 提供価値における独自性や差別性がヒットの要件のように語られることが多い。 だがヒットの実際を、後付けの説明ではなく<b>発生論的に見てみると、提供価値サイドにおける“あっと驚く”新機軸を考えることから生まれたヒット商品・サービスというのは殆ど存在しない</b>。 実際には、提供価値サイドで見ると、昔から懸案だった大きなアンメットニーズや無意識に強いている妥協、あるいは“こんなことが出来たらいいのに”と誰しもが思っていたもの・思うであろうもの、である場合が圧倒的に多い。例外はエンタテインメントにおける偶発的流行かポストイットのような全くの偶然の効用発見かである。 要は提供価値においては、奇をてらった意外なイノベーションなどのヒット例は殆ど無く“王道の大きな課題解決”がヒット商品・サービスにおける共通要因と言ってよい。なお、余談だが、ここで意図する王道の課題とは消費者にとっての王道の課題のことだが、資源が不足するサプライヤーが自らの課題に対し苦肉の策で編み出した解決策が思いがけない効果を生んで大ヒット、という例も結構あることは付言しておこう。 さて、では“王道の大きな課題解決“がどのようになされているか。実はヒットにおいてはこの課題解決策が、<b>業界における従来の延長線にない、業界内の既存の様式や発想から逸脱した・異質な技術やソリューション</b>による場合が非常に多いのだ。しかも異質導入の結果、商品やサービス形態においても革新が起こり、「新しい形」でワクワクさせるものに仕上がっていることが多い。異質ソリューションの<b>サイドエフェクト</b>は他にも色々あるがここでは割愛する。 課題解決型ではないケース(エンタテインメント等)のヒットでも、価値サイドをいじくりまわして何か生まれたというのではなく、異質な技術や手段を導入した結果、意外な新たな価値や形が生まれて話題となってヒットとなった商品が多い。 要は、ヒット商品・サービスにおいては、提供価値よりも技術やソリューションにおいて業界の常識を逸脱しているケースが圧倒的に多いのだ。その結果として大きな提供価値や新たな提供価値に繋がっている。<b>先進技術・ソリューションではない</b>。その業界では今までになかった異質な技術・ソリューションである。 一番上等なのは、無意識の大きな妥協を異質ソリューションで解決することだ。さすがにそれは簡単ではないにせよ、せめて、<b>当て所もなく革命的な価値を探すことに労力を費やすくらいなら、王道の大きな課題に狙いを定め</b>よう。そこには無謀さがあってもいい。そして、その<b>解決には従来の業界常識を外れた手段</b>にまで発想が及ぶべく準備をしよう。セレンディピティの源泉は、解決したいという強烈な問題意識と限界への挑戦である。 (文責:金光隆志)
価格とコストと創造性と
<b>コストと値付けに関する深い議論をトンと聞かなくなった。特に新事業や新サービス</b>では殆ど聞かないのだ。 基本的にはマークアップ方式で、作るのにだいたいいくらかかるからこれだけマージン乗せて、というような感じであろうか。 <b>ターゲット価格を定めて、それを満たすべく仕様・デザイン・部品・工程などをギリギリと詰めて考えるというのはどうやら時代遅れか的外れ</b>になったかの様相だ。 売れるかどうかも解らない段階でスペックをいじっても仕方ない、先ずは<b>市場にβ版を投入して反応を見ながらリーンに改良</b>を加えていくべきだ、云々。正論である。 イノベーションの段階ではそんなことは考えない、いや考えるべきではない、それは<b>事業が大きくなってきてマスユーザーを対象にする段で</b>改めてしっかり考えるべきことだ。云々。これも正論である。 イノベーションやスタートアップの教科書には大概その手のことが書いてあるだろう。 <b>でもそのことでかえってクリエイティビティが下がっているかもしれないとしたら?</b> 実際創造性の教科書には逆のことが書いてある。 制約を加えた方がかえって創造性は高まるのだと。 市場の商品価値体系を元にシビアに要求価格を設定してみよう。直接競合がいなくても、いやいない時こそ。するとたちどころにトレードオフが発生するはずだ。この機能を入れたい・でも入れると他を削らなければいけない、とか、デザインはこうしたいけどそうすると生産効率が大幅に落ちる、とか。 このAかBかの選択をシビアに詰めるだけでも随分と商品やサービスが洗練されるだろう。そして<b>最も創造性が発揮されるのが、AもBも両方外せないときに浮かび上がる第三の道Cが考案されるとき</b>だ。AもBも満たされる場合もあればAもBも棄却する場合もあるがいずれにせよ第三の道である。 かつて、売上急落に直面したアパレル企業で、毎週このAかBか、いやCだ、の議論をして52週MDプロセスを刷新し、売り上げを急回復させた企業にお目にかかったことがある。 市場の要求価格水準に絶対に妥協しないことで、売れる確率が上がっただけでなく、思いがけないクリエイティブな解決策でむしろデザイン性もよくなってヒットする商品も誕生していた。 既存事業と新事業ではワケが違う、と考える向きもあろう。実際全てが同じではない。しかし、ビジネスである以上<b>価格とコストが最終審級の双璧</b>であり、価格とコストに向き合うことで<b>創造思考も戦略思考も一段と覚醒</b>するこは覚えておいてよいだろう。 (文責:金光隆志)
オフィス移転のお知らせ
このたび、業務拡大に伴い、2024年10月11日より下記の住所へオフィスを移転することとなりましたのでご案内申し上げます。 新しいオフィスは、利便性の高いロケーションにあり、皆様に一層快適な環境でサービスを提供できるよう努めてまいります。 新住所: 〒107-0052 東京都港区赤坂5-2-33 IsaI AkasakA 706 交通アクセス: 5路線を利用可能で、都心の主要駅へ直結する快適なアクセスが魅力です。 赤坂エリアには、多国籍な雰囲気が漂い、多くの大使館が立地しています。 さらに、有名店から気軽に入れるお店まで、多彩な飲食店が点在しており、仕事帰りやランチタイムには、ショッピングやグルメもお楽しみいただけます。 新しいオフィスでの業務は10月11日より開始いたします。 引き続き、皆様により良いサービスを提供できるよう、スタッフ一同精進してまいりますので、今後とも変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。
スクール事業立ち上げのお知らせ
このたびクロスパートとクロスサイト協働で新たにスクール事業を立ち上げることとなりました。 本スクールでは、戦略コンサルタントの中でもTop of topsだけがもつ思考特性を、暗黙知から形式知化し、次世代を担うビジネスパーソンに広く伝授していくことを目的としてプログラムを開発しています。 これまでに有力コンサルティングファームや一流企業の経営企画部門などごく限られた範囲で実施させて頂き効果は実証済みです。 奮ってご参加ください。
オフィス移転のお知らせ
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スクール事業立ち上げのお知らせ
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